3-9 細い腕と甘い匂い、好意について
艶やかな銀髪が風で揺れる。
その白い額は、日光を鏡のように反射している。
彼の周りには多くの妻がいる。
自分もまた、その中に含まれる一人。
しかし自分だけは違う立ち位置に居ると信じており、事実アベルも暗にそれを認めていると思っていた。
それは、妻であると同時に並の兵士どころか、名のある戦士ですら相手にならないこの力で、彼を護っているからだ。
だからいつも一番近くに居ることを許され、それは他の誰にも替えが利かず、これまでもこれからも自分だけがそこに居られるのだと、信じて疑わなかった。
しかしオルは今、とても苛立っていた。
ーーその感情は、嫉妬。
それは今に始まったことではないし、アベルと関われば彼を中心とした色恋を見ない日は無いのだから、多かれ少なかれ、この感情に支配されることは分かりきっている。
それでも自分だけが、特別であるという自負でもって、これまではなんとか溜飲を下げることができていた。
だがそれが今、爆発寸前にまで高まっていた。
自分ではもう、抑えきれないほどに。
(あの女だ…)
ささくれ立つ感情は、鋭い棘を持つ茨の如く突き刺さる。
アベルが新しい妻を連れてくる度に、静かに太く鋭さを増してきた棘は、ここにきて強烈な毒を持つに至った。
(…あの女が現れてからだ)
——
「すまないオル…」
二人きりで出かける予定が、キャンセルになった。
申し訳なさそうに謝罪するアベル。
(ーーそれだけなら、まだ気にするまでもない)
断りの理由は、妻へと名乗り出た者たちの対応のため。
彼の権能が強くなっている証拠なのだから。
(ーーその点については、不服はない)
しかしそう語る彼の隣には、賢者が座っていた。
自分が居た場所に、ずけずけと入り込んできた女。
(何故そこに、お前が居る?)
ザクリザクリと棘が刺さる。
「うん、わかった」
オルは平静を装い、部屋を後にする。
(この女と一緒の空間にいることなど不快でしかない。それに最近は、妙な匂いまでさせるようになった)
だから夕方まで、アベルの寝室の前の廊下で、じっと座っていた。
今日がもう、終わってしまう。
もうどこかに行ける時間でもないだろうと諦め、立ち上がったところで目の前の扉が開いた。
やっと出てきてくれたと笑顔になったが、その人物を見て真逆の表情へと変わる。
(お前か…)
「あ…オルちゃん。ずっとここで待ってたの?…ごめんね」
部屋から出てきた女は心底申し訳なさそうにしていたが、どこかソワソワとした様子だった。
オルは知るところではないが、賢者は先ほどまでアベルと結婚式の打ち合わせをしており、浮き足立っていた。
(なんだその顔は。忌々しい)
そして嫌な香りが鼻をつく。
思い出せないが、オルは過去に同じ匂いを嗅いだ記憶があった。
とても嫌な匂い。
「そうだ!今から私の部屋でお喋りしない?」
「…賢者ぁ」
「えっ?」
嬉々として誘ってくる彼女の細い腕を、オルが掴む。
それを了承のサインと判断した賢者が顔を綻ばせるが、直後その表情が凍りつく。
オルが掴んだ賢者の腕が、バキバキと音を立てて砕かれ、肉と骨がないまぜになったからだ。
「あ…」
ぽたぽたと滴る血。
少し力を込めただけのこと。
人は脆い。
オルにとっては些細なことでも、人はそれだけで運命が大きく変わる。
もうこの女は片手を失い、多くの未来を失った。
「…?」
オルは口角を僅かに上げて、掴む必要の無くなった相手の腕を見る。
しかし、そこには『何の変化』も無かった。
握りつぶしたはずだった。
確かに砕いた手応えがあったし、血しぶきも見た。
ところがその細い腕には、破壊の跡どころか、何の損傷も無かった。
(この女…)
「…あっ、私ちょっとだけ人より丈夫なんだよ」
笑顔で誤魔化すように両手を振ってみせる賢者。
(砕かれた自我があるなら、即時修復か…まさか巻き戻しか?)
「それより、いいよね?」
「何…?」
今度は賢者から腕を掴まれるオル。
振り払っても良かったが、相手を見くびっていたという意識が、それをさせなかった。
攻撃してきた相手に、何事も無かったように好意を寄せられる人間がいるだろうか?
目の前の少女が見た目に反して、まともでないことを改めて知り、その芽を摘み取る手段を探る必要があると感じて、黙ってついて行くことにした。
(この女はーー危険だ)
——
招き入れられた部屋は、他の妻たちと同じ一般的なものだった。
「私もまだ、どこに何があるか分かってないんだけど、適当に座ってね」
賢者が言った『おしゃべり』は、彼女が一方的に喋り、オルはそれを黙って聞く形で進んだ。
こちらが何の反応も示さないとなれば、焦った様子で話題を変える賢者だったが、やがてネタが尽きた様子。
「あの、オルちゃんは…同担拒否なのかな?」
「同担?なんだそれは」
「えっと…」
「…それより、その匂い」
「えっ、何なに?」
賢者がポツリと呟いて俯きかけた時、オルから言葉を投げかけてみれば、嬉しそうにして食いついてくる。
「あ、この香水のことかな?!」
「香水…」
何故目の前の女が、自分からアベルの隣の席を奪えたのか。
ひ弱な体。魔力どころか、マナの核すら感じられない。
どうしてこの女が、『賢者』などと呼ばれているのか分からない。
多少知恵はあるようだが、そんなものは力の前には無力。
弱き者などアベルの周りにはいくらでもいる。
それなのに、この女だけは違った。
その理由がオルには、これまでどうしても分からなかった。
「これは、ロイくんから貰ったものなんだけどね。アベル様ってお花の匂い好きでしょ?だからこの香水も気に入ってくれてるみたいなんだ」
(…そういうことか)
オルは内心で歓喜した。
ーー匂い。
動物は『匂い』を使い、相手を誘惑する。
人も動物と同じだった、ただそれだけの話。
オルにとっては嫌悪するほどに鼻をつく匂いだが、確かにアベルは、花の香りに執着している節があった。
「オルちゃんも使ってみる?」
「いらない。もう帰る」
「え~。またお話、しようね?」
賢者が残念そうな表情を浮かべていたが、オルは無視して部屋を後にした。
—-
(…これか)
屋敷が寝静まった後に賢者の部屋を再び訪れ、化粧棚から紫の液体が入った小瓶を取り出す。
蓋を開けて軽く鼻を寄せてみれば、強い刺激臭がした。
立ち眩みを覚えるが、気にせずそれに指を入れて自身に塗ってみる。
脳が酩酊したようになり、足元から崩れ落ちそうになる。
(…最悪…最悪な匂いだ…。こんな匂いのどこがいいんだ…)
吐き気を催す。
しかし再び元いた席に座れるのならばと、強い意志を持って耐える。
(…これを私が使えば。あの人から最も必要とされている私が使えば、お前の割り込む余地など無い)
気持ち良さそうに、寝息を立てている賢者を睨み、そして香水を懐にしまう。
そして足元をふらつかせながら、銀髪の少女は闇に溶けていった。




