コミックス1巻発売記念SS 中編
思いがけない人物の訪問にアクアマリンは目を瞬かせた。
「アシュレイ、よね?」
疑問形になったのは、薄暗いバーの中でしか彼を見たことがなかったからだった。
今のような日中に、瘴気に覆われた空とはいえ多少明るい状況で改めて目の前にしてみると、本当にこの男は整っているわと思わず感心した。
もう恋愛事はこりごりだが、王女としてさまざまな宝飾品や芸術品に囲まれてきたので、物事を品評しているような感覚に近い。
アシュレイは感情の読めない顔で左手を差し出した。
「これ、忘れ物です」
「……? ああ! ごめんなさい」
丁寧に袋に入れられたポーチを確認すると、アクアマリンは礼を言った。昨晩いつものように夕食を食べに行ったときに忘れてしまったらしい。
「今日も行く予定だったからよかったのに。あと、わたくしの家がよく分かったわね」
「……このあたりには詳しいので。帰り道の途中ですし」
歯にものが挟まったような言い方を不思議に思ったが、ヴィオレッタが「アシュ坊はブラッドレイン家の次期当主だ」と言っていたことをふと思い出す。それから気がついたのだが、バーや仕事中に小耳に挟む魔物たちの世間話にはよく『ブラッドレイン家』という単語が出てくる。魔族で一、二を争う名門だとか、誰それが運悪く血液袋になったとか、もうすぐ代替わりなのではとか、そういう内容だ。
名門家の次期当主ともなれば冥府の地理も当然詳しいだろう。アクアマリンはよくも悪くも時の人なので、知らないところで住居を調べ上げられていてもおかしくない。
少々の居心地の悪さを感じたが、冥府でアクアマリンの人権は最底辺だと自分でもわかっている。気にするだけ無駄なことだった。
「わざわざありがとう」
「それでは」
見送るアクアマリンの後ろで、火の着いたような泣き声が上がった。
「ぷぎゃあ、ぷぎゃぁ!!」
ぎょっとしたアクアマリンはすぐさま中に飛び戻る。
「どうしたのよ。あらあら、机の角にぶつかったの? 薬は備蓄してあるわ。少し待ちなさい」
「…………」
戻ってきたアシュレイはドアのところに突っ立って瞬きを忘れたように目を見開いている。ぎこちなく口を開き、一言だけ声を発した。
「……子供?」
「見ての通りよ」
「あなたは誰の番なのですか」
「はぁ!?」
腫れた赤ん坊のおでこを処置しながら、アクアマリンは盛大に顔をしかめた。
「縁起でもないこと言わないで。どこかの魔物に押し付けられたのよ。親が帰ってくるまで子守りをしなくてはいけないの」
「……それで、便利屋と?」
「その通りよ。ガイルの件で勘違いしてる魔物がたくさんいて迷惑しているの」
アシュレイの声がいつもより低いことにはまったく気がつかないまま、抱き上げても泣き止まない赤ん坊にアクアマリンはうろたえるばかりだ。
「痛み止めは塗ったけど、まだ痛いのかしら。ヴィオレッタの所で診てもらったほうがいいかしら……」
「その子は竜人ですね。赤ん坊といえどかすり傷にもなりませんから、あなたの気を引きたくて泣いているだけですよ」
「そうなの?」
アシュレイは静かに部屋の中に入り、脱いだマントを丁寧にたたむと、アクアマリンの腕の中で泣く赤ん坊をのぞき込んだ。
「僕たちの会話を邪魔するなんて、悪い子ですね?」
アシュレイの縦に避けた瞳孔が開く。赤ん坊はビクッと身体をこわばらせると、しょんぼりとして静かになった。
「泣き止んだわ! すごいじゃない、アシュレイ!」
脅しをかけたことを知らないアクアマリンはパッと顔を明るくする。
「とはいえ、お腹は空いていそうですね。食事を与えてみては」
「それが、うちには赤ん坊が食べられるものが何もないの」
「親は何も置いていかなかったんですか?」
呆れたようにアシュレイがため息を吐く。
「この辺りに住んでいる竜人だと、マクシミリアンの子かもしれないですね。あの夫婦は昔から自由だから……」
ぶつぶつ呟くアシュレイは赤ん坊の親に心当たりがあるようだった。
聞けば夫妻は自由を好み、思い付きであちこち出かけるそうだから、アクアマリンに預けたのではないかということだった。
「この子、今までは一人で留守番していたのかしら」
「かもしれないですね。竜人は赤ん坊でもそれなりの力があるので、このくらいの幼齢でも巣に一人は珍しくありませんが、陽気な性格の個体だと寂しがることはあります」
「わたくしと遊びたかったの?」
尊大に見下ろして問いかけると、赤ん坊は「ぷきゅうっ!」と満面の笑みで両手を広げた。
「……ふんっ」
キラキラした笑顔を直視できなくなったアクアマリンは顔を背け、アシュレイに訊ねた。
「この子の食べるものを作れたりするかしら?」
「もう歯が生えていますね。これならあなたが食べるものを細かく切ってやれば問題ありません」
「そうなの?」
アクアマリンはホッとする。自分と同じでいいならば、蓄えてあるものを刻めばいいだけだ。
赤ん坊を下ろして戸棚からいくつか干物を取り出すと、アシュレイは眉間に皺を寄せた。
「一応お聞きしますが、それは何ですか?」
「笑いイワシの干物と乾パンだけど」
「……あなたの通常の食事というのは、まさかそれなのですか?」
「そうよ。なにか問題ある?」
無言で顔を手で覆ったアシュレイにまったく構うことなく、アクアマリンは台所で干物を刻み始める。
白魚のような手にナイフはまったく似合わない。手つきは非常に危なっかしく、様子を見に来たアシュレイは気が気ではない。
そして案の定、アクアマリンは小さく悲鳴を上げた。
「きゃっ」
「――!」
指の先にぷっくりと赤い雫が盛り上がり、アクアマリンは顔をしかめた。
「忌々しいナイフだわ。何回わたくしの指を傷つけたら気が済むのかしら?」
最初は怪我をするたびに涙ぐんでいたアクアマリンだが、今では悪態をつけるほど慣れていた。
手早くハンカチで止血し、振り向くと。
アシュレイの表情を見たアクアマリンは小首を傾げた。
「……どうしたの?」
彼は雪よりも白い肌を耳の先まで真っ赤に染め上げ、口元を手で覆っていた。




