コミックス1巻発売記念SS 後編
アクアマリンの声で我に返ると、アシュレイはすぐさま顔を背けた。
「なんでもありません。怪我は平気ですか?」
「ええ、大したことないわ。……ああ、アシュレイは吸血鬼だものね。もしかしてあなたもお腹が減っちゃった?」
こちらを向いてくれないアシュレイを不思議に思いながら、アクアマリンは言葉を続ける。
「そういえば、ヴィオレッタを紹介してくれたお礼をしていなかったわね。血を吸われるのって痛いのかしら? あいにく大した財産が無いから、一回なら血をあげてもいいわ」
痛くないならね、と再度念を押してアクアマリンは笑う。
「……簡単にそんなことを言ってはいけない」
アシュレイは何かをずっと耐えているように、苦しげに絞り出した。
「それに、誰の血でもいいってわけじゃない」
「あらそうなの? まあ、確かに同じ赤ワインでも産地が違えば香りや味が違うものね」
「そういうことじゃなくて。……自分の舌に合う素晴らしい血液に出会ってしまえば、永遠に手放せなくなってしまう。僕みたいに血しか飲まない吸血鬼はひときわ執着心が強いんだ」
「吸血鬼族は美食家なのね」
血液専門のアシュレイは言わずもがな。ヴィオレッタも自分のことを悪食だと笑っていたが、美少女の血液を魔王におねだりしていたことから一定の好みはありそうだった。
「気に入られた人は大変だわ」
「そう。だから……簡単に血を差し出すなんて言わないほうがいい」
「わかったわ。ところでアシュレイ、あなた大丈夫? 暑い?」
アクアマリンに見つめられてアシュレイはますます顔を赤くする。やむなしといった様子でハンカチを取り出すと、鼻と口を覆った。
「何をしているの?」
「………………こいつが」
「ぷ、ぷきゃぁ!?」
アシュレイは足元をうろついていた赤ん坊をつかみ上げ、下半身を指さした。
「……ああ! おしめね」
忘れていたという顔でアクアマリンは頷いた。
「僕が替えてきます」
「悪いわね。清潔なタオルは隣の部屋の棚にあるわ」
「ぷきゃっ!? ぷきゃっ! ぷきぃーっ!!」
身体をくねらせ抗議する赤ん坊と共に、アシュレイは隣の部屋に消えていった。
おしめの取り換えにしては長い時間が経過してアシュレイが戻ってくる。顔色は戻っているが鼻と口を覆うハンカチはつけたままだ。
「それ、外さないの?」
一目で質がいいと分かる服を着こなしている彼に、その覆い布だけはアンバランスだ。奇妙で面白いとも言える。
「……何回か取り替えることになると思うので、外すのが面倒です」
「まあ、それもそうね。アシュレイ、ありがとう。あなたがいてくれて助かったわ」
「どういたしまして。それ、貸してください。僕が作ります」
なんとアクアマリンはまだ干物との格闘が終わっておらず、指先の怪我は三つに増えていた。
「結構よ。ちょっと時間はかかるけど、自分でできるから」
「いいから。これ以上は我慢できる自信がありません」
「怪我の話? 別に、これくらい平気よ」
「あの子もお腹が空いてますから」
アシュレイが無言の圧でナイフを取り上げたため、アクアマリンはしぶしぶ赤ん坊の相手に回る。
彼はとても手際よく干物を刻み終え、おもむろに外に出ていったと思ったら、大きなイノシシのようなものを担いで戻ってきた。返り血に染まった服はかなり物騒だが、当の本人は髪一本乱れておらず涼しい顔だ。
「アシュレイ、それはどうしたの」
「ストームボアです。肉もあったほうがいいでしょう」
「そうではなくて、いったいどこで手に入れてきたのかと聞いているのよ」
「狩ってきました」
「え!? い、今?」
「……そうですけど」
なぜアクアマリンが驚いているのか分からずアシュレイは訝しんだが、ナイフを光らせすぐに下処理に入る。手早くやらないと臭みが出てしまうのだ。
そうして出来上がったボア肉のグリルはアクアマリンの口に合う極上の一皿だった。赤ん坊も両手で鷲掴みにしてむしゃむしゃと食べている。こういうところを見るとやはり人間の子供ではなく魔族だということを実感させられるのだった。
——夕方。赤ん坊を引き取りに来たマクシミリアン夫妻にアシュレイは釘を刺す。
「子守の用意もなく置いてくなんて。預けるならきちんと準備をしてください」
「ごめん、アシュレイ。君も面倒を見てくれたのか? 急用でバタバタしててすまなかった」
「この人は食事の用意をしようとして怪我したんですよ」
「マジ!? それは本当に申し訳なかった。回復してあげるから見せてごらん」
「大したことないから気遣いは不要よ」
アクアマリンは丁重に断り、父親の腕に収まる赤ん坊の顔をのぞき込む。ベルハイムで好んで食べていた上等な白パンみたいな頬をつつき、自然と口角を上げた。
「竜人の成長は早いと聞いたわ。うちの手伝いをするなら、また来ても構わないけど?」
「ぷきゃあ~っ! きゃっきゃっ」
赤ん坊が喜ぶとアクアマリンはハッとして笑顔を引っ込め、腕を組んで離れた。
「……足手まといになるようだったら、すぐに追い出しますからね」
「擬態さん、今日はありがとう。レナートがこんなに楽しそうにしているなんて初めて見たわ。アシュレイ様にもご迷惑をおかけしました」
マクシミリアン夫妻は何度か振り返って会釈をしながら、森の奥に姿を消していった。
「では、僕も帰ります」
「本当に助かったわ。今夜もお店に行くわね」
歩き出していたアシュレイは、少し振り返ると微笑を浮かべ、またすぐに前を向いた。
おそらくこのまま店に行くのだろう。丸一日徹夜しているはずだが少しも疲労を感じさせず、ずっとアクアマリンとレナートを助けていた。
「……アシュレイはすごいわね。自分は血液しか飲まないのに、あんなに美味しいものが作れるんだもの。遊んであげるのも上手だったわ」
ふと、彼は普段いったい誰の血を飲んでるのだろうという疑問が浮上する。彼のように血液しか飲まない吸血鬼は、これ以上ない美味しい血液の持ち主に出会うと執着して永遠に離さないと言っていた。
(…………)
アクアマリンは無言で胸に手を当てる。
(別に、誰だっていいじゃない。アシュレイは潔癖そうだから、どこかのお姫様とでも仲良くやっているんでしょう)
家の中に戻り、後ろ手にドアを閉める。
つい先程まで三人で賑やかに過ごしていたのが嘘みたいに静まり返っていた。
(……やっぱり出かけるのはやめにする。今日はもう寝るわ)
思いのほか疲れを感じていた。明日も魔王城で仕事だし、寝坊するわけにはいかない。
寝支度を済ませて早々にベッドに入ったアクアマリンだが、最近は感じなくなっていた胸がキュッとするような感覚に襲われる。それは彼女が大嫌いな、ひどく不快な感覚だった。
(馬鹿馬鹿しい。だから誰かと関わるのは御免なのよ)
自分は冥府で唯一の人間で、魔族と馴れ合うなんてできるはずがない。
今日一日の出来事を頭の隅に追いやると、枕元の蝋燭を吹き消してきつく目を閉じるのだった。




