第3話
新しい店で働き始めて一年ほど経った頃、食料の買い出しに街を歩いていたエミリアは声をかけられた。
夜間高校で一緒だったクレアだった。
「まあまあ、綺麗になって。少しふっくらしたかしら。今はこちらに住んでいるの?」
「ええ。お久しぶり。クレアは変わりないようね。わたしは仕事が見つかって、一年前に王都に引っ越してきたの」
詳しく話を聞かせて、と言うクレアに連れられ、近くの喫茶店に入った。クレアの行きつけの店らしく、蜂蜜を落としたミルクティーがおいしいのだと勧められた。
「エミリアも同じ区画に住んでたのねえ。それでもこんなに長く出会わないなんて、王都は人が多いわね」
「そうね。けれど、わたしが普段、店と自宅の往復しかしていないからかもしれないわ。まだまだ仕事に慣れなくて、出かけるのは休日の買い物ぐらいなのよ」
エミリアは、蜂蜜と温めたミルクを入れた紅茶をかき混ぜながら言った。ミルクがカップの中で渦を巻いていくのを眺める。
卒業して転職したらあれもしたい、これもしたいといろいろ考えていた。しかし、結局は仕事に手を取られて、憧れていた安息日前の夜遊びなんて、一度も機会がなかった。
いや、そうしたいと思えなかったのかもしれない。なぜなら――
「お城の文官のクリフトンさんを覚えてる? エミリアに勉強を教えてくれていた人」
唐突にクレアが言った。エミリアは顔を上げた。
「去年の春にまた文官の勉強会があったみたいで、打ち上げに来てくれたのよ。その時にエミリアがいないことを尋ねられて、卒業したと伝えたらとても喜んでいたのよ」
エミリアの心臓が跳ねた。
今まで仕事が忙しく、考えないようにしていたクリフトンのことが一気に思い出され、言葉に詰まった。
「クリフトンさんには会ってないの? 新しい仕事に就いたことを連絡してみたらどうかしら」
「いえ……。彼とは最初に会った年の最終日の打ち上げ以来、連絡を取っていないの。実は、借りていた参考書を返すために連絡先をいただいていたのだけと、まだ連絡できていないのよ」
「それは日が経つにつれ、余計に連絡しにくくなるんじゃない? 早く会いに行った方がいいわよ」
「そうね……」
エミリアは仕事が忙しいことを自分への言い訳にし、クリフトンのことを考えないようにしていた。
時が経つにつれ不安が募り、勇気がなくなったのだ。あの最後の時の彼の笑顔は記憶の中ですでに薄れ、どうすればいいか考えることすらためらうようになっていた。
クリフトンに忘れられているということはないだろう、と思う。だが、もう彼はわたしに会いたいと思っていないかもしれない。城の文官なのだ、他にも出会う女性はたくさんいるだろう。想像は悪い方へ膨らみ、不安は大きくなっていった。
借りた参考書は郵便で送って返せば済むことなのだ。だが、彼との唯一のつながりを失くすことも、エミリアにはできなかった。
エミリアは何と答えていいか考えをまとめることができず、傍らのディスペンサーに入った蜂蜜をぼんやりと見ていた。
「あらあら、その顔は勇気がなさそうね。いいわ、わたしが手伝ってあげる」
クレアはエミリアの悩みを吹き飛ばすようにお茶目に笑った。
まだ夜は冷える春の夜、エミリアはかつて毎週通った大学の構内にいた。
いつも泊まっていた仮眠室でそわそわとしながら、クレアを待つ。
時刻は二十四時前。その日最後の授業が間もなく終わる頃だ。
今年も大学で文官の勉強会が行われることを教えてくれたのは、情報通のクレアだった。
どうやら、文官の仕事が手すきになるこの時期は、毎年ではないが勉強会を開いているのだそうだ。
そして、その開催場所はいつもまちまちながら、今年もこの大学に決まった。
「きっとクリフトンさんも来るわよ。その時に会って本を返せばいいわ」
「本当に来るかわからないけどね」
「後ろ向きになってるわねえ。その時は他に方法を考えましょう。今日は卒業生として、打ち上げに参加していけばいいわ」
クレアは明るく言ったが、エミリアは緊張しどおしだった。もしクリフトンがいたら、クリフトンに会ってどう話せばいいのか、こんなに年月が経って会うなり怒られるのではないか、いろいろな考えが頭を巡った。
「さあさ、打ち上げの会場に行きましょう。荷物は持った?」
仮眠室に入って来たクレアが言った。エミリアは差し入れを入れた籠と参考書の包みを抱えた。
「ええ、大丈夫よ。行きましょう」
教室までの薄暗い廊下を歩く。窓の外は真っ暗で、薄い明かりに照らされたクレアとエミリアの歩く姿が映っている。エミリアの顔は緊張と決意で青ざめていた。
明かりが漏れている教室の扉を開け、クレアが言った。
「お待たせ! 今日は卒業したエミリアが久しぶりに来てくれたわよ!」
教室の中の顔ぶれは、あまり変わっていなかった。新しい生徒もいるが、同級だった老紳士や元不良もおり、一年生組だった生徒もほとんどがそろっていた。
皆わっと寄ってきて、口々にエミリアに話しかける。もう会うこともないのだろうと思っていたが、懐かしい人たちを見ているとエミリアも顔がほころんだ。
生徒たちに囲まれて挨拶を交わしていると、部屋の隅に立つ男性の姿が見え、エミリアは思わず息を呑んだ。
クリフトンだ。
エミリアは差し入れの籠を生徒の一人に渡し、輪を離れた。こちらを見ているクリフトンに近づいていく。
クリフトンは二年前と変わらない姿で、にこりと笑いかけた。
「……エミリア。卒業したって聞いたよ。がんばったね。おめでとう」
「ありがとうございます。……あの、ご無沙汰していました。連絡、できなくてすみません」
「うん……」
二人とも言葉が続かず、会話が途切れた。
エミリアは持っていた包みを差し出した。
「参考書をお返ししに来ました。長い間お借りしていてすみません」
「これ……。そうか、今日は会いに来てくれたんだね」
クリフトンは蜂蜜色の目を瞠ったが、次の瞬間希望に溢れた表情になり、手を差し出して包みを受け取った。
「はい。勇気がなくて、今まで理由を付けて返しに来られなかったのですが……」
「ずっと、待っていたんだ。来てくれてありがとう」
クリフトンの瞳は、あの頃のようなとろけそうな蜂蜜のように見えた。
エミリアの心は舞い上がった。
「わたしも、クリフトンさんに会えてうれしいです。まだ、新しい仕事に慣れたわけではなくて、一人前とは言えないのですが…………お会いしたかったです」
エミリアは言葉に詰まりながらも、ようやく素直な気持ちを言葉に出すことができた。
固く握りしめていた彼女の両手を、クリフトンの手が包んだ。
「あれからどんなことがあったのか話してくれないか。会えなかった時のことを全部知りたい」
「……はい」
そして、エミリアの生活に新たな習慣が加わった。
かつては夜間学校に通っていた安息日前の夜、クリフトンと会うようになったのだ。
週に一度、外で食事をしながらその週会ったことを語り合い、夜の街を歩く。二人はこの上なく安らいだ時間を過ごしていた。
エミリアの仕事にも少しずつ余裕が出てきた。新しく習得した縫製技術は筆頭針子のお墨付きをもらえるようになり、顧客への対応にも慣れ一人で客を任せてもらえるようになった。
エミリアは最近、肩の力を抜いていられるようになったことに気づいた。
クリフトンが心に秘めていた気持ちを漏らしたのは、二人がいつものように川沿いの遊歩道を歩いていた時であった。月は見えないが、煌めく星と川に沿って立っているガス灯が、二人を薄明るく照らしている。
「本当は、卒業後に君が会いに来てくれるか自信がなかった」
日中の陽気で温められた肌を、夜風がひやりと撫でる。もう夏の入り口とは言え、夜はまだ過ごしやすい涼しさだった。
「一度欲しいと思ったものをあきらめたことはない。けれど、自分にできることが何もない中で、待つしかないのは初めてで、苦しかった。格好をつけずに、待っていると言えばよかったと、何度も後悔した」
彼はぽつり、ぽつりと言葉をこぼす。
「君が卒業したと聞いたとき、一度は喜んだんだ。これでもうすぐ君が会いに来てくれるだろうと。
だけど、日が経つにつれ君はもう僕を忘れてしまったんじゃないかと疑心暗鬼に駆られるようになった。不安と期待が交互にやってくる毎日だった」
エミリアは彼の言葉の続きを待った。風が強く吹き、二人はしばらく言葉もなく歩いた。
「君を忘れることもできずに待つしかなかった。
あの日、打ち上げに現れた君を見ても僕に会いに来てくれたのか自信がなかったんだ。
本を返してもらって初めて気づいたんだよ。あの時は言葉にできないぐらいうれしかったなあ」
クリフトンの心からの言葉に、エミリアは胸がいっぱいになった。
いつも人を気づかう余裕があるクリフトンが不安になっていたと知り、申し訳なかったと思う反面、そこまで自分のことを忘れずにいてくれたことがうれしかった。
エミリアは、そっと頬に添えられた手のひらのあたたかさを感じながら、クリフトンを見上げた。
今までは、彼のことを何事も余裕でこなす超人のような、どこか遠い存在だと思っていた。自分と同じように悩みや苦しさを抱えた人間だったのだと知り、彼を近くに感じた。
彼の胸に手を当てると、エミリアと同じように鼓動が速く脈打っていた。
唇に触れる直前まで見えた彼の瞳は、やはりとろける蜂蜜のようだった。




