第2話
文官の勉強会は三ヶ月続くようで、クリフトンとは夏まで毎週打ち上げで顔を合わせた。文官たちは夜間高校の生徒たちにすっかり馴染んだようだった。
クリフトンはエミリアが幾何学と代数に悩んでいることを知り、昔使っていたという参考書を貸してくれた。
「あらあら、すっかり仲良くなったのねえ。そのうちいい知らせが聞けるのかしら」
その日の打ち上げが終わった後、クレアがにこやかに話しかけてきた。
クレアとエミリアは空いたグラスを載せた盆を持ち、給湯室へ向かっていた。夜の廊下は必要な場所しか明かりが灯されておらず、奥の方は薄暗かった。
給湯室の明かりを入れると、エミリアは流しにグラスを置いて洗い始めた。
「わたしは夜学で手一杯よ。そんな時間ないわ」
「時間なんて、若ければいくらでも作れるじゃない」
そんなわけがない。今までですら仕事と勉強と自分のことで精一杯だったのだ。
時間も身体も、心の余裕もない。恋愛なんて不確実なものに、心を割く余裕はないのだ。そんなものを気にかける時間すら惜しい。
六年も年月をかけてやっと、手を伸ばせば届きそうなところに卒業があるのだ。エミリアがそちらを選ぶのは当然だった。
「わたしには難しいわ。そんなに器用にいろんなことをこなせないもの」
「エミリアは今でも十分がんばっているわよ。もう少し気を抜いて楽しんでもいいと思うけど」
エミリアにとっての恋愛は、気を抜いて楽しめるようなものではない。
仕事と勉強しかしてこなかった彼女には、もっと切実で焦りや緊張を伴う未知の経験だ。
そんな風に人生を楽しめる余裕のある人がうらやましい、とエミリアは内心ため息をついた。それは皮肉ではない。どうすればそうやって楽しめるようになるのか、いつも何かに追われるように生きてきたエミリアにはわからなかった。
「今は代数と幾何学で頭がいっぱいよ。気を抜いたらいつまで経っても卒業できないわ」
エミリアはへらりと笑って、クレアの詮索を振り切るように洗い物に集中した。
クリフトンと話すのは楽しかった。
打ち上げの後、それまでは短い仮眠を取り始発の乗り合い馬車で帰るのが常だった。
クリフトンと出会ってからは、仮眠せず朝まで空き教室で話をしたり勉強を教えてもらったり、眠気を忘れるような充実した時間を過ごしていた。
初めは男性と二人で夜を過ごすのが気づまりだったが、慣れると彼は驚くほどに話しやすい人だった。
エミリアが集中したいときはそっとしておいてくれ、詰まってしまうと気づいてさりげなく教えてくれる。眠くなってきた時には、気分を変えようと明るい話をしてくれたり飲み物を入れてくれたり。
自分も本を読んだり書き物をしたりしているのに、エミリアの気配をすぐに察知してくれるのだ。
「クリフトンは気づかいの上手な人だわ。やはり城勤めの人はこれぐらい当たり前なのかしら」とエミリアは内心舌を巻いた。こちらを気づかってくれる彼といるのは、回数を重ねるごとにエミリアにとって日常の忙しなさを忘れほっとできる時間になっていった。
だが、困ったこともあった。
「幾何学が憎い……」
机に突っ伏しているエミリアが手に握っていたのは、その日返却された小試験の回答用紙だった。
結果は幾何学、代数ともに四割の正答。少しずつ成績は上がっていたが、今年の卒業試験を受けられるほどではなかった。
「代数と幾何学以外は、このまま進めれば卒業試験にも合格しそうだね」
と、クリフトンが他教科の小試験の結果を見ながら言った。
卒業試験では、各科目七割正答しなければ、単位を認定されない。クリフトンの参考書を片手に苦手な単元をやり直しているが、今の進み具合では試験には間に合わないだろう。「苦手な」というが、エミリアにとってはほとんどすべての単元が得意とは言えない単元なのだ。復習が必要な箇所は山のように積み上がっていた。
卒業まで手が届きそうに見えるが、そこには代数と幾何学という高い壁が立ちはだかっているのだ。
「なぜ得意な教科と苦手な教科があるのかしら。歴史はすんなりと頭に入るのに、幾何学と代数はどんなに押し込んでも頭に入っていかないのはなぜ……?」
エミリアは独り言をつぶやいた。
「それは、好き嫌いによるんじゃないかな。好きな教科だと、興味があるから吸収しやすいんだろう」
クリフトンが読んでいた本から目を上げ、くすりと笑って言う。
「代数だって、初めからすらすら解ければ好きになれてたと思います。何も知らないのに嫌いになれるわけもないでしょうし、初めは何とも思ってなかったのではないかしら。だけど、これだけ苦手になってしまったら、今から好きになるのは難しいでしょうね」
エミリアはため息をついて、クリフトンからおやつにもらったチョコレートをひとつ口に入れた。口の中でほろ苦い甘さとともにとろける。小箱に並んだチョコレートは、明かりに照らされつやめいていて、クリフトンの髪の色を思わせた。二人だけしかいない夜の教室で食べるお菓子に、少し悪いことをしているような気持ちになった。
「まるで代数が悪いみたいな言い方だね」
「代数にも歩み寄りが必要だと思います! わたしがこんなに一生懸命問題を解いているのに、あちらにはまるで優しさが感じられません。今のわたしなら、ちょっと優しくしただけできっところりとなるのに」
エミリアの愚痴に、クリフトンは困った子どもを見るように微笑んだ。
その瞳に、エミリアの胸はぎゅうっとなった。
こちらを見ている時、話している時のクリフトンの瞳は時折、今のようにとろけた蜂蜜のようになることがある。
エミリアはその瞬間の切なくなるような、胸が締め付けられるよう気持ちを、その時間だけで忘れるようにしていた。わたしの限られた時間に、それを思い返すような余裕はないのだ、と自分に言い聞かせて。
週に一度の短いひと時は、甘やかな気持ちを感じられる唯一の時間だった。だがその記憶や思いを持ち帰ってはいけない。そう思うのに、仕事で針を休めた瞬間、自宅での勉強中にひと息ついた瞬間などに、彼の瞳が頭に浮かんでしまい、振り払うのに苦労した。
夏が来て、今期の授業が全て終わった。同じ日に文官の勉強会も終わった。
卒業の決まったブライスの祝いも兼ねていつもより盛大な打ち上げが行われ、皆は笑って別れた。夜間高校の生徒たちは来期の再会を約束した。
エミリアはクリフトンに参考書を返し、礼を言った。
「貸していただいてとても役に立ちました。クリフトンさんが教えてくださったことも。ありがとうございました」
「エミリア。……これからも、僕と会ってくれないか。もっと君といたいんだ」
「クリフトンさん、それは…………ごめんなさい」
エミリアはまぶたを伏せて言った。その瞳は半分隠れていたが、暗い灰色にけぶっている。
「わたしは器用じゃないんです。仕事と夜学で一杯で、あなたとお会いできる時間は作れません」
卒業したら、と考えたこともあった。だが、夜間高校を終えることはエミリアの目標ではなく、通過点に過ぎなかった。卒業できたら、その後は転職し新しい職場で働くのだ。転職がうまくいくのかもわからないし、うまく職に就けたとして、その先もまだ見えていない。エミリアはいつクリフトンのための余裕を作れるようになるのか、見当もつかなかった。
断りたくはなかった。エミリアもクリフトンと会いたかった。しかし彼女の理性はそれを許さなかった。
夜間高校と転職をあきらめるか、クリフトンをあきらめるか。エミリアはやはりクリフトンをあきらめるしかなかった。
「そうか、無理を言ってすまなかった。君の状況はわかっているはずだったのに、どうしてもあきらめきれずに願ってしまった」
彼は残念そうな顔をたが、微笑みを浮かべてあっさりと引いた。
「だが、その本は君が持っていてくれないか」
クリフトンは、返された参考書を再びエミリアに渡した。
「卒業を目指すなら、まだこれは役に立つだろう。君が卒業して落ち着いたら、返しに来てほしい」
「そんな、まだ卒業後のことなんてわからないのに、そんなお約束できません」
エミリアはためらったが、参考書を持つ彼女の手に自分の手を重ねて言った。
「待っている、と言って君に余計な気をつかわせたくない。だから無理に返さなくてもいいよ。卒業した後に、僕のことを覚えていてくれたらでいい」
「……わかりました。けれど、卒業までに何年もかかって、クリフトンさんの方がわたしのことを忘れているかもしれませんよ」
「どうだろう。俺は忘れないと思うよ。一度欲しいと思ったものを、あきらめたことがないんだ」
クリフトンはそう言った。それは不敵と思える言葉だったが、彼はエミリアの不安を払うように柔らかく微笑んだ。
夏が過ぎ、秋の到来とともに新しい一年が始まった。
エミリアは夏の間も自宅で復習をしていたので、心に余裕を持って授業に臨めた。
だが、クリフトンのいない放課後は何かが足りないように思えた。エミリアは初め寂しさを振り切る努力をしていたが、授業が進み忙しくなるにつれその思いは薄れていき、やがてクリフトンと出会う前の日常に戻っていった。
その年の卒業試験に、エミリアは合格した。
最後の授業が終わった日、放課後の打ち上げで生徒たちは口々にエミリアを祝い、送り出してくれた。エミリアは、生徒たちとの別れを惜しみながらも、長年の学校生活が終わったことに安堵した。
次の朝、修了証を手にエミリアは王都を後にした。
勤めいている店を辞めたのは、それから半年後だった。
以前勤めていた同僚が、王都にある店に来ないかと誘ってくれたのだ。今よりも大きな店で、給料も上がる。エミリアは退職を申し出、抱えていた仕事の引き継ぎを終えると、王都に引っ越した。
王都はそれまで住んでいた小さな町より活気にあふれていた。
夜間高校への通学で毎週通っていたが、エミリアが知っているのは馬車の乗降場と大学の限られた区域のみであった。新しく住む家や勤める店の近隣のことは何も知らず、越してきた当初は雑多に立ち並び客を呼び込んでいる商店や、平日でも混雑する人波に驚いてばかりだった。
新しい勤め先は富裕層向けの仕立て屋で、今までとは違い客に対応する仕事も任されるようになった。勝手の異なる新しい店の雰囲気と仕事にエミリアが慣れるのには、時間がかかった。
以前の店でも丁寧な物腰を心がけていたが、相手が客で富裕層となるとそれだけでは足りない。エミリアはそれまで経験のなかった顧客対応に初めは戸惑っていた。緊張して言葉がうまく出てこなかったり、言いたいことを伝えられなかったり。何度か失敗を繰り返しながらも、徐々に客たちからうまく要望を聞き取り、注文を受けられるようになっていった。
以前の店でのように、店の奥で注文書を見ながら縫っていた時とは違い、客の顔を見てその身を包む服を作ることには充実感があった。仕事ができるようになるにつれ給料も少し上がり、やる気を出したエミリアはさらに、閉店後に先輩の針子から新しい縫製の技術を学ぶようになった。
エミリアの生活は、ますます仕事一色になっていった。
エミリアは忙しい日々の中で、クリフトンに参考書をどうやって返しに行けばよいのかと、ふと考える瞬間があった。連絡先は聞いていたので早く返しにいくべきだとは思っていたが、クリフトンとどう話せばよいかと考えると、心は二の足を踏んだ。
考えはまとまらず、参考書はエミリアの部屋の机にずっと置かれたままだった。




