第1話
安息日の前日、二十時。人々がはめを外し盛り場に集い、または恋人たちが逢引きする夜。ましてや春の気持ちのいい夜ならなおさらに、華やかな夜だった。
けれど、エミリアにとっては違った。
「お疲れさま」と言い交わし、職場の控室で急いで帰り支度をする。職場を飛び出し走るエミリアの、シナモンのような色の髪が揺れる。
五ブロック先の馬車の乗降場から乗り合い馬車に乗り込み、何度か乗り継いでやってきたのは、二つ隣の王都。時計塔が目印の、規模の大きな大学のとある教室だった。
夜間高校――この国では十六歳から十七歳の二年間通う高等学校に、事情があって通えなかった者たちが高等課程の教育を学ぶ場所。それがこの大学の夜間の教室に開講されていた。
二十時ぎりぎりに教室に飛び込んだエミリアは教卓近くのいつもの席に着くと、教材を取り出してからハンカチで汗を拭い、息を整えた。
「エミリアさん、今日は配布物があるんだよ」
近くに座る同級の中年男性が教えてくれる。黒板を見ると、教卓に配布物が置いてある旨が書かれている。
「ありがとう。取って来るわ」
エミリアは礼を言い、教卓へ取りに向かった。
配布物は、今年の卒業試験の受験申込書だった。ちらりと中を見て、書類挟みにしまう。
ほどなく授業が始まった。
授業は、二十時から二十四時までの三コマ。間に休憩を二度挟む。一コマ目の授業は国語だった。
今日は仕事がおして夕食が取れなかったためお腹がくうくう鳴ったが、素知らぬふりで授業を受け、一度目の休憩で持っていたサンドイッチにかぶりついた。
「エミリアさんは今度の卒業試験は受けるのかい?」
先ほどの中年男性が話しかけてきた。
この街の時計店で働くブライス。片脚が悪く学校に通えなかった彼は、中等課程までを独学で学び、二年前からこの教室でともに受講している。
「いいえ、わたしは今年は受けない。幾何学と代数が難しくて受かりそうにないから……」
エミリアは行儀悪く口をもぐもぐさせながら言った。
光の加減によっては、灰色にも見える薄い水色の瞳が揺れる。
エミリアはこの二年次の授業を、もう四年受けていた。卒業試験までの内容はひと通り受講したのだが、一年次の授業よりも内容が難しく、週に一度の授業と自宅での復習では卒業試験には不足だった。昨年初めて受けたのだが、幾何学と代数で不合格だった。
「私は今度の試験を受けるつもりなんだ」
「ブライスさんならきっと受かるわ。わたしよりも頭がいいもの」
「はは、褒めてくれてありがとう。でも、店が暇だから、その分勉強に時間を充てられているだけだ。エミリアさんのように遠くから何年も通うなんて、その方がすごいことだよ」
「そうだよ、若い女の子が土曜日の夜に学校なんて、周りはもっと遊んでるだろうに。えらいことだ」
そう言葉を挟んだのは、ブライスの後ろに座っている老紳士。彼は戦争で学校に通えず、中等課程から夜間学校で授業を受けている。夜間学校の中等課程は住まいの近くで修めたそうだが、高等課程は王都でしか開講されていないため、隣町から通っている。この教室で最年長の生徒である。
「もうそれほど若くはないわ。それにみんなはもうとっくに勉強したことを、ここで今学んでいるのだもの。わたしが遅れているだけで、褒めてもらうことではないわ」
エミリアはそう言い、手を拭くと紙コップから水をひと口飲んだ。
エミリアは郊外にある小さな町の、あまり裕福ではない家に生まれた。十五歳の時、両親が亡くなったため高等学校への進学をあきらめ、社会に出て働くことになった。
高等学校には皆が進学するわけでないが、その場合は職業訓練校に一年通ってから就職する者がほとんどだったので、中等学校を出てそのまま就職したエミリアは珍しかった。職業訓練を飛ばして就職したため給料は低かったが、働き口があっただけましだった。
針子として町の洋装店に勤めて五年、変わらぬ仕事と給料にうんざりし、高等課程を修めればもう少し金払いのいい店に移ることや他の仕事に就くこともできるはずだと、夜間学校に通うことに決めた。
高等課程は夜間学校でも無料で受講できる。しかし、そこまでの往復の交通費は自分で負担する必要があるし、週に一度とはいえ仕事をしながら通うのは思った以上に大変だった。全日制の学校では二年間毎日通って習う内容を、週に一度の授業で習得するのだ。必然、授業は詰め込みである。
そして、授業についていくための予復習をする時間を取るのが、何よりも難しかった。仕事が終わった後に身の回りのことをし、就寝するまでの間が一日で最も長く取れる時間だったが、その短い時間に集中力を振り絞っても、普段使わない言葉や数式を覚え使いこなせるようになるのはとても難しい。
エミリアは一年次の課程を終えるのに三年、二年次の課程に今で四年かかっている。あと一、二年の体力と気力が保つ間に卒業したい。年齢を考えても、全く新しい職に変わるのは厳しくなっていく。だが見通しはまだ立っていなかった。
二コマ目の歴史の授業が始まった。
エミリアは歴史の授業が好きだった。過去の人がどのように考えて動いたのかを想像し、それが複雑に絡み合って一枚の織物のように歴史となっていくのが壮大なものに感じられる。講師の話を聞いているだけで、見たこともない昔の人間の姿や出来事が目に浮かぶようだった。この授業を受けている時は、学ぶ楽しさを感じるのだった。エミリアは、薄い水色の瞳を煌めかせて授業に聞き入っていた。
三コマ目の授業が始まる前、手洗いで老婦人に声をかけられた。
「今日はここで城の文官が勉強会を開いているんですって。放課後の打ち上げに誘ってみようかしら」
彼女は一年次の課程を受講しているクレア。若くして嫁いだため進学をあきらめたが、子どもを四人育て上げた後、こうして夜間学校に通っている。エミリアと同じ教室になったことはないが、おしゃべりで快活な彼女はこうしてよく話しかけてくれる。
「お城の生え抜きの文官なんて、放課後のわたしたちの打ち上げに参加してくれるかしら。慇懃に断られるか無視されそう」
とエミリアは答えた。
「そこはわたしの得意なところよ! わたしに任せてくれたら、エミリアの好みの殿方を必ず連れて来るわ」
クレアは笑って言った。
教室に戻ると、三コマ目の代数と幾何学が始まった。まずは前回の小試験の結果を返却される。採点は――どちらも二割ほどしか丸がついていなかった。これでは次の単元の問題を解くのも難しいだろう。数学は積み重ねに失敗すると、その先もうまくいかないのだ。ここはもう一度よく見直さなければ、とエミリアは心に止めた。
四年も同じことを習っているはずなのに、なぜこれだけ間違いが多いのだろうとエミリアはため息をついた。
この二年次の教室に通う六人は、年齢も住む場所も経歴もばらばら。だから他人と比べる意味がないのはわかりきっている。けれど、昨年の自分と比べて進歩がないことには落ち込んでしまう。時間を無駄にしているようで、それがたまらなく嫌だった。
授業が終わる二十四時には、乗り合い馬車はとうに終わっている。また、人気のない通りを帰るのを避けるためにと、夜間学校の生徒には大学から仮眠室が提供されていた。
エミリアが女性用の仮眠室で荷物を解いていると、クレアが入って来た。
「さあさあ、一年生組の教室へ行きましょう。今日の打ち上げ会場よ」
クレアは自宅で用意してきた軽食を入れた籠を取り上げ、エミリアを追い立てて教室へ向かった。
教室には一年次の課程を受けている十二人と、二年次の生徒の三人――今日は二人欠席だった――と、見知らぬ男性が四人いた。
「あちらは城の文官さんたちよ」
「こんばんは」
エミリアは男性たちに挨拶した。彼らも口々に挨拶を返してくれた。
「籠を持つよ、重かっただろう」
クレアから籠を取り上げたのは、二年次の教室にもいた若い男性だった。彼はかつて札付きの不良で、通っていた高校を退学になったのだ。仕事を始めてからは真っ当に生きるようになり、こうして夜間学校に通いなおしている。今はどちらかというとまともだ、というのが本人の談で、たしかに真面目に通っているし、今のように優しさを見せる時もある。だが強面の顔つきに派手な服装が、今もなんとなく悪さを感じさせるのだ。
籠を机に置き、料理を広げる元不良に他の生徒と文官たちが集まっていく。手伝いをするようだ。
思ったよりも文官は親しみやすい人たちのようで、話がはずんでいる。
「全員飲み物は生き渡った? それでは、今日もお疲れさまでした!」
クレアの乾杯で、皆飲み食いを始める。酒の持ち込みは禁じられているので、エミリアたちの手にあるのはレモネードだ。放課後、などと学校側は言っていないのだが、この放課後は長い平日の仕事ととどめの授業がやっと終わったという、解放感がはち切れる瞬間である。皆は夜中にも関わらず、飲み物と料理を手に笑顔でわいわいと騒いでいた。
「いつも授業の後にはこんな風に集まっているんですか?」
気がつくと隣にいたはずのクレアはあちらの集まりに加わっており、代わりに隣にいた文官に話しかけられた。
ビターチョコレートのような色の髪に、蜂蜜色の瞳をした男性だった。空腹だったエミリアは、おいしそうな色だ、と真っ先に思った。エミリアより頭二つほど背が高く、文官のイメージにそぐわずがっしりとした体つきをしている。黒い制服を着ているので、文官よりという軍人を思わせる見た目だ。
「ええ、授業後は朝まで仮眠を取るだけですので。自由参加ですが、たいてい皆集まりますね」
エミリアはグラスに口を付けながらそう答えた。
「こんなにいろんな年齢の方がいると、授業以外で共通の話題を探すのが難しそうですが、うまくまとまっているんですね」
「年配の方もいますが、好奇心旺盛で話好きな人が多いんですよ。わたしは割と人見知りですが、先輩方がうまく話に入れてくれるんです」
クリフトンと名乗ったその男性は、なるほどとうなずいた。周りを見ると、文官は思い思いに散らばり、生徒たちに混じっている。
「お城の文官さんだと伺いましたので、もっと話しにくい方たちかと思っていました」
「城に勤めているからと言って、お高くとまっているわけではありませんよ。城外の人と話す機会があまりなく視野が狭くなりがちなので、こういう機会には努めて人と話すようにしているんです」
エミリアはハムとチーズを挟んだバゲットサンドをかじった。
「そういえば、文官さんたちは勉強会だったんですよね? どのような勉強を?」
「今回は科学分野の研究者を呼んで、最新の研究について説明を受けていました。自分たちの弱い部分を補うのが目的ですね」
やはり高等課程の授業とは違う。高等課程よりも上級の学校に通った後、選びに選び抜かれた精鋭たちの弱い部分など、エミリアの代数の基礎よりは格段に強いはずだ。こういう人間たちが自分で「弱い」などと言う部分は本当は存在しないのだ。
クリフトンの言葉に刺激された劣等感に、エミリアは持っていたバゲットサンドを強く握ってしまった。ハムとチーズがぎゅっと押し出される。慌ててグラスを持った方の指で器用にハムとチーズを挟みなおすと、エミリアはにっこりした。
「あら、お城勤めの方が謙遜なさって。けれど、文官さんでも誰かから学ばれることがあるんですね」
「もちろんですよ。人に教わることができなければ、城で勤め続けることなどできませんからね」
週の終わりに初対面の男性と話すことに疲れたエミリアは、近くを通ったブライスに声をかけ、クリフトンに引き合わせた。二人より三人で会話する方が楽であると見込んだのだ。
針子として店の奥で働いてきたエミリアは、勤め先の従業員数人としか日常話すことはない。初対面の男性――しかも普段出会うことのない城の文官と長く会話が続けられるとは思えなかった。見込み通り、会話の中心はブライスとクリフトンに移ってくれた。
「……今日は二人休んでますが、そうですね。今年の夜間高校の生徒は全部で十八人です。こんな大きな街の学校なのに、少ないと思われましたか? 元から少ないのはありますが、今は春なので少なくなる時期なんですよ」
「なぜこの時期に減るのですか?」
「この時期に減るというわけではないですが、授業は秋から翌夏までの一年間でしょう? 勉強についていけなくなったり仕事が忙しくて辞める人が出るので、進級や卒業試験を控えた今が一番人の少ない時期なんです。」
話題は夜間高校のことに移っていた。
「夜間課程は通い続けるのが大変ですもの。こうやって続けられていることの方が珍しいのかもしれません」
エミリアは肩をすくめた。仕事が忙しくて自宅学習の時間が取れなかった時、小試験の成績がどうにも上がらない時、馬車を乗り継いで通う長い通学時間の間…………もう辞めようかという思いが浮かんでくる時は何度もあった。
「エミリアさんは根気強い方なんですね」
「そうでしょうか。単に年数がかかっているので、引くに引けないだけかもしれません……」
あとひとつ、卒業試験に受かればこの六年の努力が報われるのだ。そうすれば今とは違う仕事に就くことができるようになるし、皆が遊んでいる安息日前夜の街にわたしも飛び出せるようにもなる。何より皆が持っている高等学校修了の証が手に入る。これでわたしも人並みになれるのだ。エミリアはそう思ったが、初対面の人に話すべきことではないだろうと、言葉を濁した。
「エミリアは真面目だからなあ。私は学ぶことが楽しくて通っているので、エミリアほどの大変さは感じていないかもしれません」
とブライスは笑いながら言った。
「ブライスさんならきっと今回の卒業試験も受かるに違いないわ。心に余裕があるもの」
「おや、エミリアさんは受けられないのですか?」
「ええ、わたしはまだそこまでの力がないので」
クリフトンの問いにエミリアはそう答えたが、自分はいつ卒業できるのだろうかという不安がまたじわりと甦ってきた。いつものぐるぐると出口のない悩みに入り込みそうだったので、思考を切り替え不安を振り払った。




