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Black Bird  作者: 瑞白青維
斑の言うことには-Let's face it.-
8/11





◇◇◇





 逆光が彼女の表情を隠していた。

 常であれば、暗闇の中でも見失えないほどにその眼光は爛々としているというのに。

 時折、こうして彼女は何もかもを隠してしまう。

 意図的なものなのかは分からなかったけれど。

「ダリ」

 細い指先に似合わず、存外力強く肩を掴まれる。

「いつかダリに大事なものができたとして、それを粉々に砕かれたとしてもダリは怒っちゃダメ。ダリはっていうか私もなんだけど、……とにかくダメ」

 なんで?

 今よりもずっと幼かった自分は、たしか呑気に首を傾げたのではなかったか。

 それに対し、自分と少ししか歳の違わない彼女は何と返したのだったか。

 想起しようと頭を働かせる前に、眼前の彼女が口を開いた。

「奪ってるからだよ。私達は毎日、誰かの大事なものを何とも思わずに踏み潰して、笑って換金してる」

 そう言うと、優し気に持ち上がっていた彼女の口端がしゅんと下がったのが見て取れた。

「あのねダリ、私も最近知ったんだけど……、それってすごく悪いことなんだって。だからさ、他の人にやってきたことが自分に返ってきても文句言う資格なんて、ないんだよ」





 思考の靄が晴れる。

 それは空に停滞した雲を散らさんと、風が力強く駆け抜けるイメージに近くて。

 脳内に籠った余分な熱が心地よく冷却されていく感覚。

 端的に言えば、覚醒状態。

 自分の身体はいつでも動き出せる状態になったのだと瞬間的に悟った。

 しかし、なかなか瞼が開かない。

 訝しんで目元を擦ると、パリッと音がして何かが剥がれ落ちていく感触がする。覚えのあるものだが、いつもより程度が酷いように思えて大きな違和感を抱いた。

 視界に切込みが入ったところで、腕を休める。簡単な動作だというのに、なぜかどっと疲れてしまった。

 何度も瞬きを繰り返す。

 薄闇の中に慣れ親しんだ自室の天井を捉えて、安堵からかしばしぼおっとしてしまう。

 けれどその間にも感覚は研ぎ澄まされていく。

 空間内に転がる様々な情報。その一つも取り逃すまいと五感が冴え渡っていく。

 横たえた身を包む空気は湿っぽい。”地上”の表情をリアルタイムで再現しようと流される背景音の一つ――「雨音」のレベルは四、もしくは五といった具合か。となると”上”には土砂崩れや洪水といった災害警報が出されている可能性が高く、それに伴い”地下”では”地上”・”地下”の両面における災害対策班が編成されていることだろう。”地下”の方が自然災害への耐性は低いというのに、こんな時まで”上”のために走り回らなければならないのだから大変だ。

 そこまで考えて、再び違和感。

 肘で上体を支えて身を起こす。たった一・二秒の動きに体力を根こそぎ持っていかれそうだった。呼気が音にならないよう深い息を吐く。幼少の頃から染み付いた癖の一つだ。

 室内に配置された家具を殊更丁寧に視線でなぞる。物の少ない部屋の、ベッドを除く家具と言えば備え付けのクローゼットと本棚くらいのものだが、床には定員オーバーであぶれた本の山が幾つか出来上がっている。いくらかの紙片も、部屋を空ける前に予め散らしていた。

 瞬時に、緊張の糸がピンと張る。

 数枚の紙片の位置がズレていた。

 数ミリのズレ。

 だが確かな違い。

 地震の可能性を考えかけて、即座に打ち消す。

 地震があったとして、なぜ自分はそれを覚えていない。物の位置が僅かにでもズレてしまうというなら、ある程度の強度があったはずのそれをなぜ。

 その疑問を起点に記憶を遡ると、いつここに帰ったのかも怪しいと気づく。それを覚えていないのはあまりに不自然だ。

 最悪の事態を想定して動く必要がある。

 仮定しよう。何者かがこの部屋に入ったとする。それに自分は気づかなかった。もしくは気づくことができない状態だった。理由は定かではないが、もしそうだとすると脅威は去っていない可能性の方が高い。

 自身に被せられていた、燃えるような真紅の着物。普段から身に纏っているそれに袖を通し素早く窓際に移動する。

 カーテンの僅かな隙間から外部の様子を伺う。異常と呼べる何かを認めることはできなかった。

 次いで蹲り、床に耳を押し当てる。

 聴力は人並みだが、小さな音の動きを捉えて確信した。

 ここが何者かに押さえられている。

 知らない気配にテリトリーを荒らされている。

 瞬間。

 敵意が鼓動に乗って全身を巡った。

 本能が闘争に備え体のモードを切り替えていく。心拍が速度を上げ、体温が上昇し、皮膚の下で筋肉がやや硬度を増した。それらを深い呼吸で一度宥め、瞬発的に力を発揮できるよう備える。

 今度は扉に耳を当てようと足音を殺す。

 その時。

 床に転がった小さな鏡が、そこに捉えられた自身の姿が、目に入った。

 違和感。

 着物を身に纏う自身の姿。そこはいい。

 しかしシャツの明度が、自分の持つものとは明らかに違う。基本的に暗い色を好む自身の趣向に対して、今着ているものは陽の下で見れば恐らく染み一つ許さない白。薄闇の中では正確な識別は困難だが、いつもと違うことだけは明確な上に、見ているだけで胸糞悪くて堪らなくなって――。


 耳裏に銃声が蘇った。


 一三発の銃声。

 一三人の消去。

 指示を出す科戸の声。

 発砲する斑の顔。

 暴れ回る手足。

 塞がれた口。


 曇天と、


 雨と、


 彼女。


 ひゅっと喉が鳴る。

 先とは違う意味合いで以て視線が揺らいだ。

 背中から波が引くように熱が逃げていく。

 鼓動が煩い。

 汗が冷たい。

 唇を噛み締めて混乱と焦燥に呑まれることをなんとか防ぐ。

 渾身の一撃で足を殴りつけ窓に駆け寄る。最早足音などどうでもよかった。鍵に手を掛けるも、指先が震えて開錠に手間取ってしまう。

 派手な音をたてて窓を開け放つ。

 下を確認することなく身を投げる。

 五階建てのマンション。正にその五階からの落下。高さは約一二メートル。常であればダリが着地を決めるには容易い高さだったが、今回は裸足だったことに加えやはり冷静さが欠けていた。自身の体重と、そこにかかる重力の衝撃をもろに受けてしまった足首に痺れるような鈍痛が残った。考えるまでもなくどうでもいいので無視する。

 人気のない廃墟の並ぶ街の中。真紅の着物と漆黒の長髪を翻しダリは駆け出した。





 ”上”と”地下”を繋ぐ複雑な構造の通路を走る。

 石造りの長い階段上を怪物が暴れ回った跡地のような、爆撃に耐え骨組みと僅かな石造部を残した建築物のような。その程度にしか残されていない点々とした足場。闇に抱かれた全貌不明の道。

 そこを走る。

 跳躍する。

 壁の凹凸を掴んでよじ登る。

 繰り返し行き来することで覚えた感覚の道をなぞっていく。

 雨に濡れた者が使用した後なのか、途中から手足が滑りやすくなったが関係ない。

 不安に背を押されながら、ただひたすらに上を目指していった。

 長らくそうしていると、右手が冷たくつるりとした壁に触れた。

 ガン!

 思い切り頭上を叩く。そこには鉄製の小ぢんまりとした扉が存在している。側面の壁には電子版があり、そこにコードを打ち込むことでロックを解除することができる仕組みだ。

 しかしただの狗であるダリに、電子版を操作する権限は与えられていない。

 今できることは自身の肉体を武器とすることだけだ。

 右手を握り締め、肘から肩を意識して思い切り振り上げる。

 ガァン!

 ガァン!

 試しに二撃。

 鋭い痛みに表情が歪んだ。骨が軋み、肘を起点に全身が痺れる。

 やはり無理かという落胆が半分、多少は開くかもしれないという希望的観測が半分。

 半分あれば十分と選択されたのは後者だった。

 ダリはすぐさま次撃を繰り出そうと体を捻らせ――。

 コンコン。

 控え目な音。

 ダリの動きが急停止する。

 眼前の扉が、外界にいる何者かによってノックされた。

 次いで、壁に貼り付く電子版に眩い光が灯る。

 闇に慣れた目には痛いくらいのそれを指の隙間から睨み付けていると、

「******************」

 軽快なリズムで電子版にコードが素早く打ち込まれていった。

 画面上に「解除」の文字が表示される。重厚な扉が金属特有の悲鳴を上げながらゆっくりと口を開いた。

 激しい雨音とともにばしゃん! と大きな音をたて、水の塊が足元に落下する。外からやって来るそれは止まらず、勢いと水量を保ったまま”地下”を目指して川のように下っていく。

 扉が完全に開き切る前に、ダリは着物で頭をすっぽりと覆い隠した。壁際に身を寄せつつ、相手の出方を伺う。

 扉が全開になった。

 ダリの身体を大粒の雨が叩き始める。

「やあ」

 聞き慣れたテノールが湿気に混じって頭上に降る。

 反射的に俯くと、それを認めた科戸がふっと笑った。

「君のその癖は実に厄介だね。……行くよ」

 着物の赤で半分以上が埋まっている視界に、チェーンの付いたドッグタグを持つ細腕が忍び込む。

 雨に濡れたタグの表面には数多の数字が生き物のように蠢き、銀のプレートの中を悠然と泳いでいた。

 それはダリの生体に起こっているあらゆる反応を現在進行形で数値化したものであり、位置情報の記録装置でもあった。

 マスターを持つ狗が”地上”に出るためには必ず身に付けなければならない必需品。”地上”への入国許可証のような役割を担うものだ。とは言え長年身に着けてきたダリ自身、列をなそうともしない数字に意味を見出すことはできていないし、今後もこれについて考えを巡らせることはないだろうと思っている。

 タグを受け取り、着物の内側でチェーンを首から下げる。

 扉の淵に手を掛け、雨を受ける”地上”へようやく立った。

 目を瞠る。

 足元を目にしただけで、自身が最後に記憶した景色とは大分異なることに気付いてしまった。

 床が――否、床だった場所はコンクリートで舗装された地面になっていた。灰色で滑らかな、人工物であることを多分に主張してくるさっぱりとした見目を惜し気もなく晒している。周辺の様子も確認したかったが、隣に人がいることを思うと憚られた。

「教会はどうした」

 発声して、焼けるような喉の痛みに眉をしかめる。掠れ切った声を無理に絞り出そうとすると、苦しさに咳き込んでしまいそうだ。

 以前ここにはステンドグラスの美しい大きな教会があった。敷地内に学習施設や相談施設も併設されており、平日から休日まで多くの人で賑わっていた場所だ。

 ダリが立つのは、本来であればその傍に佇む倉庫に当たる場所だった。既に懐かしいとは一体どういうことなのか。記憶をまさぐりながら、裏切り者めと自身を罵る。床にはいつも寄付された食料や衣類が所狭しに置かれていて、そういった物の隙間から見える板張りの床の木目に何らかの模様を見つけることが幼い自分は好きだったというのに。彼女はそんなダリの横で物資の袋に僅かな穴を開け、食料品を摘まみ食いするのが日課だったというのに。

「十日前に取り壊し作業を開始してね。今じゃ嘘みたいに真っ新さ」

 ダリの問にテノールの声は淀みなく返す。淡々とした語り口には何の感情も込められていない。決して大きくもないその声は、しかし雨粒の存在など無視してダリの鼓膜を強打した。衝撃に思わずふらついてしまいそうになるのを、踏鞴を踏んでなんとか堪える。

「どうして」

「教会も関連施設も倒壊してしまったんだよ。人もたくさん死んだから、早急に死者を弔うべく急ぎ大規模工事が行われたというわけ。すごかったよ? ”地下”にも手を貸すように胡散臭い政治家が依頼してきてね、パワー系・捜索系の狗は結構駆り出されたんじゃないかな。お陰で今”地上”ではしっとりとした弔いのニュースと、積極的に介入した政府ひいては政治家への支持率がほんのり上がっている所さ。まあ、注目を集めたことで汚職までバレそうになってるのが面白いんだけど。

 ところでダリ、君大分負傷しているじゃないか。扉がガンガン言うから結構驚い」

「アリアは?」

 冷静に。

 胸を締め付け切り刻もうとしている名前の付かない感情に捕らわれないよう、努めて静かに、短く尋ねる。

 それでも声が震えてしまったのは。

「分かり切ったことを訊くなんてらしくないね。

 アリアは、――君のマスターは死んだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、ダリの世界からあらゆる音が姿を消した。

 無音。

 思考が消え、思いが消え、視覚以外の何もかもが息を顰めようとして。

 突然視界が黒く塗り潰される。

 音が世界に雪崩れ込んでくる。

 膝が折れる。

 雨音がやけに大きく響き、脳をびりびりと痺れさせた。

 けれど胸に痛みはない。

 ああ、と思う。

 言葉では形容し難い何かが喉に詰まっている。

 視界の闇がさっと晴れていく。

 不快だ。

 まるで頭骨の表面を大量の羽虫が這いずり回っているかのようで。

 不快だ。

 眩暈がする。

 体内で内臓がぶわっと震えた。

「う、……っぉえ」

 蹲り、空っぽの胃から熱い胃液を吐き出す。

 口内に広がる酸味と苦みがさらに悪心を誘引する。

 突き出した舌に続くように胃液と唾液の混ぜ物が唇を汚した時、背中を擦られていることに気付く。

 ひくり。

 喉が震えた。

 酸素を求めて肺が大きく膨らむ。

 強制的に緊張が解かれる。

 脳内麻薬でごまかされていた痛みが、末端からじわじわと体を蝕んでいく。

 眼前に撒き散らされた色のない吐瀉物は、雨に紛れてすっかり判別がつかなくなっていた。

 一秒ごとに覚醒していく痛覚。

 増大する痛み。

 確かにそこに在るはずなのに、とても苦しいはずなのに、その感覚が酷く遠い。まるで痛みの疑似体験だ。

 なんだそれ。

 ちょっと笑ってしまう。

「ダリ?」

 呼気に笑みの気配を感じたのだろう。科戸の声は訝しんだ空気を纏っていた。

 着物越しに自分を見つめる眼差しを頭に思い浮かべる。色の異なる澄んだ瞳は磨き上げられた宝石のように綺麗で、冷たくて、けれどそれが身内に対してはぬるま湯の様なやわい温もりを含むことを知っている。

 そういう明確な線を引けるところがアリアにもあった。

 きっと自分にも。

「次のマスターか、家にいたのは」

 目元を手で覆い隠し、そっと顔を上げた。今度は意識して口角を持ち上げた。薄っぺらでもそんな風に見えていたらいいと思いながら。

「……そうだよ。もう会った?」

 科戸がダリの隣にぺったりと座り込む。そういえば傘を持っていないのかと思ったが、遠くに停車する車を認めて違うと判断した。彼は聡明だがやんちゃな一面も持ち合わせている。雨の中に飛び込むなんて最高のイベントに傘は邪魔でしかなかったのだろう。

「会ってたら、侵入者と勘違いして殺していたかもしれない」

「ダリがそうしたいと思ってそうするならいいと思うよ。一部例外はあるけど、基本的にマスターなんていくらでも替えが利く。本質は僕らとそんなに変わらないからね」

「会ってみないと何ともだが、むかつく奴だったら殴るかもしれん」

「本当に? できないことは言わない方がいいと思うけど」

「できなくはない」

「できないさ。ダリはそういう感じじゃないから」

「ふわっとしてんな。

 なあ、お前結局何言うためにここに来たんだよ」

 問うと、科戸は黙りこくってしまった。

 沈黙はしばし続いて、今耳にしている雨音だけが世界に存在する唯一の音であるような錯覚に囚われてしまいそうになる。

 ダリは科戸を見ないまま、返事が来るのをただただ待った。疲れ果て茫然としていただけかもしれない。着物を通して耳にする音色も、体を冷やす雫も、信じられないくらい心地よい。このまま眠ってしまいたいとすら思った。

 科戸が息を吸い込む。

 抗い難い欲求をなんとか振り切って、その気配に注意を傾ける。

「……君とアリアがここで任務にあたったその三日後、君はオークションに出されて新たなマスターに買われた。そこから既に九日経っている。眠っていたとはいえ、さすがにそろそろ任務が振られてもおかしくない頃合いだ。ダリはどうしても仕事量が多くなってしまうと思うんだけど、大丈夫そう?」

「それは俺が決めることじゃないだろ。マスターがやれって言ったらやるだけだ」

「それもそうだ。

 ――じゃあさ、ダリはそのマスターがどんな人だろうと、命令に従っていく意思はあるかい?」

 問いかけに、眠気が醒めていく。





◇◇◇





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