2
五階建てだという建物の一・二階は酷いものだった。掃除された様子がなく埃塗れな上に、外観以上に壁や床といったあらゆる箇所が傷だらけだ。しかも空気が籠っているせいか、息を吸い込むと高確率でまず咳き込んでしまう。加えてとても暗い。大きな窓があるにはあるが、遮光カーテンにほとんどの光が拒絶されている。荷物を持って歩くには少々人を不安にさせる場所だった。
しかし三階からは何もかもが違った。本当に同じ建物なのかと疑ってしまう程に、上階は手入れが行き届いている。掃除は勿論のことだが何よりも家具があり、栞の挟まれた本があり、椅子の背凭れにはカーディガンがかけられており、キッチンには浸け置きされた食器があり……と人間の生活痕が至る所に残されていた。
なぜこうも違うのかと考えていると、それに応えるように「下は迎撃用にいじらないことをお勧めするよ」と科戸が言う。
「今日からここが君の家。ダリの以前のマスターとダリが二人で使っていた場所だけど、そのまま使い続けるもよし、心機一転して引っ越すもよし。マスターはソロだから、全ての決定権は君にある」
「そうなんだ? 僕は”地下”に詳しくないから一先ずここを使わせてもらえたらとは思うけど、いいのかな」
「迷う気持ちがあるなら、ダリが起きた時に訊いてみるといい。
……さて、僕はそろそろ行かないと。斑、あとは頼んだよ」
「え、どこかに行くの?」
腕時計に目を落とす科戸にソロは首を傾げる。するとすかさず、「科戸は超超超忙しいんだよ」と斑から棘のある物言いをされてしまう。「斑には言ってないよ?」。純粋に疑問に思って返すと激しくキレ散らかすのだから本当に彼女は分からない。
「何かあったら斑を頼って」
それだけを言い残し、科戸は本当にその場を去ってしまった。外ではエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえる。
当の斑はとえば、念には念を入れてダリが目覚めるまでこの家に残ってくれるのだという。
「残りたくねぇんだよ本当は。科戸と一緒に帰りてぇんだよ本当に! お前みたいなのと何日も同じ空気を吸わなきゃと思うと反吐が出るっつの! これはお前があんまりにも頼りなくて使いもんになんねぇからダリが困るだろうと心配している科戸のお願いとして仕方なく! 仕方なく残ってやるんだからマジで、床に額を擦り付けるくらいありがたーく思いやがれ!」
科戸が帰ってからというもの、斑は顔を青くしたり赤くしたりと忙しなくしながら嫌気の念を吐き出し続けた。しかしそうしながらも、ダリを彼の寝室に運んだり荷解きをしたりととても手際よく働いてくれている。
「斑はうるさいけど働き者なんだね」
「うるせぇな! 本来全部お前がやることなんだよ! 自分で仕事見つけててきぱき動け!」
「だってここ僕の家じゃないのに、勝手にいろいろいじっていいのかな」
「じゃあ物の少なそうなとこに荷物まとめて置けばいいんじゃねーですかねーえ!?」
「なるほど。そうしてみるよ」
「あーもー! 血管が切れる! 一緒にいるだけでストレスだっつの!」
「確かに。大声出してるとその内プチッといくかもしれないよ?」
「喧嘩売ってんだよな!? あ!?」
斑にぎゃんぎゃんと吠えられつつ、廊下の隅にて荷物の整理を行う。数日分の食料品に衣料品・日用品が数点、そして。
「マスターの身分証も兼ねた携帯端末と、地下の地図、……銃?」
クラリネットの楽器ケースに似ていると思って開けた黒塗りのケースの中には一丁の拳銃、長方形の小さな箱が納められていた。下敷きの布の隙間に人差し指を潜らせる。銃を乗せた上部が外れると、下には整然と銃弾が並べられている。
使えってこと?
脳裏に蘇るのはオークションで行われた「消去」の光景。
ダリの頭部が撃ち抜かれ、客席にはそれと同様の屍が複数転がった。
「仕事」。
あの時、科戸と斑はそう言ってダリを撃ち始めた。ダリの呪いだという「転移」、そしてその使用方法をわざわざ観客へ向けてお披露目したということは、ダリの仕事はああいったものがメインになってくるということなのではないか? つまり、今後ダリと共にソロがこなしていく仕事だってそうなるということではないのか。
「殺し、かあ」
鈍く光を弾く銃身を指先で撫でる。滑らかな手触りは、持ってしまえば存外手に馴染みそうな気がした。
「まだよく分からないな」
呟き、ケースを閉じる。
そういえばやけに静かだな。
訝しんで斑を探すと、ある部屋の扉が開け放たれていた。先程斑がダリを運び込んだ部屋だ。覗いてみる。ベッドで眠るダリの傍に彼女はいた。
「来ねーのかよ」
斑が背を向けたままソロに言う。
返答しようとして、上手く言葉を選べず閉口。胸中に煙のような、あまり良くない何かが蠢いているような気がする。
「行っていいと思う?」
「……めんどくせー返しすんなよぉ。こっちはマジで吐きそうなんだって」
「いや、何て言うか、……生きてるんだなと思うとちょっと怖くて」
「はあ?」
げんなりとした様子で斑が振り返る。丸くなった背中と疲れ切った表情に彼女の疲労が如実に表れていた。
「ごめん、うまく言えないんだけど、……このまま死んじゃったり、しないよね?」
震える喉から声を絞り出す。それがこんなにも難しい。上擦りそうな声音を押し留めるには喉を締めなければならず、けれどそうすると怪我をしたわけでもないのに喉奥が痛むのだ。
「お前はマジもんの馬鹿だな。ダリは死なねーよ」
溜め息交じりに放たれた女声に肩の力が抜け落ちる。そこで初めて自身の緊張度合いの高さを知った。
「いつ起きるかな?」
ベッドの傍に歩み寄る。
死人よろしくそこにいるダリの上に、真っ赤な着物がかけられていた。彼の額を濡らした赤い血潮に酷似した鮮明な色彩だ。
「まだしばらくは起こせない」
「どういうこと?」
斑の不穏な言い回しに眉を顰める。
「こいつが今目醒めたら、恐らく高確率で力の限り我を忘れて暴れ回る」
「え」
「するとまず私達が死に、次に被害は街に広がる。だから覚醒する前に力をなるべく削る。不動化薬打ちまくって、数日間飲まず食わずで押さえ込まれたらへとへとになるだろ」
「ちょっ、そんなことする必要あるの? 扱いがあまりにも酷過ぎるっ」
不動化薬。その単語を脳内でワード検索にかける。確か、麻酔銃で用いられる薬品の総称ではなかったか。麻酔銃は主に対動物用の銃器である。対人用もあるが、その扱いは化学兵器に該当していたはずだ。
斑はそれをダリに使用するという。それがまるで、言外に彼が動物か人外だと言われているようで、二重の意味でソロは怒気を顕わにした。
「酷過ぎる、ねー。お前のそれさあ、何を基準に言ってんの?」
「は」
斑がソロに視線を投げる。金色の瞳にあれだけ騒がしかった彼女の感情はない。けれどギラギラと鋭く輝くそこには、獣が獲物に向ける強者の威厳があった。
「じゃあ私が死んでお前が死んで街の人間がばったばったと死んでいくこと。そっちの方がお前にとってはやさしくて素敵な未来ってことかよ」
「そんなことは言ってない、何か別な方法はないのかって」
「右も左も上も下も何にも分かんねぇお坊ちゃんが、ぼんやりした考えで一丁前に不満だけだらだら垂れ流してんじゃねぇよ」
「でも……!」
「いいか、お前が買った狗は超一級品の兵器なんだよ。扱いを間違えればいくらでも人が死ぬ。なのにお前はただ『友達だから』っていう鳥肌もんの理由でこいつを買うことを決めたらしいな。ふざけんなっつの。お前がやってることは犬猫のいる生活に憧れる”上”のお子ちゃまそのものなんだよ。正確な知識もないくせに自信満々に手ぇ伸ばしてんじゃねぇ」
斑の言葉が凍てつく刃となってソロの胸を貫く。
超一級品の兵器。
犬猫のいる生活に憧れるお子ちゃま。
ダリが?
僕が?
ぶわっと。
爆発が起こったような衝撃と灼熱が胸元で荒れ狂った。けれどそれは一瞬で、刹那の時間が過ぎ去れば風船が萎むように緩やかに、しかし急速に冷却が進んでいく。
斑の言葉を否定したかったが、それができるだけの言葉も知識も思考も体験も、何一つ自分は持ち合わせていないことに気付いてしまった。否、自分で気づけていたのならまだ救いはあったのかもしれない。今のは完全に、斑の意図で気づかされたのだ。きっと目も当てられない程に、ソロが世間知らずの考えなしだったから。
そこは認めよう。
だけど。
意識して唾を飲み込む。いつの間に開けっ放しだったのか、口内はカラカラに渇き切っていた。
斑の瞳に、頼りなげな自身の姿を見る。
「確かに、ダリを買う時は何かを深く考えたりすることはなかった。あの時は必死で、彼が見世物にされているのが嫌で、早くどこかに隠れてほしかっただけだったんだ。そこに誰かと一緒に同じ時間を過ごすことへの憧れがなかったとは言い難い……と思う。だから僕の浅慮さに関しては問題があったと思う。
だけど、ダリは別に兵器とかじゃないと思う。知識ないってまた言われるかもしれないけど、みんなが勝手にそう思ってるだけじゃない? ……みんなっていうみんなを僕は知らないんだけど、さ」
嘘偽りのない表現をするということには幾分かの技術がいる。ぼやけた自身の思考に合致する言葉を知恵の海から探し当て、正誤を判断する間もなく音を与えて言葉とする。多くの人はそのための訓練を生まれた瞬間から始め、積み重ね、技術を磨き上げていくわけだが、自分には圧倒的にそれが足りていない。それも先の斑とのやり取りで気づかされたことの一つだ。
たどたどしい。
焦る気持ちを頭の片隅に覚えつつ、それでもなるべく自身の心に沿って発言した。
三拍ほど間があっただろうか。
「真面目に喋った私が馬鹿だったわ」
肺を空にする勢いで息を吐き、斑は脱力した。




