里長の部屋
着いたのは里の最も奥にあたる岩壁だった。掘り込んで住居となっているのだろう、ドアの上にはいくつか窓の明かりが見えた。彼女が戸口に向かって何事かささやくと錠が外れる音がした。先に入るように言われ、ハワードは少し身をかがめて室内に入った。
屋内は意外に暖かかく、外の湿度も感じられない。だが、それよりも先に気付いたのは里人の刺すような視線だった。中にはかなりの数の人が集まっていて、まだ広さには余裕があった。どうやらここが里の主要部らしい。奥へと続く扉の前には二人の若い男がライフルを抱えて立っていた。片方は雨に濡れている。門の狙撃手なのだろう。警戒というよりはむきだしの敵意を感じた。ひどく睨まれていたが、気付かぬふりをして進む。中に入れただけ良かったほうだ。
「ジジ様、入ります」
呻きのような低い返事を待って彼女は扉を開け、ハワードに先に入るように言った。
里長の部屋なのだろう。ハワードは意を決して、そこへ入った。
その部屋は本当にただの住居の一室だった。暖炉の火が赤々と前の部屋よりもさらに中を暖め、その少し手前に老人が一人、椅子に腰掛けていた。里長なのだろう。だが、想像したほどのいかめしさはなく、温和な印象を受けた。老人は白い眉の奥の目でじっとハワードを眺めると、にっこりと笑った。
「こんな辺境までよく来たよ、久しぶりの客人だ。ほれ、火の近くに座りなさい。濡れていては寒かろう。今日は本当によく冷える」
空いている椅子を勧められ、ハワードは腰を下ろす。そして、老人が彼女に頷くと、彼女はハワードにタオルを手渡して、部屋から出て行った。彼女は少し警戒するような素振りを見せたが、何も言わなかった。二人になり、老人は言う。
「そう警戒することもなかろうに。すまんの、礼がなっておらんが、何せ外から人が来るのは本当に久しぶりでの」
「いえ。こちらこそ、突然で申し訳ない。警戒するのは当然です。その上で、ここまで迎えてくださったこと、本当に感謝します」
ハワードが頭を下げると、老人は手を差し出して、ギンジ、と名乗った。節くれ立ったその手を取って、ハワードも名乗ろうと口を開くと、老人はそれを制す。
「お前さんのことは知っとるよ、ケストレル中尉。それとも、もうもっと昇格したか」
ハワードは目を丸くして、握手した手を離した。
「大佐になりました。……知っておられましたか」
老人は笑っていた。そして、不意にその目がふっと緩む。
「あやつらが帰された時だったか。荷物を包んどった新聞に、あやつらとお前さんとが写っておった。……あやつらをくるんどった国旗はもう燃やしてしもうたが、それだけはまだ取っておいてあるよ」
ハワードはうなだれた。おそらく、基地の写真と同じものだろう。終戦直前の、軍の広報紙だ。思い出して赤くなり、すぐさま、申し訳なさに青くなる。そうしたら、その口をついて出るのは、単純な言葉。
「……すみません」
「何を謝る」
老人は尋ねる。その優しげな声が痛かった。鉛を飲み込んだように、気が重い。
《里の皆は元気かな――》
隊の誰が言っただろう。思い出せる気がしないのは、数人の口から繰り返し聞いたせいなのかもしれない。彼らのささやかな願いは叶わぬまま、散った。
「こうして、俺一人生き残ってしまったことです。あの人たちをここへ帰すことができなかった」
前の部屋の中には、彼らの家族がいたはずだ。あのパイロットの少女もそうだ。ここでは俯き続けずにはいられない。誰の目も直視できない。膝の上で手を握り締めながら、何かがこみ上げるのを堪えなければならなかった。すみません、と再び、それだけは勝手にこぼれ出る。
「顔をあげなさい」
老人に言われ、ゆっくりと顔を上げる。老人はじっとハワードの顔を見ていた。そして、悲しげに呟く。
「苦労したんだの。顔つきが変わったよ。あの写真は皆が良い顔をして、笑っとっただろう。……あやつらは自分たちで選んで、飛び出していったのだ。失ったことに今更何もいうまいよ。お前さんもだ」
わかっています、と小さくハワードは頷いた。美しければ美しいほど、過去は掴んでいたはずの掌から遠く離れていく。自分が進んでるのだと気付くことほど、悲しいことはなかった。それでも、足は止まってくれない。止められないのだ。そして、足が向かう方向へ頭も向けねばならない。それならば、過去に振りほどかれた手は、これから何を掴むべきか。
ハワードは居住まいを正した。
「……また戦争が始まります」
そうか、と呟いた老人は、深く息をついた。そして、足元の薪を一本、炉へと投げ入れる。薪は音を立てて爆ぜ、緑色の火の粉が鮮やかに舞った。




