第七話 作品①
自動ドアが開いた。
佳乃は、入口をくぐったところで一度足を止めた。
想像していたより、広い。
白い壁、天井から伸びる何本ものライト、床を這う黒いケーブル。
端には衣装のかかったラックが並び、その向こうでは何人かの大人が機材を動かしている。
正面には、壁と床の境目が分からないほど真っ白な空間があった。
どこかで、スタンドの脚が床に触れて乾いた音を立てた。
キャスターの転がる音。
短く飛び交う声。
ケーブルを跨いで歩いていく人。
誰も急いでいるようには見えないのに、それぞれが迷いなく動いている。
佳乃だけが、その流れの外に立っているような気がした。
「……すごっ」
隣で優が小さく言った。
怖がっている声ではなくて、初めて見るものをそのまま面白がっている声。
佳乃は返事をしようとして、喉が少し詰まった。
バッグの持ち手を握る。
昨日の夜、何度も中身を確認したバッグ。
ここへ来た途端、急に頼りなく見えた。
「あ」
優が少し先を見る。
桐島がこちらへ歩いてきていた。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「おはようございます」
佳乃より優の方が先に頭を下げた。
桐島は二人を順番に見てから、佳乃のバッグへ一瞬だけ視線を落とした。
「無事来られましたね」
「は、はい」
佳乃が答える。
少し遅れて。
「……かなり早く着きました」
「でしょうね」
「なんで分かるんですか」
優が聞いた。
「佳乃さんなら早く来ると思っていました」
「……」
佳乃は何も言えなかった。
優が隣で笑っている。
「では、ご紹介します」
桐島が身体を少し横へ向けた。
最初に近づいてきたのは、四十代くらいの男性だった。
首からカメラを下げ、髪は短く、黒いシャツの袖を肘までまくっていた。
「カメラの榊です」
桐島が紹介する。
「榊です。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
佳乃が頭を下げる。
優も続く。
「橘優です。よろしくお願いします」
榊は優を見る。
「写真で見てたけど、結構小さいんだね」
「百五十六です」
「もっとあると思った」
「よく言われます」
会話をしながら、榊の視線が一度優から外れる。
そのまま機材の方へ戻りかけて。
もう一度、優へ戻った。
ほんの一瞬だった。
優は気づいていない。
あるいは、気づいていても気にしていない。
次に紹介された女性が、久世真琴だった。
肩に触れないくらいの黒髪、黒いシャツにパンツ、アクセサリーもほとんどない。
化粧も派手ではなかった。
「久世です。今日はよろしくね」
声は穏やかだった。
「橘佳乃です。よろしくお願いします」
「優です。お願いします」
久世も優を見る。
一度。
「よろしく」
そう言って佳乃へ視線を移したあと、また優を見る。
今度はさっきより少し長かった。
「今日、久世さんなんですね」
少し離れた場所で榊が言った。
久世が振り返る。
「何、その言い方」
「いや。贅沢だなと思って」
桐島が資料を確認しながら答えた。
「私からお願いしました」
「へえ」
榊はそれ以上何も言わなかった。
佳乃にも、それがどういう意味なのかは分からなかった。
久世が少しだけ桐島を見る。
その視線には、何か確認するようなものがあった。
「じゃ、先にメイクからやろっか」
久世が言った。
「佳乃ちゃんもこっち来て」
「はい...!」
佳乃は慌ててついていった。
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メイク台の前に、優が座る。
大きな鏡、その周囲を囲むライト。
佳乃の部屋にある小さな鏡とは、全然違う。
久世が道具を広げる。
ブラシ、スポンジ、パレット、ボトル。
見たことない道具もいくつか混じっている。
佳乃が持ってきたものとは数も種類も違った。
並べ方にすら迷いがない。
佳乃は立ったまま、少し離れた場所からそれを見ていた。
「佳乃ちゃん」
「はい」
急に呼ばれて肩が跳ねる。
久世が椅子を一つ指した。
「座っていいよ」
「あ、はい」
「そんな固くならなくて大丈夫」
「……はい」
言われても、身体から力は抜けなかった。
久世が佳乃の持ってきた紙を見る。
一週間かけて書き直したメイクプラン。
色、形、残したい部分、変えたい部分。
自分なりに考えたことは全部書いたはずだった。
「じゃあ」
久世が優の顔を見て、それから佳乃へ。
「今日は、どうしたい?」
「……え」
何度も考えてきた質問だった。
それなのに声にしようとすると、急に難しい。
「あの……少し、大人っぽく……」
「うん」
久世は待っている。
「でも……」
「でも?」
佳乃は優を見る。
優は鏡越しにこちらを見ていた。
何も言わない。
「大人っぽくは、したいんですけど」
佳乃は一度唾を飲み込んだ。
「幼いところは、消したくないです」
久世の目が少し動く。
「幼いところって、どこ?」
「頬と……口元です」
佳乃は優の顔を見る。
「あと、目も」
「目?」
「大きくしたいわけじゃなくて。元々大きいので」
言いながら、少しずつ頭の中が整理されていく。
「目尻は、伸ばしすぎたくなくて。綺麗にはなると思うんですけど、そこまでやると……なんか」
「なんか?」
「優じゃなくなる気がします」
久世は返事をしなかった。
優の顔を見る。
佳乃も見る。
数秒。
「なるほど」
久世が短く言った。
「じゃあ、やってみようか」
そこから佳乃は、別の意味でほとんど喋れなくなった。
久世の手が、あまりにも速かった。
下地を取る。
広げる。
スポンジ。
ブラシ。
次。
迷わない。
一つの工程が終わったと思ったときには、もう別のものが手にある。
佳乃なら鏡を見て、一度考えて、それから手を伸ばす。
久世は違った。
もう答えを知っているみたいだった。
しかも。
薄い。
何度も重ねているように見えないのに、肌が整っていく。
元の質感が消えていない。
久世の手が優の顔から離れるたび、何かが変わっている。
でも、佳乃がその変化を追いかけようとした頃には、もう次の工程へ進んでいた。
今、何をしたんだろう。
そう思って目を凝らす。
その間にも、久世の指は止まらない。
「……」
佳乃は無意識に身体を前へ寄せていた。
久世が鏡越しにそれを見る。
「近くで見ていいよ」
「あ、すみません」
「謝らなくていいって」
佳乃は少しだけ近づいた。
「これ……何使ってるんですか」
聞いてから、はっとする。
「すみません」
久世が笑った。
「だから謝らなくていいって」
ボトルを少し持ち上げる。
「これは薄く伸びるタイプ。今日の優ちゃん、肌自体は綺麗だから、隠しすぎない方がいい」
「……はい」
佳乃は目で追った。
次。
その次。
速い。
見れば見るほど、自分との差が分かった。
悔しいと思うより先に、ただ遠いと思った。
家では、自分は一時間近くかけていた。
久世はその半分もかからず、佳乃よりずっと綺麗に作っていく。
「私、全然だ……」
声に出すつもりはなかった。
久世の手は止まらない。
「そりゃそうでしょ」
佳乃が顔を上げる。
久世は普通に言った。
「私、十五年やってるよ」
「……ですよね」
「今比べて落ち込まれても、私が困る」
少しだけ笑っている。
佳乃も口元を緩めた。
そのとき久世が目尻へ細いブラシを入れた。
佳乃の目が止まる。
ほんの少し線が長い。
綺麗だった。
優の目が、いつもより切れ長に見える。
大人っぽい。整っている。
でも。
「……」
久世の手が止まり、鏡越しに佳乃を見る。
「違う?」
佳乃の肩が少し跳ねる。
「え」
久世はブラシを持ったまま、鏡越しに佳乃を見る。
「今、佳乃ちゃんの顔変わったから」
「……」
見られていた。佳乃は優の目元を見る。
「……少し」
「どこ?」
「目尻……もう少し短くしたいです」
「理由は?」
佳乃はすぐに答えられた。
「そこまで伸ばすと、綺麗になるんですけど」
優を見る。
「この子じゃなくなる気がします」
ほんの一秒、久世の手が止まった。
「この子じゃなくなる?」
「はい」
「どう違う?」
佳乃は少し考える。
優が笑ったとき。
口元、頬、その横にある大きな目。
「優って、顔はすごく整ってるんですけど……笑ったとき、口元とか頬は結構子どもっぽいんです」
言いながら、佳乃の声が少しずつ小さくなる。
久世に見られていることを、また思い出したらしい。
膝の上に置いた指先にも、いつの間にか力が入っていた。
鏡越しに、優の目がそこへ落ちる。
「子どもっぽいって悪口?」
わざとらしいくらい不満そうな声だった。
佳乃が反射的に優を見る。
「黙ってて」
「はい」
優は素直に口を閉じた。
佳乃の口元が少しだけ緩む。
肩からも、さっきまで入っていた力がわずかに抜けた。
久世は二人を見て、口元を少し緩める。
佳乃はもう一度優の顔へ視線を戻した。
「目だけ大人に寄せすぎると、そこが離れる気がして」
久世は優を見る。
目、頬、口元。
もう一度目を見る。
「……じゃ、少し戻そっか」
「はい」
久世の指が動く。
佳乃の視線は、その動きを追った。
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「色、どれにする?」
久世がパレットをいくつか並べた。
一見すると、どれもよく似た色だった。
けれど佳乃には、それぞれがまるで違って見えた。
少し黄みに寄っているもの。
わずかに青みを含んでいるもの。
同じくらいの明るさでも、ほんの少しくすんで見えるもの。
優の肌に乗ったところまで想像すると、なおさら違う。
「これです」
指した。
久世が隣を指す。
「こっちじゃなくて?」
「そっちは……」
佳乃は少し顔を近づける。
「多分、光強く入れたら少し紫っぽく見えると思います」
「へえ」
久世が佳乃を見る。
「分かる?」
「いや……たぶん」
「たぶんなんだ」
「撮影のライトで見たことないので」
「じゃあ見てみる?」
久世が榊へ声をかけた。
簡単にライトが組まれる。
優がそこへ座る。
同じような色を少しずつ載せ、確認用に数枚撮る。
モニターに出た。
佳乃は画面へ近づいた。
「……」
片方。
ほんの少し。
紫へ転んでいる。
「……こっちです」
佳乃が指した。
久世も見る。
「あってたね」
「……はい」
嬉しいより先に。
安心した。
でも次、頬。
佳乃が選んだ色に、久世が首を傾げた。
「これは多分飛ぶよ」
「飛ぶ?」
「カメラだとかなり薄くなる」
佳乃には分からなかった。
肉眼では、ちゃんと見えている。
「一回撮ってみよっか」
撮る。
モニター。
「……あ」
本当に。
ほとんど消えている。
佳乃は画面に顔を近づけた。
「なんで……」
「光と肌の反射もあるし、このくらいの明度だと今の設定だと残りにくい」
久世が説明する。
佳乃は画面を見る。
優の顔、頬。
さっきの色。
数秒。
「じゃあ」
佳乃が顔を上げる。
「位置は変えないで、彩度だけもう少し上げたら残りますか?」
久世が一瞬止まった。
「……うん。やってみる?」
「はい」
直す。
撮る。
残った。
さっきよりいい。
佳乃はモニターを見る。
もう次を考えていた。
「ここ……もう少しだけ外でもいいかも」
「なんで?」
久世が聞く。
佳乃は画面を指す。
「今だと笑ったときに全部内側へ寄って見えるので」
久世はモニターを見る。
それから優を見る。
「なるほど」
また直す。
少し経って久世が笑った。
「佳乃ちゃん」
「はい」
「色、ちゃんと見える人なんだね」
佳乃は瞬きをした。
「……色?」
「うん」
「どういう……」
「まあ、続けよっか」
「え」
久世はもう次の道具を取っていた。
佳乃は少し納得がいかない顔をした。
それから、少しずつ久世の動きが変わった。
次の色を自分で取る前に、パレットを佳乃の方へ傾ける。
「眉、角度は?」
「変えないです」
「なんで?」
「優、笑うと眉も結構動くので。角度変えすぎると表情と合わなくなる気がします」
久世は短く頷く。
「じゃあ太さは?」
「少しだけ」
今度はリップを二本手に取った。
すぐには選ばない。
佳乃の前へ差し出す。
「リップは?」
「こっちです」
「さっきより深いね」
「目を強くした分、これくらいないと口だけ幼く見えるので」
「なるほど」
久世はそこで初めて一本を取った。
佳乃は気づいていなかった。
最初、久世は佳乃のプランを正確に再現するために質問していた。
今は違う。
佳乃なら何を選ぶのか。
何を見て、どう考えるのか。
それを知るために、答えを待つようになっていた。
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「はい。終わり」
久世が手を離した。
優が鏡を見る。
少し右。
左。
顎を引く。
また見る。
「どう?」
久世が聞く。
優は数秒自分の顔を見た。
「お姉ちゃんっぽい」
「は?」
佳乃が声を出した。
優が鏡越しに笑う。
「お姉ちゃんがやった感じする」
「私、触ってないけど」
「でもお姉ちゃんじゃん」
「何それ」
「分かんない」
優はまた鏡を見る。
「でも好き」
佳乃も鏡の中の優を見る。
自分は一度も触っていない。
久世の手。
久世の技術。
なのに。
そこにいるのは、自分が考えていた優だった。
目尻は、伸ばしすぎていない。
頬と口元には、佳乃が残したかった幼さがちゃんとある。
自分ならこうしたい。そう考えていたものが、久世の手を通して目の前に立っていた。
不思議だった。
それなのに、佳乃の口元は少し緩んだ。
思っていたより、嬉しかった。
「じゃあ撮ろうか」
榊の声が飛んできた。
優が立ち上がる。
その瞬間。
佳乃の胸が少しざわついた。




