第七話 作品②
「じゃあ、ここ」
榊が白い背景の前を指した。
「マーク入って」
優が足元を見る。
「マーク?」
「そのテープ」
「あ、これか」
優が立つ。
「ごめんね、最初は細かく言うから」
「はい」
榊がカメラを構える。
「もう半歩右」
優が動く。
「そこ。肩だけ少しこっち」
動く。
「顔はカメラ。顎ほんの少し引いて」
優が引いた。
榊の声が止まる。
「……そこ」
カシャ。
最初の一枚。
佳乃は少し離れた場所から見ていた。
桐島はモニター横でメモを取っている。
久世は道具を整えている。
榊が写真を確認する。
「もう一枚」
カシャ。
「今度、少し柔らかく」
優は一瞬だけ榊を見る。
肩の力が抜ける。
顎が少しだけ戻る。
目元が柔らかくなる。
口角はほとんど上がっていない。
カシャ。
榊の指が止まる。
「……そう」
次。
「顔少し左」
カシャ。
「そのまま目線こっち」
カシャ。
「肩だけ戻して」
カシャ。
早い。
指示とシャッターの間が、どんどん短くなる。
最初は榊が、
「もう少し」
「そこじゃなくて」
と言う場面があるものだと思っていた。
ない。
一度言えば、優はその通りの場所へ身体を置く。
いや、その通りより、少しだけいいところへ。
「じゃあ次」
榊がモニターを見て、顔を上げる。
「もう少し強い感じで」
優は首を傾げた。
「強い?」
「そう。ちょっとだけ」
数秒。
優の顔が変わった。
笑っていない。
それだけなら、さっきも同じだった。
でも目が違う。
顎がほんの少し上がった。
身体の軸が変わる。
さっきまでの愛らしさが、少し遠くなる。
カシャ。
榊がもう一枚。
カシャ。
何も言わない。
優が少し身体を傾ける。
カシャ。
片手を自然に腿へ置く。
カシャ。
顔をわずかに反らす。
カシャ。
榊が一瞬カメラから顔を離した。
「……ちょっと待って」
優が止まる。
「何ですか?」
「今、俺何も言ってないよね」
「はい」
「なんで変えたの?」
優は少し考えた。
「……この方が欲しいのかなって」
榊が黙った。
「何が?」
「分かんないですけど」
優は困ったように笑った。
「さっきから、その顔したときシャッター速いから」
榊の眉がわずかに上がる。
佳乃だけは驚かなかった。
優なら、そういうところを見る。
昔から、相手が言葉にする前に。
「じゃあ」
榊がもう一度カメラを構える。
さっきまでより、少し声が低くなった。
「好きに動いてみて」
「好きに?」
「うん」
優は白い背景の中央に立つ。
一瞬。
何もしない。
榊も待つ。
優が息を吐く。
身体の重心が右へ移る。
片方の肩が下がる。
視線はカメラから外れる。
カシャ。
その音で、優の目が戻る。
カシャ。
少し顎が上がる。
カシャ。
口元に、笑顔になる直前くらいのものが浮かぶ。
カシャ、カシャ。
優はポーズを作っているようには見えなかった。
一つ動いて。
止まる。
カメラを見る。
外す。
身体を少し向ける。
また戻る。
榊が何も言わない。
ただ、撮っている。
シャッター音だけが続く。
佳乃は周囲を見た。
衣装を整理していたスタッフが、手を止めている。
さっきまで奥で話していた人も、こちらを見ている。
久世は道具を持ったまま、モニターへ視線を向けていた。
誰かが「見て」と言ったわけじゃない。
優自身も、誰かに見てもらおうとしているわけじゃない。
ただそこに立っている。
それなのに。
視線が集まる。
嫌でも、自然に。
佳乃の視線も、結局そこへ戻った。
指先。
肩の角度。
ほんの少し伏せられた睫毛。
どれか一つが特別大きく動いているわけではない。
それなのに、優が顔を上げればそちらを見る。
髪へ触れれば、その指先を追う。
視線を外せば、その先に何があるのかまで気になる。
佳乃はふと、周りの人間も同じように優を追っていることに気づいた。
衣装ラックの前で止まった手。
モニターへ寄ったスタッフの身体。
さっきまで佳乃と話していた久世の視線。
一人ずつ見ていって、最後にまた優へ戻る。
誰も示し合わせていない。
なのに、視線だけが同じところへ集まっていた。
桐島がモニターを見ていた。
ペンが止まっている。
数秒優を見る。
また写真を見る。
やがて何事もなかったように、もう一度ペンを動かし始めた。
「優ちゃん」
榊が言う。
「はい」
「本当に初めて?」
「こういうのは」
「そう」
それだけ。
榊はまたカメラを構えた。
撮影は続いた。
佳乃は優を見ていた。
知っている。
綺麗なのも。
可愛いのも。
人が優を見ることも。
友達が多いことも。
昔から。
ずっと。
知っていた。
ーーー知ってた。
白い背景の前で、優がほんの少し髪を払う。
カシャ。
周囲の視線がまた動く。
でも。
ーーー知らなかった。
こんな場所でも。
この子は最初から立てる。
教わっていない。
経験もない。
なのに、もうそこにいる。
家では、寝癖のついたまま佳乃のベッドへ転がり込んでくる。
じゃがりこを食べながら動画を見て、眠ければそのまま寝る。
犬が転ぶだけの動画を、わざわざ佳乃の顔の前まで持ってくる。
佳乃がずっと見てきた優は、そんな子だった。
今、目の前にいるのも同じ優だ。
顔も。
声も。
さっきまで「マークって何?」と聞いていたところも。
何も変わっていない。
変わったのは、優が立っている場所だけだった。
それだけで、佳乃の知らなかったものが次々と浮かび上がってくる。
佳乃は自分と優の間を見る。
ほんの数メートル。
それなのに、一瞬。
ずっと遠くに見えた。
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休憩。
佳乃はモニターの前に立っていた。
撮った写真が並んでいる。
優。
優。
優。
どの写真にも、目が止まる。
そこに。
自分が考えた目元、残した頬、選んだ色。
久世の手で形になったものがある。
佳乃一人が作ったわけじゃない。
分かっている。
メイクをしたのは久世。
光を作ったのはスタッフ。
写真を撮ったのは榊。
そこに立っているのは、優自身。
それなのに。
一枚を見た瞬間。
――私が作った。
そんな言葉が浮かんだ。
佳乃は自分で驚いた。
佳乃は反射的に、モニターの向こうを見た。
少し離れたところで、優がスタッフから水を受け取っている。
いつもの優だった。
それから、自分の手元へ目を落とした。
今日、この手は優の顔に一度も触れていない。
ファンデーションを伸ばしたのも。
色を乗せたのも。
リップを引いたのも。
全部、久世だ。
それでも、もう一度モニターを見る。
目尻の長さ。
頬に残した幼さ。
色の位置。
自分が選んだものが、そこにある。
違う。
自分だけじゃない。
そもそも優は、自分のものじゃない。
なのに、胸の奥が妙に熱い。
自分が、
ここは残したい、ここは変えたい、この色にしたい、優をこう見せたい。
そう思ったものが、写真になっている。
「……」
モニターから目を離せなかった。
次も。
その次も。
自分が作りたい。
その感情が浮かんで佳乃は少し怖くなった。
何を考えているんだろう。
「佳乃ちゃん」
久世の声で我に返る。
「はい」
「さっきからそこ見てるけど、何かある?」
「え」
「ここ」
久世が写真を指す。
佳乃が何度も見ていた一枚。
「あ……」
自分なんかが、言っていいのか迷う。
おこがましくないか。
プロが作ったものに。
「何?」
久世は待つ。
佳乃はモニターを見る。
「……リップ」
「濃い?」
「違います」
答えはすぐ出た。
「最初に、口を見る気がします」
久世が黙り、榊も隣からモニターを見る。
佳乃は画面を指した。
「私は、最初に目を見てほしいんです」
指が優の目元へ動く。
「目を見て、そのあとに口へ行ってほしい。でも今は、最初にここに行って、それから目に戻る感じがして」
久世が写真を見る。
しばらく。
「……なるほどね」
「変ですか」
「いや」
久世は優を呼んだ。
リップを少しだけ調整する。
もう一度撮影。
モニターへ出る。
榊が前の写真と並べる。
「……こっちだな」
佳乃の胸が跳ねた。
それだけだった。
褒められたわけじゃない。
なのに嬉しかった。
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「じゃ、次」
久世が言った。
「今度、私ならどうするか作っていい?」
佳乃は少しだけ緊張した。
「はい」
そこからまた差を見せつけられた。
久世は、佳乃のプランから完全に離れた。
色、陰影、眉、リップ。
佳乃なら怖くて触れない場所まで変える。
でも優が優ではなくならない。
「……」
佳乃は食い入るように見ていた。
どうして。
なんでそこを触っていいんだろう。
なんでこの色が合うんだろう。
さっきまで選ばなかった色なのに。
完成した優は別人のようだった。
大人っぽい。綺麗。さっきより強い。
しかもーーー
全然おかしくない。
「……すご」
佳乃が漏らす。
久世が笑う。
「どうも」
撮る。
当然のように写真も綺麗だった。
佳乃はモニターを見る。
悔しい。
自分にはできない。
こんなの。
まだ全然。
でもそれ以上に
知りたい。
どうやったのか、何を見ていたのか、何を基準に選んだのか。
久世が二つのルックを並べる。
一枚目。
二枚目。
視線が行き来する。
二枚目を少し拡大する。
戻す。
今度は一枚目を見る。
久世の指が、そこで止まった。
もう一度二枚目へ。
それから、また一枚目。
「……なるほどね」
桐島が横から聞く。
「何がです?」
久世は腕を組んだ。
「技術だけなら、もちろん私の方が上」
佳乃の指先が少し縮こまる。
分かっていた。言葉にしないで。
言葉にされると、やっぱり刺さる。
久世はもう一度一枚目を見る。
「でも」
少し間。
「一枚目の方が、目が戻る」
桐島が写真を見る。
「目が戻る?」
「一回別のところ見ても、またこの子を見る」
久世が佳乃を見る。
「佳乃ちゃんの方が、この子の残すところ知ってるのかもね」
「……」
佳乃は一枚目を見る。
さっきまで、久世の二枚目の方がずっと完成されていると思っていた。
今も、その考えは変わらない。
技術なら負けている。
なのに、自分が見ていたものにも、ちゃんと意味があったらしい。
佳乃は何も言えなかった。
久世は小さく笑う。
「面白い見方するね」
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撮影が終わった頃には佳乃は疲れ切っていた。でも帰りたいとは思わなかった。
桐島が二人を前に座らせる。
優はまだ撮影用の服を着ていた。
佳乃はノートを膝に乗せている。
朝は数ページしか使っていなかったのに。
今は書き込みだらけだった。
「まず、優さん」
「はい」
桐島が資料を閉じる。
「こちらとしては、モデルのお仕事を進めたいと思っています」
優が少し瞬きをする。
「合格?」
桐島の眉がわずかに動いた。
「……そうですね」
「じゃあ合格だ」
優が満足そうに笑う。
桐島は手元の資料を一枚めくった。
「それと、今日撮影した写真についてですが」
「はい」
「今日のテスト撮影で撮った写真は、今後、プロフィール資料や仕事先へお見せする資料として使用させていただく場合があります」
優が少し首を傾げた。
「……あ」
何か思い出したように瞬きをする。
「朝書いたやつ?」
「同意書ですね」
「ああ、あれ」
桐島が優を見る。
「内容は確認しましたか?」
「しました」
答えが妙に早かった。
隣で佳乃が優を見る。
「私が横で読んでたからでしょ」
「私も見てたよ」
「途中から受付のポスター見てたじゃん」
「だいたいは」
桐島の視線が少しだけ鋭くなる。
「ご自身の同意書です。次からは、きちんと最後まで確認してください」
「はい」
優が素直に返事をする。
佳乃は小さくため息をついた。
「なお、実際に外部へ公開する写真や使用範囲については、その都度こちらから確認します」
「分かりました」
優はそう答えてから、一度モニターの方を見た。
「今日の写真、使うんですか?」
「何枚かは」
「へえ」
少し嬉しそうだった。
それ以上深く考えている様子もなく、優はまた笑った。
桐島はそのまま佳乃を見る。
「佳乃さん」
「はい」
急に身体が固くなる。
「あなたも、今回のテストについては合格です」
佳乃は返事をしなかった。
聞こえなかったわけではない。
むしろ、はっきり聞こえすぎて、意味が追いつかなかった。
自分が、合格。
膝の上で組んでいた指が、ゆっくりほどける。
隣を見ると優と目が合った。
優は何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元を上げた。
佳乃はもう一度桐島を見る。
「……私も?」
「ただし」
桐島の声は変わらない。
「意味は優さんとは違います」
佳乃が膝の上で指を組む。
「あなたの技術については、まだ判断できません」
胸が少し沈む。
「今日、実際に施術したのは久世さんです。あなたが一人で同じものを、必要な時間内に作れるかは分からない」
「……はい」
「それに、今のあなたをメイクアップアーティストとして現場に出すこともできません」
佳乃は頷いた。分かっていた。
「でも」
桐島が続ける。
「見る力はあります」
佳乃が顔を上げる。
「考えたものを言葉にする力もある。分からなかったことを一度理解してから、修正案を出すまでの速さも」
久世が横で黙って聞いている。
「少なくとも、今日それは確認できました」
桐島は少し間を置く。
「今も養成課程には在籍しているんですよね」
佳乃の肩がわずかに硬くなる。
「……はい」
「なら」
桐島ははっきり言った。
「まず、修了してください」
佳乃は息を止めた。
「美容師免許を取るところまで来てください」
「……」
「そこからです」
佳乃の指がノートの端を握る。
「取れたら……」
声が少し小さくなる。
「仕事、できますか」
桐島はすぐには答えなかった。
「今日だけで、そこまでは約束できません」
佳乃の視線が少し落ちる。
「ただ」
また顔を上げる。
「その時は、もう一度あなたを見たいと思っています」
佳乃は何も言えなかった。
胸の奥に、怖さと、それとは別の何かが混ざっている。
桐島は優を見る。
「優さんは、どうしますか?」
「私?」
「モデルのお仕事です」
優は少し考えた。それから佳乃を見る。
「お姉ちゃん、続きやる?」
佳乃の目が少し開く。
「私?」
「うん」
「今聞くの?」
「だって関係あるし」
桐島が二人を見ている。
佳乃は答えられなかった。
優は少し待った。
視線が、佳乃の膝の上へ落ちる。
朝よりずっと文字の増えたノート。
それから佳乃の顔を見る。桐島へ戻る。
「お姉ちゃんが続きやるなら、私もやります」
「佳乃さんのために?」
優は少し考える。
「それもあります」
一拍。
「今日、撮られるのも結構面白かったし」
優は自分の服を見下ろす。
「知らない服着れるのも楽しかった」
それからまた佳乃を見る。
「でも、お姉ちゃんが関われないなら、多分やらないです」
佳乃の胸が、また変な鳴り方をした。
桐島は数秒優を見る。
「分かりました」
ただ淡々とそれだけ。
でも何かを理解した顔をしていた。
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帰り道。
佳乃はノートを開いたまま歩きそうになって、優に止められた。
「危ないよ」
「分かってる」
「分かってない人の歩き方だった」
佳乃はノートを閉じる。
でも頭の中は閉じなかった。
久世の手、色、照明、写真、リップ、自分が間違えたところ、自分が気づいたところ。
全部が回っている。
次なら、もう少し、こうしたい。
そんなことも。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「今日さ」
優が少し笑う。
「めっちゃ喋ってたね」
「……誰が」
「お姉ちゃん」
「そう?」
「久世さんと話してるとき、途中から私より喋ってた」
佳乃は少しだけ恥ずかしくなった。
「メイクの話だったから」
「うん」
少し歩いて佳乃が足を止めた。
「ゆう」
優も止まる。
「何?」
佳乃はノートを見る。
今日書いた文字、今まで知らなかったこと、まだできないこと。
いっぱいある。
「……私」
言葉が一度止まる。
優は待っている。
「もっと上手くなりたい」
口にして自分で少し驚いた。
優は驚かなかった。
「うん」
「今日、知らないことばっかりだった」
「うん」
「ほんとに悔しかった」
「うん」
佳乃はノートを胸の前に抱える。
少しだけ笑う。
「でも」
優を見る。
「楽しかった」
優も笑った。
佳乃はもう一度ノートを見る。
まだ全然足りない。
それでも。
「もっと、やりたい」
今度は、言ってから後悔しなかった。




