第八話 続き
テスト撮影から、四日が経った。
「写真来た」
佳乃が言った。
ベッドに寝転がっていた優が、スマートフォンから目だけを上げる。
「私にも来てる」
優が身体を起こした。近い。
佳乃は肩で押し返した。
「じゃあそっちで見れば?」
「充電二パー」
「充電しなさいよ」
桐島から二人に送られてきたメッセージには、テスト撮影で撮った写真の中から選ばれたデータが何枚か添付されていた。
「重い」
「まだ乗ってない」
「時間の問題でしょ」
「信用ないなあ」
「あると思ってるの?」
「ちょっとは」
言いながら、優は結局佳乃の肩へ顎を乗せた。
「重い」
「顎だけじゃん」
「骨が痛い」
「ひど」
桐島から届いたメッセージには、テスト撮影で撮った写真の中から選ばれたデータが何枚か添付されていた。佳乃が一枚目を開く。
「あ」
優が小さく声を上げる。
最初のルック。佳乃が考えて、久世が形にしたもの。
白い背景の前に立つ優。
撮影中、モニターでは何度も見た。
それでも、きちんと選ばれて整えられた一枚として見ると、また少し違って見える。
「これ好き」
優が言った。
「……うん」
佳乃は指で画面を拡大する。
目元、頬、口元。
「やっぱ、ここもうちょっと……」
「始まった」
「何が」
「お姉ちゃんの反省会」
「反省じゃない」
「じゃあ何?」
「確認」
「同じじゃない?」
「違う」
優は興味を失ったように枕へ戻った。
佳乃は構わず写真を見る。撮影中に修正したリップ。最初より少し視線が目元へ流れるようになっている。
けれど。
「もうちょい色落としてもよかったかな……」
「聞いてる?」
「聞いてない」
「まだ何も言ってないけど」
「じゃあ話しかけないで」
「横暴」
次の写真へ送る。
今度は優が横を向いている。
その次。
少し強い表情。
さらにその次。
久世が自由に作った二つ目のルック。
佳乃の指が止まった。
やっぱり、綺麗だった。
自分が考えたものより、完成されている。
肌、陰影、眉、色のつながり。
何度見ても、自分にはまだできない。
佳乃は画面をさらに拡大した。
「……ここ、どうやってるんだろ」
優がまた顔を寄せる。
「どこ?」
「ここ」
「どこ?」
「頬から目元のとこ」
「全部顔じゃん」
「違うって」
佳乃が指で示す。
「ここから、ここ。色変わってるのに境目ほぼ見えないでしょ」
優が画面へ顔を近づけた。
数秒。
「分からん」
「もういい」
「呼んだのそっちじゃん」
「呼んでない」
「見せてくれた」
「勝手に来たの」
「はいはい」
優はまた寝転がる。
佳乃は写真を見続けた。
撮影の日、久世の手を見ていた。
近くで。
かなり近くで。
それでも分からないことが、写真になるとまた出てくる。
どうしてこの色を選んだのか。なぜここまで変えても優に見えるのか。
光が当たったとき、どこまでを予想していたのか。
気づけば、机の上に置いていたノートへ手を伸ばしていた。
優がそれを見る。
「書くの?」
「忘れるから」
「何を?」
「分かんないこと」
「分かんないこと書けるの?」
佳乃の手が止まった。
「……確かに」
優が吹き出した。
「書けないじゃん」
「『分かんない』って書くの」
「便利」
佳乃は本当に、
『頬〜目元 境目?』
と書いた。
「雑」
「あとで調べるの」
「へえ」
次の写真。
また書く。
次。
また止まる。
いつの間にか写真を見るより、ノートへ書き込んでいる時間の方が長くなっていた。
「お姉ちゃん」
「何」
「楽しい?」
佳乃のペン先が止まる。
優はベッドの上で頬杖をついていた。
「……何が」
「それ」
ノートを見る。
佳乃も見る。
字、矢印、疑問符。
途中から自分にしか読めないようなメモまで増えている。
「別に」
「ふーん」
「何」
「楽しそうだから」
「この前も言ってたよね、それ」
「だって楽しそうだもん」
佳乃は返事をせず、写真へ戻った。
少しして。
「……楽しいけど」
小さく言った。
優は何も返さなかった。
ただ、枕へ顔を戻した。
口元だけ少し笑っていた。
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写真を一通り見終わった頃。
優のスマートフォンが震えた。
「ん」
優が手を伸ばす。
画面を見る。
「桐島さん」
佳乃の顔が上がる。
「何?」
「今見る」
「早く」
「お姉ちゃんのじゃないんだけど」
「いいから」
「めっちゃ気にするじゃん」
優がメッセージを開く。
数秒。
「あ」
「何」
「仕事だって」
佳乃の身体が少し前へ出た。
「何の?」
「撮影」
「それは分かる。何の撮影?」
「えっと……」
優が読む。
「アパレルのWeb?」
「見せて」
「近い近い」
佳乃は優のスマートフォンを覗き込む。
国内の小さなアパレルブランド。
春物のWeb用ビジュアル。
撮影は二月上旬とのことだった。
桐島が先日のテスト写真を資料として見せたところ、先方から一度起用してみたいと返事があったらしい。
「……もう?」
佳乃が呟く。
「ね」
「ね、じゃなくて」
「何」
「すごくない?」
優は少し考える。
「そうなの?」
「知らないけど」
「じゃあ何で言ったの」
「普通もっと時間かかるんじゃない?」
「普通知らないでしょ」
「知らないけど!」
優が笑う。
佳乃はもう一度画面を見る。
「撮影いつ?」
「書いてあるじゃん」
「二月の……土曜日?」
「学校休み」
「場所は?」
「都内」
「メイクは?」
優が佳乃を見る。
「そこ?」
「そこ大事でしょ」
「お姉ちゃんにはね」
佳乃は黙った。
優が少し笑ってから、続きを読む。
「先方で用意するって」
「……そっか」
ほんの少しだけ、胸の奥が落ちる。
でも、前とは違った。
知らない誰かが優へメイクする。
寂しくないわけではない。
それでも今は、それ以上に。
誰がやるんだろう。
どんなメイクにするんだろう。
何を見て優を作るんだろう。
見てみたいとそう思った。
撮影を見たい。
プロのメイクも見たい。
それは本当だった。
なのに、優だけが自分の知らない場所へ行くことを想像すると、なぜか少し落ち着かなかった。
佳乃はその感覚を、すぐにメイクのことへ戻した。
「私も行けないかな」
口にしてから、佳乃は優を見る。
「撮影?」
「……見学とか」
「桐島さんに聞けば?」
「邪魔でしょ」
「知らない」
「仕事なんだから」
「じゃあ聞くだけ聞けば?」
佳乃は少し考えた。
「……やめとく」
「何で」
「まだ私、何でもないし」
言ってから少しだけ引っかかった。
何でもないという、その言葉。
数日前なら、そのまま飲み込んでいた気がする。
でも今は。
机の上のノートが目に入った。
久世から教わったこと、自分が気づいたこと、分からなかったこと。
全部そこにある。
佳乃は指先でノートの端をなぞった。
今は。
まだ。
「……そのうち行く」
「何?」
「何でもない」
優は不思議そうに佳乃を見たあと、また桐島への返信を考え始めた。
「なんて返せばいい?」
「出られるならお願いします、でいいでしょ」
「じゃ書いて」
「自分で書きなさい」
「お姉ちゃん得意じゃん」
「私も得意じゃない」
「前返してたじゃん」
「十分悩んだからね!」
優は笑いながら、自分で文字を打ち始めた。
その姿を見ながら佳乃はもう一度、机の上の写真を見た。
優の次は、もう決まった。
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その日の夜。
優が風呂へ入っている間に、佳乃はクローゼットの前へ座っていた。
奥から、あのファイルを取り出す。
一週間前。
テスト撮影のために開いた教材。
透明な表紙の向こうに、自分の名前がある。
前に見たときより少しだけ、手に取るのが早かった。
机へ置く。
椅子に座る。
開く。
最初の方は、相変わらず書き込みだらけだった。
蛍光ペン、付箋、端へ書いた小さな文字。
ページをめくる。
少しずつ書き込みが減っていく。
そして空白。
次も空白。
提出期限だけが印刷されたページ。
佳乃の指が止まる。
前に開いたときはここから先を見られなかった。
自分が止まった場所が、そのまま紙の上に残っているように見えたから。
課題を出せなかった。
スクーリングへ行けなかった。
教材を開いても頭に入らなかった。
何度読んでも同じ行へ戻った。
あの頃の自分が、余白の中に残っている気がした。
今日も空白は空白だった。
なくなってはいない。
できなかった時間も、途中で止まったことも、何も変わっていない。
佳乃はしばらくページを見つめていた。
そして一枚めくった。
また、空白。
もう一枚。
提出するはずだった課題の説明。
その次。
まだ何も書かれていない解答欄。
佳乃は指で、白い紙をなぞった。
前は。
そこに何もないことが怖かった。
今日は。
少しだけ違って見えた。
できなかった場所であることには変わらない。
でも、まだ。
書くところは残っていた。
「……」
佳乃はファイルを閉じなかった。
スマートフォンを取る。
一年以上まともに触れていなかった、養成課程のページを開く。
ブックマークには残っていた。
一年以上触っていなかったリンク。
ログイン画面。
ID。
パスワード。
一度間違える。
「……何だっけ」
二度目。
入れた。
画面に、自分の名前が表示される。
在籍情報、残っている課題、スクーリング、連絡先。
項目が並んでいる。
佳乃の視線は、「残っている課題」の文字に触れて、すぐに逸れた。
開けば、数字が出る。
どれだけ残っているのか。
どれだけ止めたままなのか。
今は、見たくなかった。
テスト撮影の帰り道では、
もっと上手くなりたい。
もっとやりたい。
確かにそう思った。
今も嘘ではない。
でも。
やりたいと思うこととできることは違う。
また途中で止まったら。
今度こそ本当に終わったら。
また何もできなくなったら。
頭の中に浮かび始める。
佳乃は画面から目を逸らした。
机の端に置かれたノートが目に入る。
今日写真を見ながら書いたもの。
分からない。
どうやってる?
色?
光?
そんな文字ばかり。
分からないことだらけだった。
それなのに知りたいと思った。
その気持ちは、まだ消えていなかった。
佳乃はもう一度スマートフォンを見る。
問い合わせ。
指が止まる。
タップした。
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『お世話になっております。橘佳乃です。』
そこまで打って、止まった。
何を書く。
体調を崩してから、課題やスクーリングを中断していたこと、長い間連絡できなかったこと。
これから再開できるのか知りたいこと。
書くことは分かっている。
なのに、送る文章にすると急に喉が狭くなる。
『長らくご連絡できず、申し訳ありません。』
打つ。
消す。
『体調を崩してしまい、履修を中断しておりました。』
残す。
その次。
『現在は――』
指が止まる。
現在は、何だろう。
元気です。
違う。
回復しました。
それも違う。
以前よりは外へ出られる。
でも、動けない日もある。
人と話すのが怖い日もある。
この前は撮影スタジオまで行った。
でも、それが明日もできるとは限らない。
佳乃は『現在は』を消した。
何も説明しなくていいのかもしれない。
今知りたいのは、自分が続きを始められるかどうか。
『残っている課題やスクーリングについて、履修を再開したいと考えています。今後必要な手続きと、現在の履修状況について確認させていただけますでしょうか。』
打った。
読み返す。
一回。
二回。
三回。
「……」
送信ボタン。
前にもこうやって指が止まったことがある。
Instagram、桐島へのDM。
あの時も、押した先で何かが始まるのが怖かった。
今回も同じだった。
送らなければ。
今日までと同じでいられる。
教材はまた閉じればいい。
引き出しへ戻せばいい。
誰にも迷惑はかからない。
何も変わらない。
それでも、佳乃は机の上を見る。
開いたままのファイル、空白のページ、その横のノート。
ーーーー書き込みだらけの、今日のノート。
何もなかったところに、少しだけ文字が増えていた。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく呟く。
送る。
画面が切り替わる。
送信済み。
佳乃はしばらく、その文字を見ていた。
心臓が速い。
指も少し冷たい。
でも、スマートフォンを伏せようとは思わなかった。
「お姉ちゃーん」
廊下から声がした。
「何」
「ドライヤーどこー」
「洗面所!」
「ないー」
「昨日優が持ってったでしょ!」
「あ」
「自分の部屋見て!」
足音が遠ざかる。
少しして。
「あったー!」
「でしょ!」
佳乃は息を吐いた。
笑う。
画面にはまだ、
送信済み。
の文字。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数分後。
優が髪を半分濡らしたまま部屋へ戻ってきた。
「何してんの」
「乾かしなよ」
「暑い」
「風邪ひくよ」
「ひかない」
「何その自信」
優がベッドへ座る。
佳乃は少し迷ってから、スマートフォンを持ち上げた。
「ゆう」
「んー?」
「送った」
「何を?」
「学校」
優の目が佳乃へ向く。
ほんの一瞬。
「おー」
佳乃は待った。
終わりだった。
「……それだけ?」
「おめでとう?」
佳乃は一瞬黙った。
「それ前も言った」
「いつ?」
「インスタ載せたとき」
優が少し考える。
「覚えてない」
「最悪」
佳乃が笑う。
優も笑った。
「でもよかったじゃん」
優が言った。
佳乃の笑みが少しだけ止まる。
「……まだ分かんないよ」
「何が?」
「戻れるかとか。どれだけ残ってるとか。ちゃんと続けられるかも」
「うん」
「また無理になるかもしれないし」
「うん」
優は否定しなかった。
大丈夫。
絶対できる。
そんなことは言わなかった。
「返事来たら考えれば?」
それだけだった。
佳乃は少しだけ優を見る。
「……そうだね」
「あと髪乾かして」
「今それ言う?」
「風邪ひかないんでしょ」
「ひかない」
「じゃあ知らない」
「乾かして」
「自分でやって」
「今日くらいいいじゃん」
「何の今日?」
「お姉ちゃん学校にメール送った記念日」
「関係なさすぎ」
優が笑いながらドライヤーを差し出してくる。
佳乃はしばらく見て、結局受け取った。
「座って」
「やった」
優が床へ座る。
佳乃はスイッチを入れた。
温かい風が、濡れた黒髪を揺らす。
机の上には、開いたままの教材。
その隣には、テスト撮影の写真。
優の次の撮影は、もう決まっている。
佳乃の方は。
まだ、返事すら来ていない。
それでも。
引き出しの奥へ戻さなかったページが、そこにあった。




