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第九話 一ページ

学校から返信が来たのは、翌日の昼だった。


佳乃はベッドの上でスマートフォンを見ていた。


通知に表示された学校名を見つけた瞬間。


指が止まる。


昨日は。


返事が来たら考えればいい。


そう優に言われて、少しだけ楽になった。


でも。


本当に来ると、やっぱり怖い。


「……早い」


小さく呟く。


開かなくても、通知は消えない。


佳乃は一度スマートフォンを伏せた。


天井を見る。


五秒。


十秒。


また手に取った。


「……見るだけ」


誰に言い訳しているのか分からない。


メッセージを開く。


『橘佳乃さん』


自分の名前。


それだけで背筋が少し固くなった。


『ご連絡ありがとうございます。現在も在籍されていますので、履修の再開は可能です。』


そこで。


佳乃の目が止まった。


「……可能」


声に出してみる。


もっと何か言われると思っていた。


長期間止まっていること。


連絡をしなかったこと。


今まで何をしていたのか。


どうして今さら戻るのか。


そんなことを聞かれる気がしていた。


でも。


書いてあるのは、ただ。


再開は可能です。


それだけだった。


続きを読む。


現在の履修状況。


未提出のレポート。


六通。


未履修のスクーリング。


実習を中心に、あと十一日。


修了に必要な手続き。


今後の提出期限。


数字が並んでいる。


佳乃の視線が、上から下へ動く。


六通。


十一日。


多い。


思った。


でも。


思っていたよりは、少なかった。


前にサイトを開いたときは、履修状況の欄をなるべく見ないようにしていた。

見たくなかった。

だから、残っているものはきっと山ほどあると、勝手に思っていた。

最初から全部やり直しになるような気もしていた。


三年近く。


そこまで積み上げてきたものまで、家に引きこもるようになってから全部消えていくような。


そんな気がしていた。


消えていなかった。


途中で止まったままで、ちゃんと残っていた。


少しだけ胸が軽くなる。


そのまま続きを読む。


最後の方に、


『なお、課程修了後に美容師国家試験の受験を予定される場合は、国家試験対策についてもご相談ください。』


佳乃の指が止まった。


「……あ」


そうだった。


学校を終わらせれば終わりじゃない。


美容師免許。


桐島に言われた言葉が戻る。


『美容師免許を取るところまで来てください』


国家試験。


佳乃は学校のページを開いた。


そこから、国家試験対策の案内。\

実技――カッティング、ワインディング、衛生上の取扱い。\

筆記――関係法規・制度、運営管理、衛生管理、保健、香粧品化学、文化論、美容技術理論。


画面を下へ送るたび、項目が増える。


「……多」


今度は声が出た。


六通。


十一日。


その先に。


これ。


一瞬。昨日より遠くなった気がした。


昨日は、続きを始める。


それだけだった。


今は、その続きの先まで見えてしまった。


国家試験、免許、仕事、桐島、久世、撮影現場、全部が一本の道になっている。


そして、その道が思っていたよりずっと長い。


佳乃はスマートフォンを伏せた。


「……」


無理かもしれない。


頭に浮かぶのは早かった。


また途中で止まるかもしれない。


スクーリングへ行けない日が来るかもしれない。


国家試験まで辿り着けないかもしれない。


久世みたいになるなんて。


ずっと先。


いや、そこまで行けるかも分からない。


佳乃はベッドから床へ下り、そのまま背中をベッドの縁へ預けた。


膝を抱える。


額を伏せる。


しばらく、そのまま動かなかった。


*


玄関が開いた音がした。


「ただいまー」


佳乃は顔を上げる。


時計を見る。


午後四時半。


「……え」


もうそんな時間だった。


階段を上がる音。


数秒後。


優が部屋を覗く。


「お姉ちゃん」


「ん」


「何してんの?」


「別に」


優が部屋へ入ってくる。


制服のまま鞄を床へ置く。


机を見る。


昨日開いたファイル。


その横のノート。


それから、床に座ったままの佳乃を見る。


「返事来た?」


「……来た」


「どうだった?」


「戻れるって」


優はリボンを緩めながら、


「よかったじゃん」


と答える。


佳乃は少し黙る。


「課題六個」


「へえ」


「学校もあと十一日行かないとダメ」


「へえ」


「そのあと国家試験」


「へえ」


佳乃が優を見る。


「反応薄くない?」


「だって私、国家試験よく分かんないし」


「私も分かんないよ」


「じゃあ一緒じゃん」


「違うでしょ」


優はリボンを外した。


「で、やるの?」


佳乃は少し眉を寄せる。


「……何を」


「課題」


「今日?」


「知らない」


「聞いたじゃん」


「お姉ちゃんが今日やるかどうかは知らないもん」


優は佳乃の背中側にあるベッドへ腰を下ろした。


いつもなら、もっと真ん中まで寝転がる。


今日は、佳乃の肩のすぐ後ろ。


ほんの少し近い。


佳乃は気づいたけれど、何も言わなかった。


「やらないなら犬見る?」


「また犬」


「今日は猫もある」


「種類の話じゃない」


「どっち?」


優が首を傾げる。


学校のことをもう聞こうとはしなかった。


スマートフォンを片手に持ったまま、ただ佳乃の返事を待っている。


昔からそうだった。


佳乃が何も言いたくないとき、優は無理に聞かない。


そのくせ、何でもない顔で隣にはいる。


佳乃は机を見る。


開いたままの教材、空白のページ。


さっきまで、六通、十一日、国家試験、そんな数字ばかりが頭の中で膨らんでいた。


なのに、隣から犬だの猫だの言われていると、それだけが世界の全部ではないような気がしてくる。


「……一個だけやる」


優は佳乃を見た。


一瞬だけ。


それからいつもの調子で笑う。


「じゃあ犬あとね」


「見ないよ」


「猫?」


「そうじゃない」


佳乃も少しだけ笑った。


ベッドの縁へ手をついて立ち上がる。


何か大きな決意をしたわけじゃない。


怖くなくなったわけでもない。


ただ、一個だけなら。


そう思えた。


優は着替えてくると言って、部屋を出ていった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


机に座る。


ファイルを開く。


学校から届いた履修状況と見比べる。


『未提出 美容技術理論』


一通。


佳乃はそこを選んだ。


理由は単純だった。


一番今やりたいことに近そうだったから。


問題を読む。


一行目。


二行目。


「……」


戻る。


もう一度。


一行目。


二行目。


三行目。


また戻る。


佳乃の指が止まる。


頭に入らない。


一瞬胸の奥が冷たくなる。


あの頃と同じだった。


机に座って、文字を読んで、何も入ってこない。


同じ場所を何度も行ったり来たりする。


締切だけが近づいて、できない自分だけが残る。


佳乃はページから目を離した。


閉じたくなった。


ファイルの端へ手をかける。


「……」


そこから。


頭の中が一気にうるさくなった。


まただ。


やっぱり読めない。


昨日は、やりたいなんて言えたのに。


結局何も変わっていない。


高校へ通っていた自分が浮かぶ。


友達に囲まれて、学校の課題もこなして、通信課程の美容の勉強も続けて。


メイクのコンテストでは賞も取った。


できていた頃の自分。


あの頃ならこんな一ページで止まらなかった。

なのに、戻りたいとは思えなかった。

あの頃の自分は、どこか遠い。

少しだけ、嫌いだった。

それでも、メイクが楽しかったことまで嘘だったわけじゃない。


比べるな。


そう思う。


でも勝手に比べる。


昔の自分と今の自分。


どうしてできないの。


なんでこんなことも。


また全部できなくなるんじゃないか。


夢なんて持たない方がいいんじゃないか。


どうせ。


「……っ」


佳乃は目を閉じた。


その暗闇の中に別の顔が浮かんだ。


白い背景の前に立っていた優。


自分が考えた目元、残した頬、色、久世の手を通して、形になった優。


その次に、家で笑っている顔、じゃがりこを食べながら、くだらない動画を見せてくる顔。


『お姉ちゃんっぽい』


あの声。


佳乃の指から、少しだけ力が抜けた。


もう一度、撮影の日の優を思い出す。


自分が考えたものが、優の顔の上で形になった。


あのとき嬉しかった。


次も、その次も。


自分が作りたいと思った。


そして今、知らない誰かが優の顔へ色を乗せるところを想像する。


プロの人。


自分より上手い人。


きっと、これから何人もいる。


その人たちが自分の知らない優を作っていく。


胸の奥に、ざらりとしたものが走った。


嫌だ。


思ってから佳乃自身が、その感情に少し驚いた。


優は自分のものじゃない。


そんなことは分かっている。


それでもただ横で見ているだけなのは嫌だった。


自分も優を作る側にいたい。


もっと上手くなりたい。


もっと知りたい。


あの場所に。


自分もいたい。


佳乃は目を開けた。


ファイルはまだ開いている。


白いページ。


文字。


読めないわけじゃない。


ただ。


今は時間がかかる。


佳乃は一度息を吐いた。


一ページ。


いや。


一問。


それだけでもいい。


ファイルの端から手を離した。


もう一度。


読む。


分からない言葉がある。


昔なら。


そのまま先へ進もうとしていた。


読まなきゃ。


終わらせなきゃ。


早く。


でも今日は。


スマートフォンを取った。


調べる。


一つ。


意味が分かる。


「あ」


もう一度文章を見る。


さっきより、少しだけ読める。


その次また分からない。


調べる。


今度は、その説明の中に別の言葉が出てくる。


それも調べる。


さらに関連する図が出てくる。


佳乃の目が止まった。


「……これ」


撮影の日。

久世が言っていたことに繋がる。

光、色、肌。

佳乃はノートを引き寄せた。


書く。


一行。


矢印。


また調べる。


教材へ戻る。


次。


「……なるほど」


いつの間にか課題を終わらせるために読んでいたはずなのに、別のページまで開いていた。

皮膚、毛髪、薬剤、色彩。

そこから撮影で使われていた化粧品の商品ページまで飛んでいる。


「これ、だから薄かったのか……」


ノートへ書く。


また調べる。


課題へ戻る。


一問。


書く。


次。


「……」


「お姉ちゃん?」


返事がない。


「お姉ちゃん」


肩を叩かれた。


佳乃がびくっと振り向く。


「何!?」


優が立っている。


「いや、何って」


「びっくりした……」


「私さっきから三回呼んだ」


「嘘」


「ほんと」


優がスマートフォンの画面を見せる。


「今何時だと思う?」


佳乃が時計を見る。


六時四十分。


「……え」


「何時だと思ってた?」


「五時くらい」


「帰ってきたの四時半だけど」


佳乃は机を見る。


教材、スマートフォン、ノート、開いたページ。

書き込み。


「……二時間?」


「うん」


優がノートを覗く。


「一個だけじゃなかったの?」


「課題はまだ一個だよ」


「じゃあ何してたの」


「調べてた」


「何を?」


佳乃は答えようとして。


止まる。


「……色々」


「便利な言葉」


「本当に色々なの」


「課題終わった?」


「まだ」


優が笑った。


「二時間やって?」


「うるさい」


「効率悪」


「分かんないまま書けないでしょ」


「真面目」


「普通」


「普通かなあ」


優はノートを見る。


最初のページ、次。


その次。


「めっちゃ書いてるじゃん」


「関係ないこともある」


「何で?」


「気になったから」


佳乃は優を見る。


さっきまで教材の中でばらばらだったものが。


少しずつ繋がっている、肌、色、光、化粧品。


その全部の先に、優の顔がある。


また、少しだけ胸が熱くなった。


もっと知れば、もっと違う優を作れる。


もっと。


自分にしか見つけられないものを、形にできるかもしれない。


優は何も知らずに、佳乃のノートを眺めている。


しばらくして。


その目が佳乃へ戻った。


「お姉ちゃんってさ」


「何」


優の口元が、ゆっくり緩む。

撮影のときに見せた顔とは全然違う。

仕事のためでも、誰かに見せるためでもない。

いつもの優の笑い方。


「めんどくさいね」


佳乃が振り返る。


「は?」


優が笑って逃げる。


「いい意味で!」


「いい意味のめんどくさいって何!」


「ご飯ー!」


「逃げんな!」


優が部屋から出ていく。


佳乃は少し睨んだあと。


ノートを見る。


確かに、課題には必要ないことまで書いている。


でも、消そうとは思わなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その日の夜。


結局最初の課題を一通、最後まで終わらせた。


提出はまだしなかった。


明日もう一度読み直す。


そう決めた。


机の上。


六通あった未提出のうち。


一つ。


まだ提出していないから、数は減っていない。


それでも白かった解答欄には文字がある。


佳乃は少しだけ眺めてから。


ファイルを閉じた。


今日は閉じても怖くなかった。


明日また開くつもりだったから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌日。


佳乃は昼を過ぎてもベッドにいた。


目は覚めている。


でも身体が重い。


昨日。


二時間どころじゃなかった。


夕食のあとも調べものをして。


風呂のあとも少しだけ、と教材を開いて。


気づけば日付が変わっていた。


「……」


机を見る。


昨日のまま。


教材、ノート、ペン。


起きれば続きをできる。


分かってる。


でも身体が動かない。


佳乃は布団を少し上まで引いた。


昨日できたのに。


頭に浮かぶ。


昨日はあんなにできた。


今日は何もできない。


まただ。


やっぱり。


昨日だけだったのかもしれない。


胸が少し苦しくなる。


以前ならここから先は早かった。


昨日できたのに今日はできない。


じゃあもうできない。


向いていない。


続かない。


結局同じ。


全部やめる。そこまで一気に行っていた。


佳乃は目を閉じた。


でも、机の上の教材は昨日のままだった。


引き出しへ戻していない。


提出できるところまで書いた課題も。


そこにある。


昨日できたことまで、なくなったわけじゃない。


「……今日は無理」


小さく言った。


誰に許可を取るでもなく。


その日は本当に何もしなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


夕方。


優が帰ってきた。


「ただいまー」


「……おかえり」


優が部屋を覗く。


佳乃はベッド。


机には昨日の教材。


優の視線が一度そこへ行った。


でも何も聞かなかった。


鞄を床へ置く。


制服のまま、佳乃のベッドへ近づく。


「さむ」


「制服着てるじゃん」


「寒いもん」


優は勝手に布団の端をめくった。


「ちょっと」


「端っこだけ」


「自分の部屋行ってよ」


「遠い」


「隣でしょ」


返事の代わりに優がもぞもぞと布団へ潜り込んでくる。


布団と擦れて、黒い髪がぐしゃぐしゃになる。


しばらくして佳乃の目の前から、ぼさぼさの頭だけが出てきた。


「……何その髪」


「静電気」


「ひど」


「直して」


「今無理」


「じゃあこのまま」


「好きにして」


優は本当にそのままスマートフォンを取り出した。


課題のことは聞かない。


今日何をしたのかも昨日の続きをやったのかも。


佳乃は少し待った。


何も続かない。


だから自分から口を開いた。


「……昨日はできたのに」


「うん」


優は画面を見たまま答える。


「今日、何もしてない」


「うん」


「課題、まだ五個もあるし」


そこで優の指が止まる。


ほんの一瞬。


「昨日六個じゃなかった?」


佳乃が少し顔を上げる。


「……まだ出してないから六個」


「じゃあ出せば五個じゃん」


「読み直してない」


「明日読めば?」


佳乃は黙った。


「簡単に言うよね」


「難しく言った方がいい?」


「そういう意味じゃない」


優はまた画面へ目を戻す。


「今日やらないの?」


「……無理」


「じゃあ明日やれば?」


「明日も無理だったら?」


優が顔を上げた。


「明後日?」


「……」


「明後日も無理なら、その次」


佳乃は優を見る。


「いつまでそれやるの」


優は少し考えるように目線を上へやった。


「できるまで?」


あまりにも普通に言った。


簡単だと思っているわけじゃないことくらい。


佳乃にも分かっていた。


優だって何度も佳乃が止まるところを見てきた。


コンビニへ行けない日も、何日も何もできない日も。


それでも優はいつもできなかった日の次を、勝手になくしたりしない。


佳乃は少しだけ呆れる。


「雑」


「この前も言われた」


「成長してないね」


「お姉ちゃんはしてるじゃん」


佳乃の表情が止まる。


優はもうスマートフォンへ目を戻していた。


「昨日、一個やったんでしょ」


「……まだ出してない」


「でもやったじゃん」


それだけ、大げさに褒めもしない、慰めもしない。


ただ佳乃が見落としていたものを、一つ拾った。


佳乃は机を見る。


昨日のページ。


文字が埋まっている。


今日は一文字も増えていない。


でも減ってもいない。


佳乃は布団へ顔を埋めた。


「犬見る?」


優が聞く。




「……猫」


「今日は犬しかない」


「使えない」


「ひど」


佳乃が答える。少しだけ笑った。


その日は最後まで教材を開かなかった。


でも、しまわなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


さらに翌日。


朝。


佳乃は机の前に座った。


昨日は何もしなかった。


だからといって一昨日の続きが消えたわけではない。


課題を開く。


最初から読む。


少し直す。


一行。


その次。


佳乃のペンが動く。


昨日は白いままだったページに。


また一つ。


文字が増える。


大した量じゃない。


一ページ。


ただ、それだけ。


それでも佳乃は次のページをめくった。


そこはまだ。


真っ白だった。


少しだけ眺める。


ペンを持ち直す。


今度は置かなかった。

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