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第六話 一週間

桐島から連絡が来たのは、面談から二日後だった。

夕食を食べ終えて、優がリビングのソファでテレビを眺めている横で、佳乃はスマートフォンを開いた。


画面の上に、見覚えのある名前が表示されている。


桐島玲奈。


佳乃の指が止まった。

「……来た」


「何が?」

優がポテトチップスを口に入れながら聞く。


「桐島さん」


「あー」

優の返事が軽い。


佳乃は緊張した様子でメッセージを開いた。

社内で確認が取れたこと。

テスト撮影を行うこと。

日時。

場所。

当日の簡単な流れ。


そして、佳乃には事前に優のメイクプランを考えてきてほしいこと。


読み進めていくうちに、佳乃の目が日付で止まった。


「……一週間後」


「うん」


「一週間後だって」


「聞こえた」

優はテレビから目を離さない。


佳乃はもう一度日付を見る。

間違っていない。

七日後。


「一週間しかない」

そこでようやく、優が振り返った。


「一週間もあるじゃん」

優がポテトチップスを口に運んだ。


「ないよ」


「あるよ」


「七日だよ?」


「それを一週間って言うんじゃない?」


「そういう話じゃなくて」

佳乃はスマートフォンを握ったまま立ち上がった。


「何準備すればいいんだろ」


「メイク?」


「それは分かってる」


「じゃあ大丈夫じゃん」


「大丈夫じゃない」

佳乃はもう一度メッセージを読む。


優はしばらくそんな佳乃を眺めていたが、やがてポテトチップスの袋を差し出した。


「食べる?」


「今いらない」


「珍し」


「うるさい」

佳乃はそのまま自分の部屋へ戻った。


数分してから優が袋を持ったまま後ろからついてきた。


「何してんの?」


佳乃は床に座り、クローゼットの下を覗き込んでいた。


「探し物」


「何?」


「昔の教材」


「学校の?」


「うん」


優もしゃがむ。

「手伝う?」


「いい」


「なんで」


「絶対邪魔するから」


「信用ないなあ」


「日頃の行い」


「ひど」

そうへらへらしながら、優はベッドへ座った。


佳乃は奥へ手を伸ばす。

箱。


紙袋。

昔使っていた鞄。

その奥から、厚いファイルが出てきた。

佳乃の手が止まった。


透明な表紙の中に、学校名と自分の名前が見える。

一年以上。

開いていなかった。

佳乃はしばらくその文字を見ていた。


「それ?」


優が聞く。


「……うん」


机の上へ置く。

すぐには開けなかった。

優も何も言わない。

ポテトチップスを一枚食べる音だけがした。


佳乃は椅子へ座った。

それから、ファイルを開く。

最初の数ページには書き込みが多かった。

蛍光ペン。

付箋。

端に小さく書いたメモ。

自分の字だ。


当然なのに、少し変な感じがした。


ページをめくる。

衛生管理。

皮膚。

化粧品。

道具の扱い。


途中までは、細かく書き込みが続いていた。


あるところから.......


急に余白が多くなる。


さらにめくる。


空白。

空白。


提出期限だけが印刷されたページ。


佳乃の指が止まってそこから先へ進めなかった。

「……」


胸の奥が重くなる。


あの頃、机に向かっても文字が入ってこなくなった。


一行読んで、戻って。また同じ一行を読む。

それでも分からなくて、課題の締切だけが近づいて、学校にも行けなくなって、時間だけがただ過ぎていく。ノートの余白は増えるのに、自分の心の余白が減っていく。そんな感覚を思い出した。


こっちも、そのまま止まった。

佳乃はファイルを閉じた。


「やめる?」

優が聞いた。


「……何を」


「見るの」

佳乃はファイルの上に手を置いた。


「分かんない」


「そっか」

それだけだった。

優はまたポテトチップスを食べる。


佳乃は一分くらい閉じた表紙を見つめたまま動かなかった。


もう一度開いた。

今度は、止まったページよりずっと前へ戻る。

「撮影用のメイクって……」


「ん?」


「光で結構変わるんだよね」


優が首を傾げる。

「知らん」


「だよね」


「私に聞いた?」


「独り言」


「返事しちゃった」


佳乃はページをめくった。

学校へ戻るためでも課題をやるためでもない。


一週間後。

その一回のため。

今はそれでよかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌日。

優が学校から帰ってくると、佳乃の机には化粧品が並んでいた。

教科書も開いている。


「ただいまー」


「おかえり」


「……何してんの?」


「ゆう」


「ん?」


「顔貸して」

優が鞄を下ろす。


「今日も? いいよ」

優はそれ以上何も言わず、そのまま椅子へ座った。

いつもなら一言くらい余計なことを言うのに、今日は妙に素直だった。


「何するの?」


「ちょっと試したい」


「いいよ」


佳乃はスマートフォンを机の端に立てた。

タイマーを開く。


優が覗き込む。

「何それ」


「時間測る」


「怖」


「撮影って時間あるでしょ」


「知らない」


「私も知らないから測るの」


「なるほど」


自分が施術するわけじゃない。それでも、どの工程にどれくらい時間がかかるのかくらいは知っておきたかった。

佳乃はタオルを用意した。

ブラシやスポンジ、使うコスメを順番に手元へ並べていく。

「じゃ、始めるよ」


「はい先生」


タイマーを押した。


最初は順調そのもの。

ベース。

眉。

目元。

手は迷わない。


ただーーーー

時間を意識した瞬間から、普段なら気にならないことまで気になった。


「目閉じて」


「閉じてる」


「動かないで」


「動いてない」


「今動いた」


「呼吸は許して」


「それはして」


優が佳乃に言われた通り目を伏せながら控えめに笑う。


「笑わない」


「むり」


「止まるよ」


「止めれば?」


「時間測ってんの!」


「じゃあ笑わせないでよ」


「私のせい?」

佳乃は眉を寄せながら、またブラシを動かした。


二十分、三十分、時間が流れていく。


佳乃が手を止める。


「……違う」


「何が?」


「ちょっと待って」


「待ってる」


優の顔を右から見た後、左。

スマートフォンで写真を撮る。

画面を見る。


「やっぱ違う」


「私分かんない」


「ここ」

佳乃が画面を拡大する。


「濃い」


「そう?」


「肉眼だとそんなでもないんだけど……」

スマートフォンのライトをつける。

角度を変える。

また写真を撮る。


「うーん」


「お腹すいた」


「ちょっと待って」


「さっきから待ってる」


「あとちょっと」


「三回目」


佳乃は返事をしなかった。

もう聞こえていないのかもしれない。

目元の色を少し落とす。

もう一度整えて、写真を確認する。


「……こっちの方がいい」


優が鏡を見る。


「何が変わったの?」


佳乃が振り返る。


「全然違うでしょ」


「分からん」


「もういい。しゃべんないで」


「怒られた」


タイマーを見る。

五十七分。

佳乃の肩が落ちる。


「遅……」


「一時間座ってたの私なんだけど」


「ごめん」


「じゃがりこで許す」


「なんで」


「レンタル料」


「顔の?」


「うん」


「高い」


優が立ち上がろうとする。


「待って」


「まだあるの?」


「写真だけ」


優は座り直した。


佳乃が窓際へ連れていく。


「そこ立って」


「はい」


「ちょっと横向いて」


優が向く。

カシャ、カシャ。

数枚とる。


佳乃は画面を見た。

さっきよりはいい。

それでも、まだ何かが違った


「……」


「お姉ちゃん」


「何」


「楽しそう」


佳乃が顔を上げた。

「今めちゃくちゃ必死なんだけど」


「うん」


「楽しくないよ」


「そう?」


「そう」

佳乃はまた画面へ目を戻した。


優はそれ以上何も言わなかった。

画面と格闘するように見つめる佳乃を横から眺めて、口元だけ少し緩めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


次の日。


佳乃は昼を過ぎてもベッドにいた。

カーテンは半分閉じたままで、昨日の化粧品も机の上に残っている。

目は覚めている。


なのに身体が重かった。


起きて片付ける、それだけのことが今日は遠い。


ーーーーーーーーーーーーーー


夕方。


制服姿の優が部屋へ入ってきた。

「ただいまー」


返事をするまで少し時間がかかった。

「……おかえり」


優がベッドへ近づく。

机を見る。

それから佳乃を見る。


「今日...やらないの?」


「……無理」


「そっか」

優は鞄を床へ置いた。

いつものようにラグへ座る。

スマートフォンを出した。


佳乃は布団から顔だけ出して、時計を見た。

「あと五日しかない」


「うん」


「何もしてない」


「今日?」


「今日も」


「昨日めっちゃやってたじゃん」


「でも今日はやってない」


優は画面を見たまま答える。

「昨日やったから疲れたんじゃない?」


佳乃は黙った。

「……でも五日だよ」


「五日もあるよ」


「一昨日、一週間もあるって言ったじゃん」


「一日ずつ減るんだから当たり前じゃん」


「知ってるよ」


優が笑った。


佳乃は枕へ顔を押しつける。

「笑わないで」


「ごめん」

全然申し訳なさそうじゃない。


しばらくして。

優がスマートフォンを佳乃の方へ向けた。

「これ見て」


「何」


「犬」


「また?」


「今日のやつすごいよ」


「何が」


「三回滑る」


「情報が弱い」

そう言いながら、佳乃は画面を見た。


犬が走る。

滑る。

立ち上がる。

また滑る。

三回目は、そのまま飼い主に突っ込んだ。


佳乃の口元が少し動いた。

「……アホ」


「でしょ?」


優が笑う。


佳乃も小さく笑った。


机の上の化粧品は、その日は最後まで片付けられなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌日。


優が帰宅して佳乃の部屋を覗くと。

昨日のままだった机だけが、少し変わっていた。

化粧品は種類ごとに並べ直されている。


ファイルが開いている。

佳乃はノートに何かを書いていた。


優が聞いた。

「顔貸す?」


「貸して」


「じゃがりこ」


「まだ言ってるの?」


「レンタル料」


「めんどくさ」


それでも優は嬉しそうに椅子へ座る。椅子へ向かう足取りが軽かった。


佳乃もブラシを取る。

今日はタイマーをつけなかった。


まず自分が何をしたいのかを考える。


優の顔を見る。

一昨日までの試行錯誤。

写真。


桐島に聞かれたこと。

なぜ、この色なのか。

どうして、ここを変えるのか。

佳乃は一つずつ考えながら手を動かした。


「目閉じて」


「はい」


ブラシを滑らせる。

少し離れて見る。

直す。


優が鏡越しに佳乃を見る。

「お姉ちゃん」


「何」


「……怒ってる?」


佳乃の手が少し止まった。

「怒ってないけど」


「そっか」


優はそれだけ言って、また目を閉じようとした。

いつものからかうような調子ではなかった。


佳乃は少しだけ眉を寄せる。

「なんで?」


「ずっと怖い顔してるから」


優が自分の眉間を指さした。

「ここ、ずっとぎゅってなってる」


佳乃は鏡を見る。言われて初めて、自分の眉間に薄くしわが寄っていることに気づいた。


「……ほんとだ」


指でそこを押さえる。


優の口元が緩んだ。


「押して消えるの?」


「うるさい」


「怒ってるじゃん」


「今のはあんたに怒ってる」


「よかった」


「何がよ」


優は小さく笑って、今度こそ目を閉じた。


佳乃も少しだけ口元を緩めてから、ブラシを持ち直した。


また手を動かす。

一昨日より遅い。

でも、迷っている時間は短かった。

終わったあと。

写真を撮る。

佳乃は画面をしばらく見た。


「……うん」


「いい?」


「一昨日より」


「一昨日もよかったけど」


「私には分かるの」


「またそれ」


佳乃は写真を何枚か並べて見比べる。

その横から、優が顔を覗かせる。


「これ使うの?」


「まだ分かんない」


「何個考えるの?」


「何個って?」


「メイク」


「一個でしょ」


「じゃあそれでいいじゃん」


佳乃は優を見る。


「簡単に言うなあ」


「だって好きだし」


「何でも好きって言えばいいと思ってるでしょ」


「好きじゃなかったら言わないよ」


さらっと返される。

佳乃は一瞬だけ黙って。

また画面へ戻った。


「……もうちょっとだけ考える」


「はーい」


優は椅子に座ったまま伸びをした。


ーーーーーーーーーーーーーー

その後も、毎日同じようにできたわけではなかった。

教材を開いただけで終わる日もあった。

優の顔を借りて少しだけ試す日もあった。

前の日に良いと思ったものを、翌日には全部変えたくなることもあった。


そうしているうちに、一週間は思っていたより早く過ぎた。



撮影前夜。

佳乃のベッドの上には、持っていくものが並んでいた。

ファイル。

ノート。

桐島から送られてきた当日の案内。

メイクプランを書いた紙。

自分の道具は必要最低限だけ。

当日は事務所側のメイクアップアーティストもいるし、道具もある。

使う予定はないのは分かってる。

それでも、ブラシを何本かだけバッグへ入れた。

持っているだけで、少しだけ落ち着く気がした。

佳乃は何度も指をさして確認した。


「ノート」

入っている。

「筆記用具」

入っている。

「スマホ」

今持っている。

「充電器」


「あるよ」


横から優が言った。佳乃が振り向く。優はベッドに寝転がって漫画を読んでいた。


「見てたの?」


「さっきから」


「言ってよ」


「何回確認するか見てた」


「性格悪」


「今七回目」


「嘘」


「五回」


「増やすな」


優が笑う。佳乃はバッグを閉じた。


しばらく見つめる。


「……忘れ物ないかな」


「もう一回見る?」


「見ない」


「八回目になるもんね」


「五回って言ったでしょ!」


枕が飛ぶ。優が漫画で防いだ。


「危な!」


「明日寝坊したら置いてくから」


「私の撮影なのに?」


「知らない」


優が笑いながら枕を戻してくる。佳乃は受け取った。

少し静かになった。優は漫画へ戻る。


佳乃はバッグを床へ置いた。


「……ねえ」


「ん?」


「明日」


「うん」


「全然ダメだったらどうしよう」


優の目が漫画から上がった。

佳乃はバッグを見ていた。


「プロの人もいるし。多分、私が知らないこといっぱいあるし」


優は少し考えた。


「そしたら帰りコンビニ寄ろ」


佳乃が顔を上げる。


「……は?」


「何か食べよ」


「そういう話してないんだけど」


「分かってるよ」


「じゃあ何」


「ダメだったらダメだったで、帰るしかないじゃん」

あまりにも普通に言う。

「それでお腹すいてたらもっと嫌だから」


佳乃は優を見る。


「雑」


「大事だよ」


「何食べるの」


「じゃがりこ」


「また?」


「「サラダ?」」


声が重なった。お互いがお互い首をかしげて見つめあう。

一拍おいて、ふたりともくすりと笑う。


「……胃に悪いよ」


「じゃヨーグルトも」


「セットにしないで」


さっきより。

ほんの少しだけ.......肩が軽かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌朝。撮影当日。


「ゆう」


返事がない。


「優」


布団が少し動く。


「……んー」


「起きて」


「あと五分」


「ダメ」


「三分」


「ダメ」


「二分」


「値切らないで」


優が毛布から片目だけ出した。

「早くない?」


「早くない」


「まだ余裕あるじゃん」


「ない」


「あるよ」


「私にはないの」


「お姉ちゃんのテストでもあるもんね」


佳乃の眉が動く。


「分かってるなら起きて!」


「はーい」


優が起き上がる。

髪はぐちゃぐちゃだった。

佳乃はため息をついた。


「まず髪」


「お願い」


「自分でやって」


「今日くらいいいじゃん」


「撮影するのあんただよ」


そんなやり取りをしながら準備をして。

予定より二十分早く、家を出た。


電車の中。

佳乃は膝の上にバッグを置いていた。

一度ファスナーへ触れる。


開けて中を見て閉じる。


「五回目」


隣の優が言った。


「まだ二回」


「家から数えてる」


「家は別」


「別なんだ」


佳乃は窓の外を見る。

景色が流れていく。


「忘れてたらどうしよう」


「買えば?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ戻る?」


「間に合わない」


「じゃあもうどうしようもないね」


佳乃が睨む。優は平然としている。


「諦め早くない?」


「だって電車動いてるし」


「それはそうだけど」


優が少し笑った。

「......大丈夫じゃなくても着くよ」


「何それ」


「知らない」


「意味分かんない」


「私も今思いついた」


「適当」


くだらない会話をしている間にも、駅は近づいていく。

さっきまでより、少しだけ呼吸が楽だった。


佳乃はもう一度バッグに手を置く。

今度は開けなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


駅から十分ほど歩いた。

スマートフォンの地図を頼りに曲がると、住宅や店の並ぶ通りから、少し静かな道へ入った。


優が画面を見る。

「もうこの辺」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん?」


「あと百メートル」


「じゃあちゃんと見て」


「見てるよ」


また角を曲がると、少し先に桐島から送られてきた住所と同じ建物があった。


優が足を止める。


「ここじゃない?」


佳乃も止まって二人で建物を見る。


事務所とは違う、撮影スタジオ。

入り口の横に小さな看板が出ていて、名前も合っていた。


「……ここだ」


佳乃の声が少し小さくなる。

さっきまで普通だった心臓が、また速くなる。

バッグの持ち手をぎゅっと握る。


優が先に歩き出した。


二歩。

三歩。


「ゆう」


優が振り返る。


「何?」


佳乃はその場に立っていた。

入り口は、もうすぐそこでガラスの向こうに人影が見える。


知らない人たちのいる、知らない場所で、これから自分が作ったものを見られる。

佳乃は一度だけ目を閉じ、息を吸う。吐く。目を開けた。


優は何も言わずに待っていた。


「……行こ」


「うん」


佳乃が優の隣へ並ぶ。


二人で、撮影スタジオの入口へ向かった。

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