第五話 条件②
桐島が写真の目元を指差した。
「この色は、どうして選んだんですか?」
「え?」
佳乃が顔を上げる。
「アイシャドウです。何か意図が?」
急に話が変わった。
佳乃は一瞬だけ桐島を見て、それから写真へ目を落とした。
窓辺の優。
そこにある目元を見ると、さっきまで探していた言葉とは違って、答えがそのまま出てきた。
「優って、元々目が大きいので」
声が出た。
自分でも気づくくらい、さっきよりはっきりと。
佳乃は写真へ少し身体を寄せる。
「強い色を広く入れると、たぶん目だけが先に来るんです」
桐島は何も言わない。
佳乃はそれを待たずに続けた。
「最初、もうちょっと濃くしてみたんですけど。なんか違って」
指先を写真の目尻近くへ持っていく。
触れないところで止める。
「薄くするだけだと、普段の優とあんまり変わらないし。せっかくなら少し大人っぽくしたかったので、この辺だけ重くしてます」
「目尻は?」
「あんまり伸ばしてないです」
即答。今度は迷わなかった。
「伸ばせば綺麗にはなると思うんですけど」
佳乃は写真を見ながら眉を寄せる。
「優の顔じゃなくなる感じがして」
「顔じゃなくなる?」
桐島が初めて言葉を挟んだ。
佳乃はそこでようやく、自分がずいぶん喋っていたことに気づいた。
「あ……いや、変な意味じゃなくて」
また少し声が弱くなる。
けれど写真を見ると、続きを言いたくなった。
「目だけ大人っぽくしすぎると、たぶん他と合わなくなるんです。口元とか、頬とか。まだちょっと子どもっぽいところがあるので」
「なるほど」
桐島の目が写真へ戻る。
佳乃もつられて見る。
「全部消しちゃうより、そこは残した方が優っぽいかなって」
言い終えてから、佳乃は口を閉じた。
優は何も言わずに聞いていた。
けれど、さっきまでより少しだけ口元が緩んでいる。
佳乃は気づかない。
優も、わざわざ何か言うつもりはないらしい。
「あの……」
佳乃が小さく声を出す。
桐島が顔を上げた。
「はい」
「変でした?」
「いいえ」
桐島は写真をもう一度見てから、佳乃へ視線を戻した。
「考えて作っているんだと思っただけです」
「……そうですか」
上手いとも、才能があるとも言われなかった。
佳乃はそれ以上何を返せばいいのか分からず、小さく頭を下げた。
それでも先ほどまでとは違って、胸の奥に残る嫌な感じはなかった。
桐島が写真を資料の上へ戻した。
「もし優さんがお仕事を試してみるのであれば、まずはこちらでテスト撮影を組みたいと考えています」
優が頷く。
「衣装はこちらで用意します。メイクも弊社側でメイクアップアーティストを手配します」
「……はい」
返事をしたのは佳乃だった。
言った直後、自分でも少し変だと思った。
優の仕事の話なのに。
桐島は気にした様子もなく資料を確認している。
当たり前だった。
仕事なのだから、プロがやる。
自分はまだ課程すら終えていない。
さっき少し喋れたからといって、それで何かが変わるわけではない。
佳乃は写真から手を引いた。
知らない人が優の顔を見る。
色を選び、瞼へブラシを置いて、髪を触って、その人なりの優を作る。
見てみたい気持ちもあった。
自分なら選ばない色を使うかもしれない。
知らない優ができるのかもしれない。
ーーーーそれはたぶん、面白い。
佳乃はそう考えながら、膝の上へ視線を戻した。
さっきまで目の前にあった写真が、急に少し遠くなった気がした。
自分が作った優を見つけてもらった。
そこまでは一緒だった。
でも、この先は違う。
撮影する人がいて、衣装を選ぶ人がいて、メイクをする人がいる。
その中に、自分はいない。
佳乃は膝の上で指先を擦った。
当たり前だと思う。
まだ学校すら終わっていない。
仕事をしたこともない。
それなのに、一瞬だけ。
自分もそこにいたかった、と思った。
すぐに打ち消す。
何を考えているんだろう。
これは優に来た話なのに。
「では、テスト撮影の日程について――」
桐島が資料へ視線を落とす。
佳乃も顔を上げようとして、やめた。
その横で、優がちらりと佳乃を見る。
ーーほんの一瞬だった。
膝の上で触り続けている指。
さっきまで写真の話をしていたときとは違う、落ちた視線。
テーブルの写真へ一度だけ戻って、また離れる目。
優の視線が、その動きを追う。
何も言わない。
ただ、少しだけ眉が寄った。
桐島が資料をめくる。
優は佳乃を見るのをやめ、今度はテーブルの写真を見た。
それから桐島へ視線を移す。
「あの」
桐島が顔を上げる。
「はい」
優は一拍だけ置いた。
「メイク、お姉ちゃんじゃダメですか?」
佳乃も顔を上げた。
「ゆう?」
優は佳乃を見なかった。
さっきまでソファの背に少し預けていた身体を起こし、桐島の方へ向いている。
膝の上に置いた両手はそのまま。
ただ、笑っていなかった。
桐島が優を見る。
「佳乃さんが?」
「はい」
優は短く答えた。
声は普段とほとんど変わらない。強くもないし、低くもない。
けれど、さっきまで質問されるたびに浮かんでいた人懐っこい笑顔は消えている。
「この写真も、お姉ちゃんがやってます」
優がテーブルの写真へ目を落とした。
「それは今伺いました」
「じゃあダメですか?」
優が顔を上げる。
桐島と目が合った。
数秒。
優は逸らさない。
問い詰めているようには見えなかった。
相手を困らせようとしているわけでもない。
本当に、理由が分からないから聞いている。そんな様子。
桐島はすぐには答えなかった。否、答えられなかった。
それまでほとんど途切れることなく返ってきていた言葉が、初めて止まる。
手にしていたペンの先も、資料の上で動かなくなった。
桐島は優を見る。
もう一度、写真を見る。
それから佳乃へ視線を移した。
「佳乃さん」
「……っ」
突然自分へ話が向き、佳乃の肩が小さく跳ねた。
膝の上で重ねていた手を握り直す。
「は、はい」
「養成課程は現在も在籍中なんですね?」
「はい……一応」
佳乃は一度桐島を見たものの、すぐに視線をテーブルへ落とした。
「修了はしていない」
「……はい」
今度はもっと小さかった。
桐島が一度頷く。
いつもの調子に戻ったように見えた。
ペンを置き、優へ身体を向ける。
「撮影用のメイクは、普段のメイクとは違います」
淡々とした声だった。
「照明、カメラ、使用する媒体、撮影時間。現場では仕上がり以外にも、衛生管理やスピード、再現性も求められます」
優は瞬きを一つして、小さく頷いた。
反論しない。
桐島の話を、最初から最後まで聞いている。
佳乃はその横で、少しずつ背中が丸くなりそうになるのを堪えていた。
衛生管理。
時間。
再現性。
どれも知っている。
途中までとはいえ、自分も勉強していた。
だからこそ、それが今の自分には足りないことも分かる。
さっき写真について話していたときとは違った。
これは、自分が知っていることではない。
まだできていないことの話だ。
佳乃は膝の上の指を見る。
桐島はそこまで説明して、一拍置いた。
「なので通常であれば――」
「でも私、お姉ちゃんのメイクがいいです」
優が言った。
間を置かなかった。
桐島の言葉が途中で切れる。
優は姿勢を変えない。
声も変わらない。
ただ、桐島を見ている。
説明を聞いていなかったわけではない。
理解できなかったわけでもない。
全部聞いた上で、答えが変わっていない。
桐島の指が、テーブルの上のペンに触れた。
持ち上げるでもなく、一度だけ向きを直す。
「優さん」
「はい」
返事は素直だった。
「今お話ししたのは、佳乃さんのメイクが良いか悪いかという話ではありません」
「はい」
「仕事として任せられるかどうか、という話です」
「分かってます」
また、返事が早い。
桐島がわずかに黙る。
優は急かさない。
桐島の返事を待ちながら、ただ正面から見ている。
ここまで会話の流れを崩さなかった桐島が、二度目の間を置かされた。
佳乃はそれに気づいた。
さっきから優は、何も強いことをしていない。
声を荒げてもいない。
偉そうな態度も取っていない。
それなのに、いつの間にか桐島の方が、優に説明を重ねていた。
「でしたら」
桐島が口を開く。
いつも通りの落ち着いた声に戻っている。
「今回はこちらで手配したメイクアップアーティストに――」
「でも、私はお姉ちゃんにやってほしいです」
優がもう一度言った。
今度は桐島もすぐには続けなかった。
ほんの少し眉が動く。
困っている、というほど露骨ではない。
けれど、さっきまで用意された順番通りに進んでいた面談が、明らかに別の方向へ動き始めている。
優自身は、それに気づいているのかいないのか。
膝の上の手も。
声も。
表情も。
ほとんど変わっていない。
ただ一つだけ。
佳乃のメイクについて話している間、笑わない。
桐島はそんな優を数秒見つめた。
「……どうして、そこまで佳乃さんにこだわるんですか?」
初めて、予定にはなかったらしい質問だった。
優は少しだけ目を丸くした。
「こだわってます?」
逆に聞き返されて、桐島が一瞬黙る。
「少なくとも、こちらにはそう見えます」
「そうなんだ」
優はそこで初めて佳乃を見た。
何かを確かめるような視線ではない。自分の中に何があるのか探る目。
ただ普通に見て、それから少し考える。
「でも、私がやってみようかなって思ったの、お姉ちゃんがいたからなので」
「……私?」
佳乃が小さく声を漏らす。
優は頷いた。
「お姉ちゃん、最近またメイクしてるの楽しそうだし」
佳乃の指がわずかに動く。
「お姉ちゃんが作った私を、ちゃんとしたカメラで撮ったらどうなるんだろうって。それはちょっと見てみたいです」
優はテーブルの上の写真を見る。
「でも、別の人にメイクしてもらって、私だけモデルやりますって言われたら……」
少し考えて、唇を軽く結んだ。
「そこまでやりたいわけじゃないです」
「優……」
佳乃が袖を引く。
優がこちらを見る。
「何?」
本当に何がまずいのか分からない顔をしている。
佳乃は声を潜めた。
「せっかく声かけてもらってるんだから」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「でも本当だよ?」
優は困ったようにも、申し訳なさそうにも笑わなかった。
ただそう答えて、また桐島へ向き直る。
「私、有名になりたいわけでもないし」
桐島は黙って優を見ていた。
さっきまでなら、優が何か言えばすぐに返事が返ってきた。
今は違う。
テーブルの上のペンに指を添えたまま、何も言わない。
その視線が一度だけ佳乃へ向き、また優へ戻る。
「つまり」
桐島がようやく口を開いた。
「佳乃さんが関われないのであれば、今回のお話を断っても構わないと?」
優はすぐには答えなかった。
「うーん……」
視線が少し上を向く。
佳乃は横顔を見る。
そこで迷うんだ。
数秒考えて、優は桐島へ目を戻した。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「絶対やりたくないってほどじゃないです」
優は自分の髪を指先で一束つまんだ。
「でも、それなら別に今じゃなくてもいいかなって」
桐島の眉がほんの少し動いた。
優はそれ以上説明しなかった。
髪から手を離し、桐島の返事を待っている。
まるで自分が選ばれる側だという意識がない。
少なくとも佳乃には、そう見えた。
桐島は一度テーブルの写真へ目を落とした。
写真。
佳乃。
優。
その三つを順番に見てから、背筋をわずかに伸ばす。
「……分かりました」
佳乃が先に反応した。
「え?」
優も眉を上げる。
桐島は二人を見る。
「ただし、私一人の判断で、未経験の方を撮影スタッフとして入れることはできません。法律上にも」
「じゃあ――」
「最後まで聞いてください」
声が少しだけ低くなった。
優の口が閉じる。
「あ、はい」
素直に頷いた。
佳乃は思わず口元を押さえた。
さっきまであれだけ桐島の話を崩していたのに、注意されれば普通に聞く。
桐島はそんな優を一秒ほど見たあと、資料を一枚めくった。
「今回の撮影自体が、優さんを実際の撮影環境で見るためのテストです」
「はい」
「ですから」
桐島の指が、資料の端で一度止まる。
ほんのわずかな間だった。
「佳乃さんについても、一度見てから判断します」
佳乃は反応できなかった。
「……え?」
遅れて声が出る。
桐島が佳乃を見る。
「テスト撮影の日に、優さんのメイクを手伝ってください。」
「私が……?」
「はい」
優の身体がぱっと佳乃の方へ向く。
「よかったじゃん」
「ちょっと待って」
佳乃は優ではなく桐島を見る。
「でも、私、まだ……」
「もちろん、そのまま現場を任せるわけではありません」
桐島は佳乃の言葉を穏やかに止めた。
「こちらのメイクアップアーティストにも同席してもらいます」
「佳乃さんには優さんのメイクプランを作ってもらいます。実際の施術はこちらのメイクアップアーティストが行います
佳乃の肩がわずかに固くなる。
「佳乃さんには、どういう優さんを作りたいのか、その場で具体的に伝えてもらいます。こちらのスタッフが施術しますので、仕上がりを見ながら必要なら修正の指示も出してください」
一つずつ挙げられるたびに、さっきまでメイクについて話していたときの勢いが消えていく。
佳乃は膝の上で指を重ね直した。
「その状態で、実際に一度撮影してみましょう」
「……はい」
返事が掠れた。
「場合によっては、その後こちらのメイクアップアーティストにも別のメイクを作ってもらいます」
佳乃が顔を上げる。
「比較……ですか?」
「比較というより、確認です」
桐島は淡々と答えた。
「優さん自身がカメラの前でどう見えるのか。メイクによってどれだけ印象が変わるのか。それから、佳乃さんのメイクが撮影環境でどう見えるのか」
佳乃は黙って聞く。
桐島が一拍置いた。
「先に言っておきます」
佳乃の指に力が入る。
「現時点で、技術だけを比べれば当然プロの方が上です」
胸の奥が縮んだ。
分かっていた。
当たり前のことだった。
途中で止まった自分と、仕事として何年もやっている人。
比べる方がおかしい。
それでも、はっきり言葉にされると視線が落ちる。
隣の優は何も言わなかった。
「そんなことない」とも言わない。
佳乃が少しだけ意外に思って横を見ると、優は桐島を見たままだった。
少し遅れて、目だけが佳乃へ動く。
膝の上で握られた手を見る。
顔を見る。
優は何も言わず、また桐島へ視線を戻した。
「ただ」
桐島が続ける。
佳乃はゆっくり顔を上げる。
桐島はテーブルの写真へ指を添えた。
「あなたが優さんの顔をどう見ているのかには、興味があります」
佳乃は瞬きをした。
「先ほどお話を聞いていて、少なくとも何も考えずに色を置いているわけではないことは分かりました」
褒めるような声ではなかった。
事実を確認するような言い方だった。
「それが、撮影の中でどう出るのか。一度見てみたい」
佳乃は返事を忘れた。
隣で優の顔が分かりやすく明るくなる。
「それならやります」
「まだ決まっていません」
「あっ」
桐島の返答が早かった。
優の口元が止まる。
「社内に話を通す必要があります」
「なるほど」
優はすぐに頷いた。
さっきまで桐島を二度も黙らせていた人間と同じとは思えないくらい素直だった。
桐島も一瞬、優を見た。
呆れているようにも見えたが、すぐにいつもの表情へ戻る。
「それと」
「はい」
「あなたの希望だけで決める話でもありません」
優が首を傾げる。
桐島は佳乃へ向き直った。
「佳乃さん」
「……はい」
名前を呼ばれただけで、また息が苦しくなる。
「優さんはこう言っていますが」
桐島が優を一度見る。
「あなた自身は、やってみたいですか?」
佳乃の手が止まった。
優も佳乃を見る。
何か言いかけたのか、唇がほんの少し開いた。
けれど、そのまま閉じた。
何も言わない。
佳乃は一瞬、優を見そうになる。
見たら、たぶん何か言ってくれる。
無理ならいいよ、と。
やらなくてもいいよ、と。
そういう言葉を。
佳乃は視線を膝へ落とした。
プロに、自分が優の顔をどう見ているのかを話す。
どこを残して、どこを変えるのか、なぜその色なのか、それを全部言葉にしなければならない。
しかも、その通りにプロの手で形になっていく。
自分の考えが合っているのかどうか、すぐ目の前で分かってしまう。
途中まで勉強して、途中で止まった自分を、その先へ進んだ人に見られる。
指先が冷たくなる。
全然ダメだったら。
思っていたより何もできなかったら。
またメイク道具を開けるのが嫌になるかもしれない。
断ればいい。
その方が楽だ。
膝の上で指を握る。
最近、またブラシを持った。
優の顔を近くで見て。
色を選んで。
違うと思ったら落として。
またやった。
ドラッグストアで新しいものを買った。
動画も見るようになった。
次はどうしようと考えている時間は、気づけばすぐに過ぎた。
「……怖いです」
やっと声が出た。
自分でも頼りないと思うほど小さかった。
優の表情が変わる。
さっきまでの嬉しそうな顔が少し落ち着いて、黙って佳乃を見る。
桐島は返事を急かさない。
佳乃は一度だけ息を吸った。
「プロの人に見られるのも……たぶん、かなり」
途中で声が細くなる。
それでも口を閉じなかった。
「でも」
握っていた指をほどく。
「やってみたい、です」
最後まで言えた。
桐島が一度頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
大丈夫です、とも。
頑張りましょう、とも言わない。
佳乃は少し息を吐く。
優も隣で小さく息を吐いた。
佳乃が横を見る。
目が合った瞬間、優の口元がぱっと緩んだ。
「よかったね」
「まだ決まってないから」
「でもやるって言ったじゃん」
「私がやるって言っただけ」
「同じじゃない?」
「違う」
「細かいなあ」
優が笑う。
桐島は二人を見ていた。
何かを言うでもなく、ほんの少しだけ口元を緩める。
その表情もすぐ消えた。
「では、社内確認が取れ次第ご連絡します」
「はい」
佳乃が答える。
今度は、さっきより少しだけ声が出た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
事務所を出て、しばらく歩いた。
佳乃はさっきの会話を頭の中で何度も繰り返していた。
特に最後の一言。
やってみたいです。
自分で言った。
思い出すたびに、胃の辺りが少し重くなる。
隣では優が、見覚えのあるペットボトルの水を飲んでいた。
佳乃は二度見する。
「……ゆう」
「ん?」
「それ」
優が自分の手を見る。
「水?」
「持って帰ってるじゃん」
「あ」
「あ、じゃない」
「忘れてた」
「絶対嘘」
「結果オーライ」
「何が?」
優は平然と蓋を開け、もう一口飲んだ。
佳乃は呆れて前を向く。
数歩歩いてから、さっきのやり取りをもう一つ思い出した。
「……あとさ」
「ん?」
「ああいう言い方しないでよ」
「どれ?」
「やらなくていいとか、別に今じゃなくてもいいとか」
優は少し考える。
「なんで?」
「なんでって……せっかく声かけてもらったのに」
「でも、お姉ちゃんできないんでしょ?」
「それは……」
佳乃は言葉に詰まる。
ちょうど信号が赤になり、二人で足を止めた。
車が目の前を横切っていく。
佳乃は横断歩道の向こうを見ながら言った。
「プロの人の方が上手いに決まってるよ」
「うん。たぶん」
佳乃が勢いよく優を見る。
「そこは否定してよ」
「なんで?」
「なんでって」
「だってプロだよ?」
「そうだけど!」
優が笑う。
「嘘ついてもしょうがないじゃん」
「……じゃあ」
佳乃は口を開く。
続きはすぐには出なかった。
信号はまだ赤い。
「なんで私なの」
優が佳乃を見る。
少しだけ首を傾げた。
「好きだから」
佳乃が瞬きをする。
「……何が」
「お姉ちゃんのメイク」
優はペットボトルを持ったまま、ごく普通に答えた。
「好き....」
照れた様子もない。
佳乃は前を向いた。
「……そう」
「うん」
「それだけ?」
「それだけじゃダメ?」
「いや……」
佳乃は口元を曲げた。
「ダメじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「なんか腹立つ」
「なんで?」
「知らない」
信号が青になる。
優が先に一歩出る。
「テスト撮影、楽しみだね」
佳乃もあとを追った。
「私は胃が痛い」
「じゃあコンビニ寄る?」
「なんで」
「胃に優しいもの買お」
「その発想でコンビニ行く?」
「ヨーグルトとか」
「急に現実的」
「あとじゃがりこ」
「胃に優しくないでしょ」
「サラダ味」
「味の問題じゃない」
優が笑う。
「お姉ちゃんも食べる?」
「食べない」
「一口は?」
「……一口なら」
「食べるじゃん」
「うるさい」
優が少し先を歩いて、ふと振り返った。
「……あんなにやりたそうだったんだもん」
「え?」
佳乃には聞き取れなかった。
優は答えず、目を細めた。
口元だけが先に笑って、少し遅れて目元までほどける。
からかっているみたいなのに、どこか静かだった。
風に揺れた黒髪が頬にかかる。
佳乃は一瞬、何を言おうとしていたのか忘れた。
「……何?」
「なんでもない」
優が笑ったまま、後ろ向きに二歩進む。
「ほら、行くよー」
「あ、ちょっと。危ないって」
優はくるりと前を向いて、そのまま駆け出した。
「置いてかないで!」
佳乃も慌てて追いかける。




