第五話 条件①
芸能事務所は、佳乃が想像していたより普通のビルの中にあった。
もっと派手な場所を想像していた。
大きな看板があるとか、入り口から芸能人の写真がずらっと並んでいるとか。
実際は、受付の横に所属タレントのポスターが何枚か飾られているくらいだった。
それでも佳乃の体が強張るには十分だった。
電話が鳴る。
社員らしい人が行き来する。
受付の奥では、誰かがパソコンに向かっている。
ここで働いている人たちにとっては、ただの日常なのだろう。
佳乃はバッグの持ち手を握り直した。
「お姉ちゃん」
「何」
「持つ?」
「何を」
「バッグ。ちぎれそう」
「そんな力入れてない」
「入ってるよ」
佳乃は手元を見る。
確かに、指先が少し白くなっていた。
「……大丈夫」
「そ」
優はそれ以上言わなかった。
受付へ近づく。
女性が顔を上げ、にこやかに笑った。
「こんにちは。本日お約束はございますか?」
「あ、あの……桐島さんと、お約束している、橘です」
「橘様ですね。少々お待ちください」
「はい」
佳乃は小さく頭を下げた。
隣を見ると、優は壁のポスターを眺めていた。
「この人、サイトにいた」
佳乃もつられてポスターを見る。
「今それ言う?」
優が不思議そうに佳乃を見る。
「なんで?」
「なんでもない」
優がもう一度ポスターへ視線を戻した。
「この前お姉ちゃんが見せてきた人でしょ」
「覚えてたんだ」
「顔はね」
「名前は?」
ポスターの文字をじっと見る。優の目が細まる。
「……知らない」
「でしょ」
少しして受付の女性が戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
案内されたのは、小さな応接室だった。
テーブルとソファ。
壁際に観葉植物。
テーブルの上には、未開封のペットボトルが二本置いてある。
佳乃はソファの端に座った。
優は隣へ座ると、すぐに水を手に取った。ラベルをくるりと回し、佳乃を見る。
「これ飲んでいいの?」
「いいでしょ」
佳乃はドアの方を見たまま答えた。桐島がどんな人か緊張した様子。
「持って帰っていいかな」
優が真剣な表情を浮かべる。
「やめて」
思わずゆうの方を向く。
「なんで」
「恥ずかしい」
「出されたやつなのに?」
優は不思議そうにペットボトルを持ち上げた。
「飲むのはいいの。持って帰るのが嫌なの」
「もったいなくない?」
「飲みなよ」
「今いらない」
「じゃあ置いといて」
優はペットボトルをテーブルへ戻しかけて、また手を止めた。
「帰りに持って――」
「置いといて」
佳乃の声が冷たくなった。テーブルを指差す。
「はい」
優は納得のいかない顔でペットボトルをみつめてから、しぶしぶテーブルへ戻した。
優がペットボトルを戻したところで、ドアが開いた。
ぴくん。
佳乃は反射的に立ち上がった。膝に置いていたバッグが傾き、慌てて持ち直す。
入ってきた女性を見て、すぐに分かった。
桐島玲奈。
黒に近い髪を後ろできっちりまとめている。細身のパンツスーツに、低すぎず高すぎないヒール。
派手なものは身につけていないのに、妙に隙がなかった。
「お待たせしました。桐島です。本日はありがとうございます」
桐島は二人へ軽く頭を下げ、穏やかに微笑んだ。
「こ、こんにちは。橘佳乃です。よろしくお願いします」
佳乃も慌てて頭を下げる。
「橘優です。こんにちは」
にこっ。
隣では優が微笑みながら、いつもの調子で挨拶していた。
桐島は二人を見た。
最初に佳乃。
次に、優。
そこで少しだけ視線が止まった。
テーブルへ資料を置く。
椅子を引く。
その途中で、もう一度優を見た。
佳乃はそれに気づいた。
「……なるほど」
桐島が小さく言う。
「何がですか?」
首をかしげながら優が聞いた。
佳乃は横を見る。
聞くんだ。
桐島も一瞬だけ間を置いた。顎に添えていた手を下ろし、改めて優の顔を見る。
「写真より実物の方が強いですね」
穏やかな表情なのに、淡々とした声の調子は変わらなかった。
「強い?」
「目を引く、という意味です」
「ああ」
優は納得したように頷いた。
「ありがとうございます」
にこりと微笑む。いつもの人懐っこい笑顔だったが、目元はほとんど変わっていなかった。
桐島はその笑顔を数秒見つめた。
優も普通に見返している。
二人とも視線を逸らさないので、佳乃の方が先に目を落とした。
桐島はようやく優から視線を外すと、手元の資料を開いた。紙の端を揃え、最初の一枚を抜き出す。
「まず、今回ご連絡した経緯からお話しします」
テーブルへ一枚の写真が置かれた。
窓辺に立つ優。
佳乃が撮った写真だった。
「仕事柄、モデルやブランド、カメラマンなどのSNSは日常的に確認しています。その中で、偶然こちらの写真が目に入りました」
桐島は写真を二人の方へ向けた。佳乃と優が覗き込む間、口を挟まずに待っている。
佳乃は写真を見る。
自分のスマートフォンで見るのとは、少し違って見えた。
「最初は、一般の方の投稿だとは思いませんでした」
「そうなんですか?」
優が聞く。
「はい。プロフィールを確認して、芸能活動をされていないことが分かりました」
桐島は優に視線を戻した。穏やかな表情のまま、言葉を区切って話している。
優も写真を覗き込む。
「そんなにですか?」
「容姿が整った方自体は、この業界にはたくさんいます」
桐島はそこで言葉を切った。
佳乃は思わず桐島の顔を見た。褒められているはずなのに、その表情からは評価が読み取れない。
「なるほど」
優は素直に頷いた。
佳乃は一瞬だけ優を見た。そこ納得するんだ、と思った。
「ただ」
桐島は写真から顔を上げ、改めて優を見た。目元から口元へと視線を動かし、少し身を引いて顔全体を眺める。
優はその視線を気にする様子もなく、桐島を見返していた。
「写真の中で目を止められるかどうかは、また別です」
桐島はそう言って、写真へ指先を添えた。
佳乃の胸のあたりが、少しだけ温かくなった。
昔から知っていた。
この子は、そういう子だ。
クラスの端にいても。
適当な服を着ていても。
本人が何もしていなくても。
気づけば目がいく。
それが、全く知らない人にも見つかった。
「一度、きちんとした環境で撮影してみたいと思いました。現時点では、雑誌やWeb広告、アパレル、コスメなどのモデル仕事を想定しています」
桐島は優へ向き直る。
「モデルのお仕事に興味はありますか?」
優はすぐには答えなかった。
少し首を傾げ、視線を斜め上へ向ける。唇を軽く結んで、何かを考えているようだった。
桐島はその様子を静かに見ていた。急かすことも、答えを促すこともなく、テーブルの上で両手を重ねている。
佳乃は隣の優をちらりと見た。
こんなふうに聞かれて、迷うんだ。
優はやがて桐島へ視線を戻した。
「絶対やりたい、とかはないです」
佳乃が目を見開いた。思わず隣を見るが、優は何でもないことのように桐島を見ている。
桐島は表情を変えなかった。優から視線を逸らさず、一度だけ小さく頷く。
「そうですか」
「でも、面白そうだなとは思います」
「有名になりたい、という希望は?」
桐島は間を置かずに次の質問を重ねた。声の調子はさっきからほとんど変わらない。
「別に」
即答。
「友達には自慢できそうですけど」
優がへらっと笑う。
佳乃は口元を押さえた。せっかく芸能事務所の人が話をしてくれているのに、隣の妹はまるで友達と雑談でもしているようだった。
桐島の口元も、ほんの少し動いた。
笑ったのかと思ったが、次に瞬きをしたときにはもう元の表情に戻っている。
桐島は一度資料へ視線を落とし、手にしていたペンをテーブルへ置いた。
「では、今日はなぜ来てくださったんですか?」
今度は優の顔をまっすぐと突き刺すような目で見て、返事を待っている。
優は佳乃を見た。
目が合った瞬間、佳乃はなんとなく嫌な予感がした。
「お姉ちゃんが気になってたから」
「ゆう...!」
佳乃は慌てて優の袖を引いた。
優はきょとんとした顔でこちらを見る。佳乃が眉を寄せても、何を怒られているのか分かっていないらしい。
桐島の視線がゆっくりと佳乃へ移った。
佳乃は優の袖から手を離し、慌てて背筋を伸ばした
「佳乃さんが?」
「あ……はい」
途端に喉が狭くなる。
さっきまで桐島と普通に話していた優は、佳乃を一度見ただけで何も言わなかった。
佳乃が話すのを待っている。
「あの……写真を見て、ご連絡いただいたって...いうのが気になって」
思っていたより声が小さかった。
桐島は聞き返さず、
「はい」
とだけ答える。
佳乃は膝の上で重ねた手を見た。
爪の先が妙に気になる。
「なんで...あの写真だったのかなって。それと……」
言葉が止まった。
この前、自分で優に話したときには、もう少し簡単に言えた気がする。
相手が違うだけで、こんなにも空気が薄くなる。
桐島は急かさない。
佳乃は一度だけ唇を湿らせた。
「私がしたメイクが……どう見えたのかなって」
桐島の視線が、佳乃からテーブルの写真へ移った。
「あの写真のメイクは、佳乃さんが?」
「……はい」
返事をしたあと、佳乃も写真を見る。
「普段からされているんですか?」
「昔は……よくしてました」
「お仕事として?」
「いえ...」
佳乃はすぐに首を振った。
声もまた細くなる。
「美容師免許を取りたくて……高校のときから、通信の養成課程には入ってました」
桐島の眉がわずかに動いた。
「入っていた?」
「あ……」
今にも消え入りそうな声が出た。佳乃は言い方を間違えたことに気づいて、膝の上で指を組み直す。
「今も、一応……在籍はしてます」
「修了前ということですか?」
「はい」
そこで一度、息が詰まった。
優は横にいる。
そちらを見れば、たぶんいつもの顔をしている。
けれど佳乃は見なかった。
「途中で体調を崩して……レポートとか、スクーリングとか、実習とか。行けなくなって、そのままで」
最後の方は自分でも聞き取りづらいくらいの声になった。
「まだ、修了してません」
言い終わってから、指先に力が入っていることに気づく。
途中。
未修了。
止まったまま。
口に出すと、それだけで身体が縮むような感じがした。
「なるほど」
桐島はそれ以上聞かなかった。
かわいそうに、とも。
大変でしたね、とも言わない。
手元の写真へ視線を落としただけだった。
佳乃の肩から、ほんの少し力が抜ける。
桐島が写真の目元を指差した。
「この色は、どうして選んだんですか?」
「え?」
佳乃が顔を上げる。
ーーーーー急に話が変わった。




