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第三話 ここにいる

あの日から、佳乃の机の上には、少しずつ物が増えていった。


最初は一本だけだった。


引き出しの奥へ戻さなかった、メイクブラシ。


その隣に、新しいアイシャドウが増えた。


次に、リップ。


それから下地と、小さなスポンジ。


全部、一度に買ったわけではない。


調子のいい日に優とドラッグストアへ行って、ひとつ。


数日後、動画を見て気になったものを、もうひとつ。


何もしたくない日は、何日も触らなかった。


買ったまま袋から出さなかったものもある。


それでも、以前とは違った。


一度手放したものが、少しずつ佳乃のところへ戻ってきていた。


いや。


戻ってきた、というのは少し違うのかもしれない。


昔使っていたものと同じではない。


昔と同じ自分に戻っているわけでもない。


ただ。


また、触ってみたいと思うようになった。


それだけだった。


コンビニへ行くことも、もう珍しくはなかった。


調子のいい日は、その先まで歩いた。


ドラッグストア。


小さな雑貨屋。


一度だけ、優に連れられてカフェにも入った。


人の多さに疲れて、一時間もいられなかったけれど。


帰り道で優が、


「今日めっちゃ頑張ったね」


と言わなかったことに、佳乃は少し救われた。


代わりに、


「ここのケーキ高いくせに小さくない?」


と文句を言っていた。


そういう日々だった。


少し進んで。


何もできなくなって。


また少し進む。


鏡を見ると、目の下の影も、以前ほど濃くはなくなっていた。


まだ消えてはいない。


疲れた日は、むしろ昔と同じくらい濃く見えることもある。


それでも。


毎日見ている自分では気づかないほどゆっくりと、佳乃の顔は変わり始めていた。


ーーーーーーーーーーーー


「ゆう」


「んー?」


十二月の、よく晴れた午後だった。


優は佳乃のベッドの上で、仰向けになってスマートフォンを眺めている。


高校は冬休みに入っていた。


推薦で大学が決まっている優にとって、年末年始は驚くほど暇らしい。


「ちょっと、顔貸して」


スマートフォンが止まった。


数秒後。


優の顔だけが、ゆっくりこちらを向く。


「……え」


佳乃は机の上に並べた化粧品を確認していた。


「メイク」


優が起き上がる。


「私に?」


「他に誰がいるの」


その瞬間。


優の顔がぱっと明るくなった。


「やる!」


「声でかい」


「だってお姉ちゃんから言ってきた!」


「嫌ならいいけど」


「やるやるやる」


優はスマートフォンをベッドへ放り投げた。


「今日は何する?」


「まだ決めてない」


「かわいい系?」


「元からでしょ」


「お」


「何」


「今、私のこと可愛いって言った」


「うるさい」


優が楽しそうに笑いながら椅子へ座る。


佳乃は、その顔をじっと見た。


何度かメイクさせてもらっているうちに、少しずつ分かってきたことがある。


優の顔は、盛ればいいわけではない。


むしろ足しすぎると、元々あるものを殺してしまう。


くっきりした大きな二重。


少し高い鼻。


小さな顔。


笑ったときの、頬と口元に残る幼さ。


どこから見ても愛らしいのに、パーツそのものは驚くほど整っている。


最初は、それを活かすだけで精一杯だった。


でも最近。


もう少しだけ先を見てみたくなった。


「今日はちょっと大人っぽくしてみる」


「お姉さんゆう?」


「そんな感じ」


「佳乃さんみたいな?」


「私?」


「お姉ちゃん、めっちゃお姉さんじゃん」


「十九だから」


「見た目の話」


優は自分の胸元へ手を当てて、


「私はまだ少女です」


と真顔で言った。


「動くな少女」


「はい」


佳乃はブラシを手に取る。


前回より、手が迷わなかった。


動画で見た方法をそのまま試すわけではない。


この子なら、どうするか。


それを考える。


アイシャドウの色を少し落ち着かせる。


目尻の印象をわずかに変える。


チークは抑える。


唇には、いつもより少し深い色。


鏡の中で、優が少しずつ変わっていく。


佳乃は何度か手を止めた。


近づいて見る。


離れて見る。


また少し直す。


完璧ではない。


自分でも分かる。


ベースはもっと綺麗にできるはずだし、色のつながりもまだ粗い。


写真にしたときどう見えるのかも、よく分からない。


それでも。


「……楽しい」


小さく漏れた。


「ん?」


「何でもない」


優はたぶん聞こえていた。


でも、それ以上は聞かなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「よし」


佳乃が手を離す。


優が鏡を持った。


「おお」


しばらく黙って、自分の顔を見る。


「どう?」


「好き」


即答だった。


「ほんと?」


「うん」


優は少しだけ目を細める。


口元から笑みが消える。


頬杖をついて、視線だけを鏡へ向けた。


さっきまで椅子の上で足をぶらぶらさせていた高校生が、突然いなくなったように見えた。


佳乃は思わず見入る。


「……またやってる」


「何が?」


優が元に戻った。


「それ」


「これ?」


今度は、少しだけ口角を上げる。


さっきより柔らかい。


でも、いつもの優とも違う。


「なんでそんな顔できるの」


「このメイクなら、こういう感じかなって」


やっぱり、それだけだった。


本人にとっては。


佳乃は少し考えてから、優の髪へ触れた。


「髪もやろ」


「お」


「今日ちゃんとやってみたい」


「いいよ」


髪を下ろす。


毛流れを整える。


服も変えたくなった。


「それじゃないな」


「え?」


「ちょっと待って」


佳乃は自分の部屋を出る。


優の部屋へ勝手に入り、クローゼットを開けた。


「お姉ちゃーん、泥棒ー」


「うるさい」


何着か持って戻る。


「これ着て」


「はいはい」


数分後。


着替えた優が部屋へ戻ってきた。


佳乃は、思わず言葉を失った。


「どう?」


分かっていたはずなのに。


やっぱり、おかしい。


特別高価な服でもない。


ブランド物ですらない。


それでも優が着ると、服の方が選ばれたように見える。


小柄な身体。


整ったバランス。


そして、何より。


何もしていないのに、そこにいるだけで目が向く。


佳乃は少しだけ距離を取って見る。


「……ゆう」


「何?」


「そこ立って」


「ここ?」


「もうちょい窓側」


「はい」


窓から冬の光が差し込んでいた。


白く、柔らかい光。


佳乃はスマートフォンを手に取る。


「写真?」


「うん」


「珍し」


今までは、写真を撮りたがるのはいつも優の方だった。


佳乃は画面越しに妹を見る。


「ちょっと顔、右」


「こう?」


「もう少し」


優が従う。


「笑わないで」


「はい」


カシャ。


一枚。


佳乃は確認する。


「……違う」


「何が?」


「なんか違う」


もう一枚。


また違う。


撮影が下手なのだ。


それだけはよく分かった。


でも。


三枚目。


優が何気なく窓の外へ目を向けた瞬間。


佳乃がシャッターを押した。


「……あ」


画面に、優がいた。


いや。


普段の優とは少し違う。


窓から入る白い光。


佳乃が作った目元。


少し大人びた服。


視線はカメラを見ていない。


ただそれだけなのに。


目が離せない。


「何?」


優がこちらを見る。


佳乃は画面を見せた。


「これ」


優が覗き込む。


「いいじゃん」


「……うん」


自分でも驚くほど、嬉しかった。


「これ、私がやったんだよね」


「そうだよ」


当たり前のことを優が言う。


佳乃は写真をもう一度見る。


技術的に完璧なメイクではない。


プロが見れば、直すところなんていくらでもあるのだろう。


写真だってスマートフォン。


背景も自分の部屋。


それでも。


この写真が、好きだった。


優が綺麗だからだけではない。


自分が、この優を作った。


そのことが、嬉しかった。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「顔」


「何」


「めっちゃ嬉しそう」


佳乃はスマートフォンを伏せた。


「うるさい」


優が笑った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その日の夕方。


二人は少しだけ外へ出た。


近所の公園。


冬の木々はほとんど葉を落としていた。


人も少ない。


ベンチの近くで、優が佳乃へスマートフォンを渡す。


「今度は二人で撮ろ」


「また?」


「せっかくお姉ちゃんもちゃんとしてるし」


佳乃も今日は軽くメイクをしていた。


以前に比べれば、鏡の前に座ることへの抵抗はずっと少ない。


目元のクマはまだ残っている。


でも、それを全部隠そうとは思わなくなった。


「タイマー使う?」


「うん」


スマートフォンを置く。


十秒。


優が佳乃の隣へ走ってきた。


「近い」


「いいじゃん」


「寒い」


「私も」


二人で笑った瞬間。


シャッターが切れた。


後で見たその写真を、佳乃はしばらく見つめた。


優は当然のように可愛い。


今日のメイクと服のせいか、いつもより少し大人びている。


その隣に、自分がいる。


前より。


ほんの少しだけ、顔色がいい。


目の下の影も、最初のコンビニの日より薄い。


何より。


笑顔に力が入っていない。


「これ」


佳乃が言う。


「好きかも」


優が画面を覗く。


「私も好き」


「宿根草入れる?」


「入れる」


優は当然のように、その写真を『宿根草』へ追加した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


夜。


佳乃はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。


優は隣で寝転がり、何かの動画を見ている。


佳乃の指が、ひとつのアプリの上で止まった。


Instagram。


一年以上。


まともに開いていなかった。


アプリそのものは、ずっとそこにあった。


消したわけでもない。


ただ、開けなくなった。


アイコンを見るたびに、


また今度。


今日はいい。


そんなふうに指を避けているうちに、一年以上が経っていた。


佳乃は小さく息を吐く。


タップした。


画面が切り替わる。


それだけで、心臓がひとつ大きく鳴った。


見慣れていたはずの画面。


なのに、自分のものではないように感じる。


プロフィールを開く。


最後の投稿は、一年以上前。


高校時代の自分。


友達。


学校。


カフェ。


放課後。


誰かにしてあげたメイク。


画面の中の佳乃は、どの写真でも笑っていた。


今より髪には艶がある。


目の下に影なんてない。


姿勢もいい。


何より。


自分がそこにいていいことを疑っていない顔をしていた。


佳乃は指を止めた。


――誰、この人。


一瞬、本気でそう思った。


自分なのに。


自分だったはずなのに。


昔の自分を懐かしいと思うより先に、胸の奥がざらついた。


あの頃。


『佳乃ならできるよ』


『佳乃なら大丈夫でしょ』


『ほんと何でもできるよね』


笑いながら言われた言葉。


悪意なんてなかった。


むしろ褒めてくれていた。


期待してくれていた。


だから。


苦しいと言えなかった。


できないと言えなかった。


『今日は無理』


その一言を言うことさえ、相手を裏切ることのように思えた。


佳乃は画面を少し速くスクロールした。


通知。


過去のコメント。


そしてDM。


未読のまま残っているものもあった。


『最近学校来てないけど大丈夫?』


『なんかあった?』


『また遊ぼうね』


『無理しないでね』


『元気になったら連絡して』


どれも優しい。


心配してくれていたことは分かっている。


だからこそ苦しかった。


優しい言葉ほど、返しのついた矢みたいに胸に残った。


返したかった。


『ありがとう』


たった四文字。


それすら打てなかった。


一度返事をしたら、その次も返さなければいけないような気がした。


『元気?』


と聞かれたら。


元気じゃない、と答える勇気がなかった。


元気だよ、と嘘をつく力も残っていなかった。


だから、何も返さなかった。


そのうち通知を見ることすら怖くなった。


少しずつ。


本当に少しずつ、壊れていった。


佳乃はスマートフォンを握る指に力を入れた。


昔の自分。


心配してくれた人たち。


返事をしなかった自分。


全部が、同じ小さな画面に残っている。


閉じよう。


そう思った。


親指が画面の端へ動く。


そのとき。


今日撮った写真が目に入った。


窓辺に立つ優。


そして。


公園で撮った二人。


佳乃の指が止まった。


二人とも笑っている。


自分も。


ちゃんと、そこにいた。


投稿してみようか。


そう思った瞬間。


胸の奥が強く縮んだ。


心臓が速くなる。


指先が冷たくなる。


佳乃は反射的にスマートフォンを伏せかけた。


怖い。


何が。


そう考えると、次々に浮かんできた。


昔の友達に見られること。


今の顔を見られること。


一年以上何も言わなかったくせに、と誰かに思われること。


でも。


一番怖いのは、それではなかった。


――元気になったんだ。


そう思われることだった。


今日の写真だけを見れば、そう見える。


メイクをして。


外へ出て。


妹と笑って。


そして一度、「元気な佳乃」を見せてしまったら。


明日も。


その次の日も。


元気でいなければいけなくなるような気がした。


また部屋から出られなくなったら?


また何日もメイクに触れられなくなったら?


また誰にも返事ができなくなったら?


『せっかく元気になったのに』


そう思われるのだろうか。


『もう大丈夫だと思ったのに』


がっかりされるのだろうか。


そして、また。


佳乃なら。


佳乃なら大丈夫。


佳乃ならできる。


あの言葉が戻ってくる。


「……」


佳乃は唇を噛んだ。


投稿する。


ただ、それだけのことなのに。


まるで、今日の自分を明日も続けますと、誰かに約束するみたいだった。


そんな約束、できない。


明日になれば、また何もできなくなるかもしれない。


――私、ここにいていいの?


胸の奥で声がした。


見ないで。


でも、見て。


期待しないで。


でも、ここにいることだけは認めて。


存在していていいと言ってほしい。


でも、それ以上は求めないでほしい。


矛盾した願いが、胸の中でいくつもぶつかった。


佳乃は写真を見る。


笑っている。


無理に作った笑顔ではない。


今日、楽しかった。


それも本当だった。


今日楽しかったことと。


明日また苦しくなるかもしれないことは。


きっと、同時にあっていい。


まだ、そう信じ切ることはできない。


でも。


そうだったらいいと思った。


「お姉ちゃん」


佳乃はびくっとした。


「……何」


優が隣から画面を覗いていた。


「インスタ?」


「うん」


「懐かし」


「見ないで」


「別に見ないよ」


優はまた自分のスマートフォンへ目を戻す。


佳乃は投稿画面を開いた。


写真を選ぶ。


迷って。


二枚。


一枚目は、窓辺の優。

二枚目は、今日のツーショット。



キャプション欄。


何を書く。


何度か文字を打って。


消した。


『久しぶりです。』


消す。


『最近少しずつ元気になってきました。』


消す。


違う。


そんなことを説明したいわけではない。


優がちらっと画面を見る。


「載せるの?」


「……分かんない」


「そっか」


「止めないの?」


「何を?」


「投稿」


優は本当に意味が分からないらしい。


「お姉ちゃんのインスタじゃん」


「そうだけど」


「載せたいなら載せれば?」


「……載せたくないなら?」


「載せなきゃいいじゃん」


当たり前のように言う。


佳乃は少し笑った。


「簡単だね」


「何が?」


「何でもない」


優はまた動画に戻る。


しばらくして。


「あ」


「何」


「でも、その写真好き」


「どっち?」


「二人のやつ」


優は少し考えて、


「あと私のやつも好き」


「結局両方じゃん」


「うん」


佳乃は画面を見た。


少しだけ。


見てほしかった。


自分が今日作った、いつもとは少し違う優を。


その隣で、少しだけ笑えている自分を。


元気になった、なんて言えない。


そんな自信はない。


でも。


今日こうして生きていたことくらいは、誰かに見てもらってもいいのかもしれない。


そう思った。


それなのに、見られることはやっぱり怖かった。


キャプション欄。


指を動かす。


久しぶりに。妹と。


それだけ。


病気のことも。


学校のことも。


返せなかったメッセージのことも。


元気になったのかどうかも。


何も説明しない。


まだ、説明できない。


今の佳乃には、それくらいがちょうどよかった。


画面の右上。


「シェア」


親指を置く。


押せない。


指が震えた。


喉の奥が、きゅっと狭くなる。


逃げたい。


閉じたい。


なかったことにしたい。


――別に投稿しなくても、誰も困らない。


優だって、そう言った。


だから。


やめてもいい。


佳乃は数秒、画面を見つめた。


それでも。


ここで閉じたら。


またいつか。


そう思う気がした。


その「いつか」が一年以上続いたことを、佳乃は知っている。


「……っ」


唇を噛む。


そして。


押した。


一瞬だった。


画面が切り替わる。


投稿が、自分のプロフィールに現れる。


終わった。


佳乃はすぐにスマートフォンを伏せた。


心臓だけが、まだ投稿前みたいに速く鳴っていた。


「……載せた」


「おー」


「それだけ?」


「おめでとう?」


「何に?」


「投稿記念?」


「適当」


優が笑う。


その笑い声を聞きながら。


佳乃は、もう一度スマートフォンを手に取った。


自分のプロフィール。


一年以上止まっていた写真の列に、新しい投稿がひとつ増えている。


その表紙にいるのは、窓辺に立つ優だった。


その周りには。


昔の佳乃。


笑っている佳乃。


何でもできた佳乃。


佳乃は新しい投稿を開いた。


一枚目の優。


指を横に滑らせる。


二枚目。


その最後に。


今の佳乃がいた。


目の下には、まだ少し影がある。


昔ほど元気ではない。


できないことも、まだたくさんある。


明日どうなるかだって分からない。


でも。


今日、ここにいる。


優の隣で笑っている。


――ここにいていいのかな。


ずっと、そう思っていた。


役に立たなくても。


何もできない日があっても。


返事を返せなくても。


期待に応えられなくても。


それでも、自分はここにいていいのか。


答えは、まだ分からない。


ただ。


写真の中の自分は、


誰かに許可をもらわなくても、そこにいた。


佳乃は画面を見つめる。


ここにいていい、とまではまだ思えない。


でも。


ここにいる。


その事実だけは、もう消さなくていい気がした。


今日は、それで十分だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌朝。


目を覚ました佳乃は、しばらく布団から出られなかった。


眠かった。


今日は、少し身体が重い。


昨日動きすぎたのかもしれない。


そういう日は、まだある。


枕元のスマートフォンを手に取る。


通知がいくつも溜まっていた。


Instagram。


投稿への「いいね」。


昔の友達からのコメント。


『かのじゃん! 久しぶり!』


胸が少し跳ねる。


『妹ちゃんめちゃくちゃ可愛くない!?』


思わず、少しだけ笑った。


『二人ともかわいすぎ』


そして。


『元気そうでよかった』


指が止まった。


よかった。


優しい言葉だった。


ずっと心配してくれていたのだと思う。


嬉しかった。


少しだけ。


ここにいてもいいのかもしれない。


そんなふうに思えた。


なのに。


次の瞬間。


息が少し苦しくなった。


――元気そう。


そう見えた。


昨日の自分は、確かに元気だった。


楽しかった。


笑っていた。


それは嘘ではない。


でも今日は身体が重い。


このまま、もう一度布団へ潜り込みたいくらいには。


『元気そうでよかった』


その優しい言葉が、急に少しだけ怖くなる。


次に会ったときも、元気でいなければいけないのだろうか。


また笑えなかったら。


また何もできなくなったら。


がっかりされるのだろうか。


「……大丈夫」


誰に言ったわけでもなく、小さく呟いた。


そして。


その言葉を口にした自分に、少しだけ嫌な気持ちになった。


まただ。


苦しくなると。


大丈夫と言ってしまう。


佳乃は一度目を閉じた。


違う。


今日はしんどい。


でも、昨日は楽しかった。


昨日笑っていた自分も本当。


今日、布団から出たくない自分も本当。


どちらかを嘘にしなくてもいい。


佳乃は、そう心の中で言い直してみた。


すぐには信じられなかった。


それでも。


昔なら、このコメントを見た瞬間にアプリを閉じていた。


今日は、閉じなかった。


返信はまだできない。


できなくていい。


今日は見るだけでもいい。


そう思えた。


ほんの少しだけ。



ーーーーーーーーーーー



優が学校から帰ってきた夕方。


佳乃はベッドの上で、何となくInstagramを眺めていた。


あの日の投稿には、その後も少しずつ「いいね」が増えていた。


コメントへの返信は、まだしていない。


何度か文章を考えて。


消して。


結局、そのままにしている。


それでも、もうアプリを開くこと自体は怖くなかった。


少なくとも、三日前ほどには。


通知を確認していると。


ひとつ。


見覚えのないアカウントから、DMが届いていた。


佳乃の指が止まる。


「……何これ」


営業だろう。


そう思って、一度は閉じかけた。


けれど。


プロフィール画像には、見覚えのない企業のロゴ。


名前の下には、


芸能プロダクション


の文字があった。


佳乃は眉を寄せる。


プロフィールを開く。


投稿。


会社名。


所属しているらしいタレントの写真。


どうやら、ただの怪しい個人アカウントではなさそうだった。


「……え?」


もう一度、DMへ戻る。


メッセージを開いた。


『突然のご連絡失礼いたします。』


その次。


『先日投稿されましたお写真を拝見し、ご連絡させていただきました。』


佳乃は何度か読み返した。


先日。


あの投稿のことだろうか。


さらに指を滑らせる。


『写真に写っている妹さんについて、一度お話を伺えないでしょうか。』


そこで、指が止まった。


「……妹?」


佳乃は顔を上げる。


優は、いつものように佳乃のベッドを勝手に占領していた。


学校から帰ってきたばかりなのに、すでに制服のリボンを緩め、枕を抱きながらスマートフォンをいじっている。


髪も少し乱れている。


三日前。


窓辺で見せた、あの大人びた少女の面影はどこにもない。


楽しそうに動画を見ながら、時々一人で笑っている。


それでも。


顔だけは、やっぱり呆れるくらい可愛かった。


佳乃はもう一度、スマートフォンを見る。


窓辺の写真。


あの日、自分がメイクをして。


髪を整えて。


服を選んで。


撮った優。


その写真を、誰かが見つけた。


「……ゆう」


「んー?」


優は画面から目を離さない。


「ちょっと」


「なにー?」


「なんか来た」


ようやく優が顔を上げる。


「何が?」


佳乃は自分でもよく分からないまま、スマートフォンを優の方へ向けた。


「芸能……?」


「……は?」


優が起き上がる。


「何それ」


「私が聞きたい」


優がスマートフォンを受け取る。


数秒。


読む。


「……私?」


「そう書いてある」


「なんで?」


「知らないよ」


優はもう一度読む。


それから、佳乃を見る。


「これ本物?」


「分かんない」


「怪しくない?」


「私も最初そう思った」


「壺とか買わされない?」


「芸能事務所からどうやって壺に行くの」


「分かんないじゃん」


佳乃は思わず笑った。


三日前。


投稿ボタンを押すだけで、指が震えた。


あの一枚が。


今、自分たちの知らない誰かのところまで届いている。


まだ、何が起きたのかは分からない。


本当に芸能関係者なのか。


なぜ優なのか。


この先、何があるのか。


何一つ。


分からない。


優はしばらく画面を見てから、


「で、どうする?」


と聞いた。


佳乃は答えられなかった。


机の上を見る。


一本だけだったはずのブラシ。


少しずつ増えた化粧品。


三日前、優の顔を作るために使ったものたち。


それらが、夕方の光を受けていた。


ほんの一か月ちょっと前。


コンビニへ行くことすら怖かった。


それなのに今。


自分がもう一度好きになり始めたものが、


二人の知らない世界の扉を、


ほんの少しだけ開けようとしていた。

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