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第二話 デート

あの日から、コンビニは少しだけ近くなった。


最初の数日は、佳乃が「今日は無理」と言えば、それで終わった。


優も何も言わなかった。


「そっか。じゃ、なんかいる?」


いつもそれだけだった。


それでも、行ける日は少しずつ増えた。


夕飯のあと。


優が学校から帰ってきたあと。


夜になって急にアイスが食べたくなったとき。


「コンビニ行く?」


「……行こっかな」


そんな会話で、二人は家を出るようになった。


一度、家を出て百メートルほど歩いたところで、佳乃の足が止まった日もある。


「帰りたい」


そう言うと、優は、


「おっけー」


とだけ答えて、くるりと向きを変えた。


せっかくここまで来たのに。


もう少しだから。


そんなことは一度も言わなかった。


帰り道ではむしろ、


「今日コンビニに負けたわ」


と優が笑った。


「私がでしょ」


「二人でパーティー組んでんだから連帯責任でしょ」


その次の日には、また行けた。


そんな日々が続いた。


いつからか、二人でコンビニへ行くことは、佳乃にとって「外出」ではなくなりつつあった。


ただ、コンビニへ行く。


優と。


それだけのことになり始めていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


十二月に入ったある日の夕方。


優は、いつものように佳乃の部屋にいた。


ベッドを半分占領して、イヤホンを片耳だけつけたままスマートフォンを眺めている。


佳乃は机の前に座っていた。


特に何かをするつもりがあったわけではない。


なんとなく引き出しを開ける。


文房具。


昔使っていたヘアゴム。


何の鍵か分からない小さな鍵。


その奥に、黒いポーチがあった。


佳乃の手が止まった。


見覚えがある。


というより、忘れるはずがなかった。


しばらく見つめてから、そっと取り出す。


ファスナーを開けると、長い間触っていなかった化粧品が詰まっていた。


アイシャドウ。


チーク。


リップ。


何本ものブラシ。


懐かしい匂いがした気がした。


放課後の教室。


机の上に広げたコスメ。


『かの、今日これ使ってみて』


『え、それ私に似合う?』


『似合うって。座って』


鏡を覗き込み、


『え、めっちゃいいじゃん!』


と笑った友達の顔。


佳乃は、一本のブラシを手に取った。


毛先を指でなぞる。


しばらく触っていなかったのに、手には妙に馴染んだ。


ただ。


ポーチの中身を一つずつ確かめているうちに、眉を寄せる。


「これはもうダメだな……」


古いマスカラ。


開封したままのリキッド。


長く放置していたクリーム系。


使えるものと、使わない方がいいものを分けていく。


ブラシは洗えば使える。


パウダー類も状態を見ればいい。


一年以上まともに触れていなかったのに、そういう判断だけは不思議なくらい迷わなかった。


胸の奥で、ほんの少しだけ何かが動く。


「……久しぶりに」


声に出してから、佳乃は自分でも驚いた。


「メイク、してみようかな」


ベッドの方から音が消えた。


嫌な予感がする。


ゆっくり振り返る。


優がスマートフォンから顔を上げていた。


目が合う。


「え」


その目が見る見る輝いた。


「するの?」


「……いや」


佳乃は早くも後悔した。


「やっぱいい」


「なんで!」


優が跳ね起きる。


「今するって言ったじゃん!」


「気が変わった」


「三秒で?」


「誰かさんもアイスと三分で別れるでしょ」


「あれは恋愛だから別問題」


「アイスとの恋愛って何」


優はもうベッドから降りていた。


そして佳乃の前まで来ると、床にぺたんと座る。


「じゃあ私にして」


「は?」


「私、顔貸す」


「頼んでない」


「好きにしていいよ」


「人の顔で遊ばせようとしないで」


「お姉ちゃん昔、友達の顔でめっちゃ遊んでたじゃん」


「メイクしてたの」


「一緒一緒」


「全然違う」


「ほら」


優は目を閉じた。


「どうぞ」


「……」


佳乃は呆れて妹を見下ろす。


遠慮がないように見える。


昔からそうだった。


佳乃が何かを好きだと言えば、


『それやってみたい』


『私にもして』


『見せて』


と、すぐに懐へ入ってくる。


けれど。


きっと優は分かっているのだ。


佳乃が本当に嫌がっているときと、そうではないときの違いを。


だから、こういうときだけは躊躇がない。


「……後悔しても知らないからね」


「お」


優が目を開ける。


「やってくれる?」


「じっとしてられるなら」


「余裕」


「絶対嘘」


佳乃は椅子を少し引いた。


「こっち座って」


「はい先生」


「うるさい」


優が佳乃の前に座る。


正面から顔を見る。


そして。


佳乃は少しだけ困った。


「……ほんと、ずるい顔」


「え?」


「なんでもない」


綺麗なのは知っていた。


毎日のように見ている。


けれど、メイクをするつもりで見ると、また違った。


少し高い鼻。


くっきりとした大きな二重。


小さな顔の中で、一つ一つのパーツが驚くほど綺麗に整っている。


それなのに、近寄りがたい印象にはならない。


頬や口元に残るわずかな幼さが、むしろ優の愛らしさを強くしていた。


笑えば、思わずこちらまで笑いたくなるような顔。


ただ。


こうして、メイクをする側の目で見つめると分かる。


この顔は、可愛いだけでは終わらない。


色を変えて。


線を変えて。


表情を一つ変えるだけで。


きっと、いくらでも違う顔になる。


佳乃はしばらく考える。


何を足すか。


いや。


違う。


この顔には、足しすぎない方がいい。


「目閉じて」


「はーい」


ブラシを持つ。


最初の一筆だけ、少し怖かった。


けれど。


触れた瞬間だった。


手が動く。


この色じゃない。


もう少し薄い方がいい。


目尻は伸ばしすぎない。


鼻筋は元から十分に通っている。


ここに少しだけ光を入れて。


唇は――。


「動かないで」


「動いてない」


「喋ってる」


「口しか動いてないじゃん」


「口も顔です」


「厳しいなあ」


佳乃は優の顎に指を添え、少し顔を傾ける。


またブラシを動かす。


気づけば、次にどこを触るか迷わなくなっていた。


「ねえ」


「何」


「お腹すいた」


「口動かさない」


「まだー?」


「うるさい」


「何分?」


「知らない」


「さっき時計見たじゃん」


「見てない」


「犬見てた?」


「黙って」


優が笑おうとして、佳乃に顎を押さえられる。


「笑うな」


「むり」


「じゃあ一生完成しないよ」


「それは困る」


優はようやく静かになった。


佳乃は、もう一度妹の顔を見る。


楽しかった。


そのことに気づいた瞬間。


ほんの少し、怖くなった。


だから、それ以上考えるのをやめた。


ただ、手を動かした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「よし」


佳乃が手を離す。


「できた?」


「たぶん」


「たぶん?」


優は鏡を手に取った。


数秒。


黙った。


佳乃の胸が妙にざわつく。


「……変?」


優は答えない。


鏡の中の自分を見つめる。


そして、少しだけ顎を引いた。


視線を落とす。


次に、顔を上げる。


さっきまでの屈託のない表情が消えた。


目元だけで、空気が変わる。


佳乃は息を止めた。


そこにいるのは間違いなく優だ。


なのに。


知らない女の子に見えた。


次の瞬間。


優がにこっと笑った。


いつもの優に戻る。


「めっちゃいい」


佳乃はしばらく反応できなかった。


「……今の何?」


「何が?」


「今の顔」


「今?」


優はきょとんとしている。


「鏡見てたとき」


「あー」


優はもう一度鏡を見る。


「なんとなく」


「なんとなくって」


「こういうメイクなら、ああいう顔の方が合うかなって」


何でもないことのように言った。


佳乃は妹の横顔を見る。


昔から、人の前に立てば目を引く子だった。


写真を撮っても、なぜか最初に優へ目が向く。


それは知っていた。


でも。


今のは、少し違った。


自分が施したメイクから、何かを読み取ったように見えた。


そして、その何かになった。


ほんの一瞬。


「……変なの」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「じゃあ半分喜んどく」


優は鏡を眺めながら、顔の角度を変える。


「ていうか、お姉ちゃんやっぱ上手いね」


佳乃の手が止まる。


「……昔やってただけ」


「まあ、相当好きだったもんねー」


優は何気なく言う。

ほんの一瞬、視線が鏡から外れる。

また鏡へ視線を戻した。


「でも一年以上ちゃんとしてないんでしょ?」


「だから雑なとこいっぱいあるよ」


「分かんない」


「私には分かるの」


「じゃあ直せばいいじゃん」


「簡単に言うね」


「だって直したら、もっと良くなるんでしょ?」


佳乃は答えなかった。


優は鏡の中の自分を見ながら笑っている。


できない理由より。


できるようになった先を見る。


この子は、昔からそうだった。


「よし」


突然、優が立ち上がる。


「次、お姉ちゃん」


「は?」


「メイク」


「私はいい」


「なんで」


「疲れた」


「休憩したら?」


「やらない」


「ずるい」


「何がよ」


「私だけこんなちゃんとしてんのおかしくない?」


「別にいいでしょ」


「お姉ちゃんもやろ」


「嫌」


「絶対かわいいって」


「うるさい」


「佳乃さん」


「何」


「お客様が一名お待ちです」


「帰ってください」


「自宅です」


佳乃は吹き出した。


優が嬉しそうに笑う。


「ほら、やろ」


「……自分でやるから」


口にしたあと。


また、自分で驚いた。


優も一瞬だけ目を丸くする。


でも、すぐに笑った。


「うん」


それ以上は何も言わなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


鏡の前に座る。


自分の顔を見る。


さっきまで優の顔を見ていたせいなのか。


いつも以上に違いが目についた。


目の下の隈。


少し痩せた頬。


荒れた肌。


顔にはまだ、長く疲れていた時間の名残が残っている。


佳乃はファンデーションを手に取った。


全部、隠したくなった。


この一年を。


眠れなかった夜を。


泣いた日を。


卒業式へ行けなかった自分を。


全部。


でも。


途中で手を止めた。


別に、昔の顔を作る必要はない。


そう思った。


今の自分に似合うものを。


優にしたのと同じように。


一つずつ。


佳乃は自分の顔に色を重ねる。


久しぶりだった。


手元は昔より遅い。


何度かやり直した。


それでも。


少しずつ。


鏡の中の自分が変わっていく。


終わった頃には、後ろのベッドで寝転がっていた優が起き上がっていた。


「……どう?」


聞くつもりはなかった。


でも、口から出た。


「かわい」


即答だった。


「まだちゃんと見てないでしょ」


「見てたよ」


優が近づいてくる。


佳乃の顔を右から見る。


左から見る。


「お姉ちゃん、やっぱこういうの似合うね」


「こういうのって?」


「綺麗なの」


「何それ」


「綺麗な人が綺麗にしてるやつ」


「語彙力なさすぎ」


優が笑う。


佳乃も鏡を見る。


昔と同じではない。


目の下の影は完全には消えていない。


でも。


「……悪くないかも」


小さく呟いた。


優の顔が一気に明るくなる。


「でしょ!」


「なんで優が得意げなの」


「私がやらせたから」


「自分でやったけど」


「きっかけは私です」


「はいはい」


「ねえ」


「今度は何」


優が、鏡越しに佳乃を見る。


すでに何か思いついた顔だった。


「このままコンビニ行こ」


佳乃は振り返る。


「……は?」


「コンビニ」


「なんで」


「せっかく可愛くしたし」


「コンビニに行くためにここまでメイクしないでしょ」


「じゃあ服も着替えよ」


「なんで話が悪化してるの」


優はもうクローゼットへ向かっている。


「めっちゃおしゃれしよ!」


「やだよ」


「いいじゃん!」


「どこ行くの」


優が振り向く。


満面の笑み。


「コンビニ」


「意味分かんない」


「二人でめっちゃおしゃれしてコンビニ行くの」


「だから何のために」


優は少し考える。


そして。


「デートだ!」


佳乃は黙った。


「……姉妹でデートって言わないでしょ」


「言うよ」


「誰が決めたの」


「今、私が」


「適当すぎる」


「初デート、コンビニね」


「勝手に決めないで」


優はけらけら笑いながら、佳乃のクローゼットを開ける。


「これ可愛い」


「それ高校のときの」


「着れる?」


「知らない」


「着てみてよ」


「嫌だって」


「ほらほら」


「そのテンション何なの」


そう言いながら。


佳乃は優から服を受け取った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


結局。


二人とも、本当に着替えた。


佳乃は昔よく着ていた服の中から、今の自分でも落ち着くものを選んだ。


優の服は、佳乃が選ぶ。


「これ」


「こっちじゃなくて?」


「そっちは今日のメイクに合わない」


「へえ」


「あと、それ着るなら髪下ろして」


「了解、先生」


しばらくして、着替えた優が戻ってくる。


佳乃は思わず黙った。


「どう?」


やっぱり。


この子は、おかしい。


特別派手な服ではない。


なのに優が着ると、その服が初めからこの子のために作られていたように見える。


小柄なのに、全身のバランスがいい。


そして何より。


立った瞬間に、目を引く。


「……いいんじゃない」


「その間なに?」


「別に」


「めっちゃ良いと思った?」


「早く行くよ」


「図星じゃん」


優が笑いながら追いかけてくる。


玄関の鏡に、二人が並んだ。


佳乃は、その姿を少し不思議な気持ちで見つめた。


数週間前。


同じ玄関で。


外へ出るだけで足が震えた。


今日は。


自分でメイクをした。


服を選んだ。


妹と並んでいる。


優だけではない。


鏡に映る佳乃だって、十分に目を引く。


整えた長い茶髪。


青い瞳。


自分で選んだ服。


久しぶりに、自分の顔を見て嫌ではなかった。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「今日うちら、めっちゃ可愛くない?」


佳乃は鏡越しに優を見る。


「自分で言う?」


「だって可愛いじゃん」


「自分の顔には素直だよね、昔から」


「好きだもん」


あっさり言う。


「強いなあ」


「お姉ちゃんの顔も好きだよ」


「聞いてない」


「私は好き」


優は、それが当然みたいに言った。


佳乃は少しだけ目を逸らす。


「……行くよ」


「照れた?」


「行くよ」


「はいはい」


佳乃は玄関の扉を開けた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


同じ道。


同じ街灯。


同じ住宅街。


同じコンビニ。


なのに、少しだけ違って見えた。


すれ違う人の視線を感じる。


やっぱり、まだ少し怖い。


胸の奥が小さく固くなる。


でも。


隣を見る。


優はまったく気にしていなかった。


ショーウィンドウに映った二人を見て、


「やっぱ今日うちらビジュいいね」


と言っている。


「また言ってる」


「事実だもん」


佳乃は少し笑う。


今日は、人に見られている。


けれど数週間前のように、その視線のすべてが自分を責めているようには思わなかった。


隣には、どこにいても人の目を引く妹がいる。


そして自分も今日は、久しぶりに髪を整えて、メイクをして、服を選んだ。


二人で並んで歩けば。


そりゃ少しくらい目立つ。


そう思えたことが、


少しだけ嬉しかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


コンビニに入る。


「いらっしゃいませ」


同じ声。


同じ蛍光灯。


同じ棚。


優が真っ先にお菓子売り場へ向かった。


「なんか奢って」


「なんで私が」


「お姉ちゃんだから」


「大学決まってるんだから自分で買いなさい」


「まだ大学生じゃないもん」


「都合いいなあ」


「じゃがりこ」


「自分で買って」


「サラダ」


「知らない」


「アイスも」


「知らない」


「愛がない」


「じゃあ帰る?」


「ごめんなさい」


佳乃は笑った。


そして、自分では気づかなかった。


もう店内にいる人の顔を、ほとんど確認していないことに。


笑われていないか。


変に思われていないか。


そんなことより。


優が余計なお菓子をカゴへ入れていることの方が気になっていた。


「それ何個目?」


「三個」


「一個戻して」


「二個?」


「一個」


「交渉下手だなあ」


「それ交渉って言わないから」


佳乃は笑いながら、優の手から一つ取り上げた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


帰り道。


「楽しかった」


優が言った。


「コンビニで?」


「デート」


「まだ言ってる」


「だってデートでしょ」


「違います」


「じゃあ何?」


佳乃は少し考えた。


ただのコンビニ。


そう言おうとして。


やめた。


「……知らない」


「じゃあデートで決定」


「なんでそうなるの」


優が笑った。


少し歩いたところで、立ち止まる。


「写真撮ろ」


佳乃は反射的に、


嫌だ。


と言いかけた。


でも。


「……待って」


優の手が止まる。


佳乃は自分の髪を触る。


少し整える。


服の襟も直した。


それから、優の隣へ立つ。


「撮るなら、ちゃんと撮って」


優が一瞬だけ目を丸くした。


その表情は、すぐにいつもの笑顔へ変わる。


「了解、佳乃さん」


「何それ」


優が肩を寄せる。


佳乃も少しだけ身体を寄せた。


カシャ。


優が画面を見る。


「いい」


「見せて」


二人で写真を覗き込む。


優は相変わらず、何もしていないみたいに自然に目を引く。


でも、その隣。


佳乃もちゃんと綺麗だった。


髪を整えて。


目元に色を乗せて。


自分からカメラを見て。


笑っている。


「……これ、好きかも」


思わず口から出た。


優が顔を上げる。


「ほんと?」


「……まあ」


「じゃあ保存ね」


「勝手に消すと思ってた?」


「前は消せって言ったじゃん」


「前は前」


「おお」


優は嬉しそうに写真アプリを操作した。


佳乃はもう一度、画面の中の自分を見る。


メイクをして、服を選んで、自分からカメラを見て笑っている。


数週間前なら、たぶん撮られることすら嫌がっていた。


「帰ろ」


優がスマートフォンをしまう。


「寒い」


「だからさっきから言ってるじゃん」


「手かじかんできた」


「知らないよ」


「お姉ちゃんのポケット入れていい?」


「自分のあるでしょ」


「そっちの方あったかそう」


「やだよ」


優が笑いながら手を伸ばしてくる。


「ちょ、入れんなって」


「冷たっ」


「だから!」


二人は言い合いながら歩き出した。



同じ速度で。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


家に帰って。


服を着替えて。


顔を洗う前に、佳乃はもう一度鏡を見た。


少しだけ。


名残惜しいと思った。


そんな自分に驚いた。


以前なら、鏡を見ることさえ嫌だったのに。


佳乃はゆっくりメイクを落とす。


机の上に広がった化粧品を、一つずつ片付けていく。


アイシャドウ。


リップ。


チーク。


古くなっていたものは、明日捨てよう。


新しいものを買おうか。


そこまで考えてから。


佳乃は、また少し驚いた。


――買おうと思ったんだ。


最後に。


一本のブラシを手に取る。


引き出しを開けた。


しまおうとして。


手が止まる。


明日使う予定なんてない。


明後日も分からない。


またしばらく触れないかもしれない。


それでも。


佳乃は引き出しを閉じた。


ブラシだけを、


机の隅に置く。


「お姉ちゃーん!」


廊下から優の声。


「今日の写真送ったー!」


「はいはい」


「デート写真だから消さないでね!」


「だからデートじゃないって!」


佳乃は笑った。


机の上。


一本のブラシが、部屋の明かりを受けている。


まだ何かが始まったわけではない。


夢ができたわけでもない。


昔の自分に戻れたわけでもない。


ただ。


昔好きだったものを、


もう一度、自分のそばに置いておきたいと思った。


それだけだった。


でも佳乃は、そのブラシをもう、


引き出しの奥へ戻そうとは思わなかった。

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