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第十六話 なんでもいい

第十六話 なんでもいい


四月。


三限が終わり、優が教室を出ようとしたところで、後ろから袖を掴まれた。


「優」


「ん?」


振り返ると、同じ学科の美緒が鞄を抱えて立っていた。


「今日、新歓行く?」


「何それ」


「え?」


美緒の顔が止まる。


「新歓」


「うん」


「新入生歓迎会」


「それは分かる」


「じゃ何が分かんないの」


「どの?」


「今日の!」


「今日あるの?」


「あるよ!」


知らなかった。


優はスマートフォンを取り出した。大学へ入ってから増えたグループを上から開いていく。


授業、学科、一年、何かよく分からない大人数のグループ。


通知が百件を超えているものもある。


「どれ?」


「だから見てないの?」


「通知多いから切った」


「最悪」


美緒がスマートフォンを覗き込み、優の指を押しのけるようにして画面をスクロールした。


「あった。これ、アウトドアサークル」


「ああ」


優は画面を見る。


美緒が行くと言っていたから、とりあえず入ったやつだ。


そういえば、どんなサークルなのかは聞いていない。


アウトドアサークル。


多分、アウトドアをするんだろう。


「何するサークル?」


「今それ考えてた?」


「うん」


「名前見たら分かるでしょ」


「アウトドア?」


「そうだよ」


「あってた」


「七時から。行こうよ」


「美緒行くの?」


「行く。お願い。一人で先輩の中入るの嫌」


「じゃ行く」


答えると、美緒が一度瞬きをした。


「軽」


「何が?」


「もっと迷わない?」


「何で」


「知らない人ばっかじゃん」


「行けば知るじゃん」


美緒が何とも言えない顔になる。


「……そういうとこだよね」


「何が?」


「もういい」


優はスマートフォンをポケットへ戻した。


「何着てくの?」


「これ」


「そのまま?」


「一回家帰るのめんどい」


美緒は優を上から下まで眺める。


白い薄手のニットに黒いパンツ。髪も下ろしただけで、普段大学へ来る格好と変わらない。


「モデルなのに」


「新歓と関係なくない?」


「いや、普通に可愛いからいいけどさ」


「じゃいいじゃん」


「そういうところ腹立つ」


「何で?」


本気で分からず聞くと、美緒がため息をついた。


「最初、絶対仲良くなれないと思ってたのに」


「私と?」


「うん」


「何で?」


「顔」


優は自分の頬へ手を当てた。


「また顔」


「だってモデルやってるって聞いたし、入学してすぐ目立ってたし。絶対なんか、近寄りがたい人だと思うじゃん」


「今は?」


「今?」


美緒が優を見る。


数秒考えて、


「普通」


と言った。


「昇格?」


「降格」


「ひど」


美緒が笑う。


ちょうど横を通りかかった亮介が、その言葉を拾った。


「何の話?」


「優が最初怖かった話」


「あー」


「何で納得すんの」


優が眉を寄せると、亮介が笑った。


「俺も最初話しかけづらかった」


「二日目から普通に来たじゃん」


「頑張ったんだよ」


「知らなかった」


「その努力返して」


美緒が吹き出した。


「亮介も今日行く?」


「新歓?」


「うん」


「行く」


「飲む?」


「飲まん。明日朝から車使うし、そもそもまだ十九だし」


「真面目」


「お前に言われたくない」


「私もまだ飲むって言ってないし」


「まだ?」


「まだ」


亮介が少し笑った。


「もう飲む気じゃん」


「知らない。雰囲気次第」


優は二人のやり取りを聞きながら教室を出る。


「四限行こ」


「優は?」


美緒が聞く。


「飲まないよ」


「即答」


「飲みたくないし」


「はいはい」


三人で廊下を歩き出した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


新歓は、大学から二駅離れた居酒屋だった。


奥の座敷をいくつか繋げて、二十人以上が集まっている。


一年から四年まで。


入った瞬間から、かなり騒がしかった。


「うわ」


美緒が足を止める。


「多」


「帰る?」


優が聞く。


「何で優が平気なの」


「何が」


「知らない人ばっかじゃん」


「だから?」


「……もういい」


靴を脱いで座敷へ上がる。


その瞬間、いくつかの視線が優へ向いた。


一度見て、もう一度見る。


隣の人の肩を叩いて何かを言う。


優にはそれが見えた。


「あ」


二年生らしい女の先輩が声を上げる。


「モデルの子じゃない?」


優がそちらを見る。


「あ、多分それ私です」


「やっぱり!」


美緒が肘でつつく。


「もうバレてるじゃん」


「大学広いのにね」


「そういう問題?」


先輩が手招きする。


「こっち空いてるよ」


「ありがとうございます」


美緒と並んで座り、亮介は向かいに腰を下ろした。


テーブルには枝豆、唐揚げ、ポテト、ピザ。その間に、すでに何種類ものグラスが置かれている。


ビール。


サワー。


カクテル。


ソフトドリンク。


一年生らしい男子が、顔を真っ赤にして笑っていた。


その隣では、女の子が小さなグラスを両手で持っている。


「ほら、一年なんだから」


三年生らしい男が笑いながら言う。


「無理ですって」


「一杯だけ。一杯だけ」


「私ほんと弱いです」


「弱いとか飲んでから言えって」


周りが笑った。


女の子も困ったように笑う。


笑うしかないようにも見えた。


結局、グラスを口元へ持っていく。


「いったー!」


拍手。


誰かが動画を撮っている。


優はそちらを見ていた。


美緒も一度だけ見て、


「大学って感じ」


と小さく言った。


「これが?」


「知らないけど」


二人の前にもメニューが置かれる。


「何飲む?」


先輩が聞く。


「私は……」


美緒がメニューを開いた。


少し迷ってから、ピーチ系のカクテルを指す。


「これ」


「お、美緒ちゃん飲める人?」


「いや、全然分かんないです。一杯だけ」


「一杯で終わるかなあ」


先輩が笑う。


美緒も、


「終わりますよ」


と笑い返した。


「優ちゃんは?」


「コーラ」


「飲まないの?」


「はい」


「一口くらいならいいじゃん」


「いらないです」


優は笑って答えた。


声の調子も変わらない。


「真面目だなあ」


「飲みたくないだけです」


「せっかく大学入ったのに」


「コーラ好きですよ」


先輩は一瞬だけ優を見たあと、


「まあモデルだもんな」


と笑った。


何が「モデルだから」なのかは分からない。


優も聞かなかった。


向かいの亮介が、


「俺もウーロン茶で」


と言う。


「男も飲まないの?」


今度は別の先輩が笑った。


亮介は気にした様子もなくメニューを閉じる。


「飲みません」


「ノリ悪」


「すんません」


謝っているのに、全く悪いと思っていない声だった。


先輩もそれ以上は言わなかった。


少しして飲み物が来る。


乾杯の声。


グラス同士がぶつかる。


美緒もカクテルを持ち上げた。


一口飲み、少し目を丸くする。


「甘」


「飲める?」


優が聞く。


「ジュースみたい」


「それ危ないやつじゃない?」


亮介が言う。


「お父さん?」


「後で死ぬぞ」


「一杯だけだって」


美緒は笑って、もう一口飲んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


最初の一時間は、普通に楽しかった。


優はモデルの仕事について聞かれ、大学のことを聞かれ、どこから来たのか、彼氏はいるのか、サークルは決めたのか、次々質問された。


「撮影ってどんな感じ?」


三年生の女の先輩が聞く。


「待ってる時間長いです」


「そこ?」


「思ってたより長くて」


「もっと華やかな話ないの?」


優は少し考える。


「服いっぱい着ます」


「雑!」


周りが笑う。


優も肩を揺らした。


「でも写真めっちゃ綺麗だったよ」


「ありがとうございます」


「実物もっとやばいけど」


「それもありがとうございます」


「慣れてるなあ」


「何がですか?」


「褒められるの」


優が首を傾げる。


「嬉しいですよ、普通に」


「可愛い」


「先輩も可愛いです」


「そういうの!」


「何が?」


また笑いが起きる。


優も笑った。


その横で、美緒のグラスが空になる。


「美緒ちゃん次何?」


先輩が聞いた。


「え、もういいです」


「まだ一杯じゃん」


「一杯で終わるって言いました」


「新歓だよ?」


「関係なくないですか?」


美緒は笑っている。


ただ、さっきより少しだけ声が高かった。


「ほら、次これ飲みやすいから」


別のカクテルを勝手に注文される。


美緒が優を見る。


優と目が合う。


一瞬。


「嫌なら飲まなきゃいいじゃん」


優が言った。


先輩の前で、普通の声で。


美緒は少しだけ目を開き、それから笑った。


「まあ一杯なら」


「二杯目だけど」


亮介が言う。


「細かい」


結局、美緒は二杯目も口をつけた。


優は何も言わなかった。


美緒自身が飲むと決めたことまで止める理由はなかった。


ただ、水の入ったピッチャーを手元へ引き寄せて、美緒の空いたコップへ注いだ。


「何」


「飲んどけば?」


「お母さん?」


「亮介と同じこと言ってる」


亮介が笑う。


「こいつ今日保護者二人いるじゃん」


「いらないんだけど」


美緒は文句を言いながら、水も少し飲んだ。


「追加何頼む?」

誰かがメニューを開く。

「優は?」

「何でもいい」

美緒がすぐ顔を向けた。

「またそれ」

「何が」

「優、何食べたいって聞くといつも何でもいいじゃん」

「だって何でもいいし」

「一個くらいないの?」

優はメニューを見る。

「……ポテト?」

「今見たからでしょ」

「バレた」

優が笑う。

「みんなが食べたいのでいいよ」


「それ、自分の希望じゃないじゃん」


「別に困ってないからよくない?」


「それもそうか」

美緒が呟いてから、店員さんを呼んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


同じ一年の女子が、優の向かいに座った。

名前は沙耶(さや)。


最初は普通に話していた。

「モデルって、何のモデルなの?」


「今はWebとか」


「雑誌じゃないんだ」


「まだないよ」


「へえ」


笑っている。


「なんかもっとすごいのかと思った」


隣の男子が、


「いやWebでも普通にすごくね?」


と口を挟む。


沙耶の口元が少しだけ固くなる。


「そういう意味じゃないよ」


「分かってる」


優が先に答えた。


沙耶を見る。


「私もまだ全然だし」


「だよね」


沙耶の表情が少し戻った。


相手が欲しかった言葉は、多分これだった。


優には分かった。


だから渡した。


それだけだった。


「でも顔いいと得だよね」


沙耶が笑う。


「得してると思う」


優も笑った。


「否定しないんだ」


「だって得してることもあるし」


「すご」


少し棘のある笑い声。


優は気にしなかった。


正確には、気にする前に、別の人から話しかけられた。


「優、写真撮ろ」


「いいよ」


呼ばれた方へ身体を向ける。


沙耶はそのまま残った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


時間が経つにつれて、店の空気は目に見えて崩れていった。


声が大きくなる。


距離が近くなる。


誰かの笑い声に、理由もなく別の人が笑う。


一年生の男子が先輩に肩を組まれ、


「男ならいけるだろ」


とジョッキを渡される。


「いや無理っす」


と言いながら飲む。


拍手。


別の一年の女の子は、


「先輩の酒飲めないの?」


と笑われ、断りきれず口をつける。


それを見て笑っている人もいる。


気まずそうに目を逸らす人もいる。


亮介はウーロン茶のままだった。


「亮介くんマジ飲まないの?」


三年の男に聞かれ、


「飲まないっす」


と答える。


「付き合い悪いねえ」


「酒以外なら付き合います」


「うわ、真面目」


「それ褒めてます?」


亮介が笑う。


相手も笑う。


でも少しだけ面白くなさそうだった。


美緒は三杯目に入っていた。


頬が薄く赤い。


「一杯じゃなかった?」


優が聞く。


「これは先輩がくれた」


「それを飲んだのは美緒じゃん」


「そうとも言う」


普段より笑うまでが早い。


そのくせ、


「全然酔ってないよ」


と言う。


「聞いてないけど」


「顔に書いてた」


「書いてない」


美緒が優の肩へ寄りかかる。


「優あったか」


「重い」


「冷たい」


「どっち」


美緒が笑う。


優も笑った。


ただ、美緒のグラスが空いたとき、次に酒を注ごうとした先輩の手を、亮介が自然に止めた。


「もう水でよくないですか」


「本人飲むって言ってんじゃん」


「言ってないです」


美緒が亮介の腕を叩く。


「保護者二号」


「明日死ぬぞ」


「死なない」


「じゃ水飲め」


亮介が水を渡す。


美緒はぶつぶつ言いながら受け取った。


優はその様子を見ていた。


少しだけ口元が緩む。


亮介は多分、こういう人だった。


酒を飲まないことを格好いいとも思っていない。


飲む人間を馬鹿にもしない。


嫌ならやめればいい。


ただそれだけ。


分かりやすかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


店の端で、少し騒ぎが起きたのはそのあとだった。


一年の女の子が完全に酔っていた。


さっきまで笑っていた子。


今は壁にもたれ、目を閉じている。


「大丈夫?」


二年の女の先輩が肩を叩く。


返事は曖昧だった。


そこへ男の先輩が来た。


「俺送ってくよ」


「いや、私たちで――」


「方向一緒だから大丈夫」


女の先輩が少し迷う。


男はしゃがんで、酔った一年生の顔を覗き込んだ。


「家どこ?」


「……」


「ほら、立てる?」


腰へ手を回そうとする。


優は離れたところから見ていた。


その男がさっきから、その子にばかり酒を渡していたことも覚えている。


女の子が一度断ったとき、


「俺の酒飲めないの?」


と笑っていたことも。


優の視線が止まる。


そのとき、別の女の先輩が男の腕を払った。


「いい。私送る」


「いや、俺んち近いし」


「何でお前んち基準なの」


周りから少し笑いが起きる。


男も笑う。


「別に変なことしねえよ」


「言ってる時点で怪しい」


「ひど」


冗談みたいに終わった。


女の先輩が一年生を連れていく。


男は、


「信用ねえなあ」


と笑って別の席へ戻った。


その周りも、数分もしないうちに別の話を始めた。


優は水を一口飲んだ。


何とも言えない感じがした。


嫌なものを見た。


多分。


でも、その場全部が嫌になったわけではない。


美緒は隣で笑っている。


亮介は誰かとゲームをしている。


楽しい部分も本当にある。


ただ。


全部一緒にある。


優にはそれが少し不思議だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「やばいよな、ああいうの」


声をかけられた。


振り向く。


三年生の男。


藤田。


さっき一度だけ話した。


髪は明るめで、整った顔をしている。


藤田はさっきの男がいた方を顎で示す。


「大学入ったからって後輩飲ませて持ち帰ろうとするやつ。マジダサい」


「ですね」


「俺ああいうの嫌いなんだよね」


「へえ」


「酒なんて自分で飲みたいときに飲めばいいのに」


「そうですね」


藤田は笑う。


「優ちゃんも飲んでないしね」


「はい」


「ちゃんとしてるね」


「普通です」


「さっきも言われてた?」


「今日何回目だろ」


「じゃ言うのやめよ」


優が少し笑う。


藤田も笑った。


最初は話しやすかった。


さっきの男たちを馬鹿にする。


無理に飲ませない。


距離も急には詰めない。


「モデルやってるんだよね?」


「はい」


「写真見た」


「ありがとうございます」


「実物の方がいいね」


「それも今日何回目だろ」


「みんな同じこと言うじゃん」


「言いますね」


「俺は違うこと言いたかったんだけどな」


「遅かったですね」


藤田が声を立てて笑う。


優も笑った。


しばらく普通に話す。


大学。


授業。


仕事。


藤田は話を聞くのが上手かった。


優が答えると、ちゃんとその先を聞く。


途中で遮らない。


酔ってはいるけれど、潰れてはいない。


「てか優ちゃん、彼氏いる?」


質問が変わった。


優は藤田を見る。


「あ、いないです」


「やっぱモテる?」


「知りません」


「絶対嘘」


「何で」


「その顔で分かんないはないでしょ」


優が笑う。


「じゃあモテます」


「認めるんだ」


「先輩が言わせたんじゃん」


また藤田が笑う。


少しして、藤田がわずかに声を落とした。


さっきまでと同じ笑い方なのに、優を見る時間だけが少し長い。


「じゃ俺とかあり?」


周りには聞こえないくらいの声だった。


冗談の形をしている。


でも、答えは欲しがっている。


優にはそれが分かった。


「ああいう男、ダサい」


と言っていた。


だから自分は違う。


そういう空気を作って。


いつの間にか、さっきより近くにいる。


優にはそれが見えた。


面白いな、と一瞬思った。


人ってこういうことするんだ。


「まだ先輩の名前しか知らないです」


優の口元がゆるく上がる。目元まで柔らかい、誰が見ても感じのいい笑顔だった。


「じゃ知ったらあり?」


「どうでしょう」


「逃げた」


「逃げました」


藤田は笑った。


空気は壊れない。


そのまま会話は続いた。


ただ、優は鞄を自分の膝の上へ移した。


藤田の視線が顔から首へ落ち、また戻ったから。


別に考えたわけではない。


身体が先に動いた。


「優ちゃん、ほんと酒飲まないんだ」


「飲まないです」


「そこは意外」


「何が」


「もっとノリで飲むタイプかと思った」


「飲みたくないから」


「そういうとこしっかりしてるね」


また、それ。


優は少しだけ笑った。


「先輩も結構ちゃんとしてるんですね」


「俺?」


「さっきああいうの嫌いって言ってたから」


藤田が笑う。


「でしょ?」


その笑い方を見て。


優はなぜか、少しだけ冷めた。


理由は分からなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その後も新歓は続いた。


写真を撮る。


席を移る。


誰かが変なことを言って笑う。


優も笑う。


肩を組まれれば組み返す。


美緒が笑いすぎて優へ倒れてくれば、頭を押し返す。


「重い」


「ひど」


「酔ってる?」


「酔ってない」


「目半分しか開いてないよ」


「元から」


「嘘つけ」


亮介が水を差し出す。


「飲め」


「三人目のお父さん」


「優はお母さん?」


「私は知らない」


優は笑った。

普通に楽しかった。本当に、楽しいと思っていた。


ただ、周りとまったく同じところまで行くことはできなかった。


美緒が普段より大きな声で笑っていること。


亮介が酔った男に絡まれないよう少し席をずらしたこと。


優の話になりかけるたび、沙耶が別の話題を重ねていたこと。


藤田がさっきの女の子を持ち帰ろうとした男を笑っていたくせに、自分には別のやり方で近づいてきたこと。


一年の男子がもう飲めない顔をしているのに、先輩のグラスを断れずにいること。


全部、目に入る。


そのたびに何かを考えているわけではない。


ただ、見える。


笑いながら。


喋りながら。


優だけが少しだけ、その場の外にもいた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


店を出た頃には十時を過ぎていた。


夜風が冷たい。


美緒が、


「気持ちいい」


と両腕を広げる。


「酔ってるじゃん」


「酔ってないって」


「歩き方ちょっと変」


「これは元から」


「今日それ二回目」


亮介が美緒の反対側を歩く。


「水買う?」


「いらない」


「買うわ」


「聞いた意味」


コンビニへ入っていく。


優は笑った。


「亮介いいやつだね」


「でしょ」


「何で美緒が自慢するの」


「友達だから」


少しして、美緒が声を落とした。


「ねえ」


「何?」


「さっきの藤田さん」


「うん」


「めっちゃ優狙ってたよね」


「まあ」


「分かってたんだ」


「うん」


美緒が優を見る。


「何で普通に喋れるの?」


「何で?」


「いや、結構距離近かったし。彼氏いるとか聞いてたし」


「聞いてたね」


「嫌じゃなかった?」


優の歩幅が、ほんの少しだけ狭くなった。


「……別に?」


言ってから。


その前に一拍あったことへ、自分で気づいた。


美緒は気づかなかったらしい。


「優こういうの慣れてそうだもんな」


「何それ」


「顔」


「また顔」


「でも藤田さんまだマシじゃない? あの女の子持って帰ろうとしてた人より」


優は前を見る。


藤田は少し離れたところで先輩たちと笑っている。


「んー」


「何?」


「いや」


藤田は多分、あの男より上手かった。


それだけ。


「美緒」


「ん?」


「藤田さんがいい人って思った?」


「まあ……普通じゃない? 酒も勧めてこなかったし」


「そっか」


「何?」


「何でもない」


亮介が水を持って戻ってくる。


「ほら」


「いらないって言ったじゃん」


「飲め」


「横暴」


美緒が笑いながらペットボトルを受け取る。


優も笑った。


さっきのことは、それ以上考えなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


家に着いたのは十一時半を過ぎていた。


「ただいまー」


靴を脱いでいると、二階から少し遅れて声が返る。


「おかえり」


優はそのまま階段を上がった。


佳乃の部屋のドアは開いている。


机には教材とノート。


佳乃は何かを書いていた。


「起きてた」


「まだ十二時前でしょ」


「今日早いじゃん」


「何が」


「勉強」


「もう終わるとこ」


「えら」


「誰のせいだと思ってるの」


「私?」


「夜中に寝ろって言った人」


「ああ」


優は笑って、佳乃のベッドへ身体を投げた。


「ちょっと。外の服で乗らないで」


「疲れた」


「自分の部屋行って」


「遠い」


「隣」


いつものやり取り。


佳乃は眉を寄せながらも、本気で追い出そうとはしなかった。


優は枕へ頬を押しつける。


少し黙ってから、


「今日さー」


と言った。


佳乃のペンが止まる。


優が自分から大学の話をするのは、少し珍しい。


「何?」


「新歓行った」


「新歓?」


「美緒に連れてかれた」


「へえ」


「なんか結構すごかった」


佳乃が振り返る。


「何が?」


「一年も普通に酒飲んでた」


「ゆうは?」


「飲んでないよ」


「ならいいけど」


佳乃は少しだけ肩の力を抜く。


「美緒は飲んでた」


「大丈夫なの?」


「三杯くらい。亮介が水飲ませてた」


「亮介?」


「友達」


「男?」


返事が少し早かった。


優が顔を上げる。


「男」


「ふーん」


「何」


「別に」


佳乃はノートへ戻ろうとする。


優はその背中を見ながら、また枕へ頬をつけた。


「あとさ」


またペンが止まる。


「酔わせた一年の女の子、持って帰ろうとしてる先輩いた」


佳乃が完全に振り返った。


「は?」


「女の先輩が止めてたけど」


「最悪」


「うん」


優は少し考える。


「あと、そういうのめっちゃ馬鹿にしてる先輩もいて」


「まともな人もいるんじゃん」


「んー」


「何」


「その人も私狙ってた」


佳乃の目が止まった。


「……は?」


優が少し笑う。


「今日それ何回目?」


「何そいつ」


「藤田さん」


「名前聞いてない」


「先輩」


「それも分かってる」


佳乃の眉間に皺が寄る。


優は妙に面白くなって、少しだけ口元を緩めた。


「『ああいう男マジダサい』とか言ってて」


「うん」


「酒も勧めてこなくて」


「うん」


「普通に喋ってたら彼氏いる?って」


佳乃が持っていたペンを机へ置いた。


「それで?」


「いないって言った」


「そのあと」


「俺あり?って」


「は?」


さっきより低い声だった。


「お姉ちゃん顔怖い」


「何で笑ってんの」


「面白くて」


「何が?」


優は天井を見る。


何が面白かったんだろう。


藤田が「あいつらとは違う」と見せながら、結局自分へ近づいてきたこと。


そのやり方が分かったこと。


それとも、佳乃がこんな顔をしていること。


「……分かんない」


「何て返したの?」


「まだ名前しか知らないから分かんないですって」


「何で可能性残すの!」


佳乃の声が少し大きくなる。


優が目を瞬いた。


「残した?」


「残してるでしょ」


「でもあれ、真面目に断るとこじゃないじゃん」


「何で?」


「空気悪くなるし」


佳乃は何か言いかけて、止まった。


優は笑って返した。


周りも笑った。


藤田も笑った。


誰も嫌な気持ちにはならなかった。


多分。

それなら、あれでよかった気がする。


「……嫌じゃなかったの?」


佳乃が聞いた。


優の口元から笑みが少し消える。


「何が?」


「そうやって見られるの」


美緒にも聞かれた。


嫌じゃなかった?


あのときは、


別に。


と答えた。


藤田が何を欲しがっていたのかは分かる。


沙耶が何を言わせたかったのかも分かった。


酒を飲ませていた先輩が何をしていたのかも。


誰が楽しんでいて、誰が無理して笑っていて、誰が誰を狙っていたのか。


多分、かなり分かった。


なのに。


「……分かんない」


佳乃の眉が少し上がる。


「分かんないの?」


「別に何もされてないし」


「何もされなかったら嫌じゃないの?」


「そういうことじゃないけど」


「じゃあ何」


優は天井を見たまま黙った。


答えがない。


少し考えて。


藤田が自分の身体へ視線を落とした瞬間。


何となく鞄を膝へ移した自分を思い出す。


「あ」


「何?」


「……ちょっと嫌だったのかも?」


自分で言ってみる。


妙にしっくり来たような、来ないような。


佳乃は数秒、何も言わなかった。


「私に聞かないでよ」


「だよね」


優が笑う。


でも佳乃は笑わなかった。


「嫌なら嫌って言っていいんだからね」


「うん」


「笑って返さなくてもいいし」


「うん」


「先輩だからって気使わなくていいし」


「分かったって」


「ほんとに?」


「お母さんみたい」


「誰がお母さんよ」


ようやく佳乃の表情が少し緩んだ。


優はまた枕へ顔を埋める。


「でも楽しかったよ」


「そう」


「美緒めっちゃ酔ってたし」


「それ楽しいの?」


「面白かった」


「性格悪」


「亮介もいたし」


佳乃の視線が、また少しだけ優へ向く。


「……その男の子とは仲いいの?」


優が顔を上げる。


「普通に」


「ふーん」


「何」


「別に」


佳乃はもうノートを見ている。


優はその横顔を数秒見た。


「お姉ちゃん」


「何」


「怒ってる?」


「怒ってない」


「ほんと?」


「ほんと」


「じゃあ何」


「何でもない」


優は少し首を傾げた。


それ以上は聞かなかった。


「眠い」


「風呂入って」


「五分休む」


「絶対寝る」


「寝ない」


返事をしながら、もう目を閉じる。


「ゆう」


「起きてる」


「寝てんじゃん」


「起きてるって」


声が半分眠っていた。


佳乃はため息をついた。

追い出そうと一度腰を浮かせたものの、結局そのまま椅子へ座り直した。


少し前まで読んでいた文字が、うまく頭へ入ってこない。


知らない男が優を欲しがった。

それが妙に引っかかる。

優がその話を、自分へ持ち帰ってきた。

それは少し嬉しかった。

それから、亮介という知らない男の名前にも引っかかった。

佳乃は眉を寄せた。

どれも、うまく説明できない。


大切な妹があんなふうに見られたら、そりゃ嫌だろう。多分、それだけだ。

机の上の文字へ目を戻す。


一行読む。


もう一度、同じところを読む。


頭に入ってこなかった。


佳乃は小さく息を吐いて、後ろを振り返った。


優はもう眠っていた。


さっきまで二十人以上の人間に囲まれて、笑って、誰かに見られて、誰かの欲をかわしていたらしい子が。


今は佳乃のベッドを半分占領して、何の警戒もなく眠っている。


佳乃はしばらくその顔を見た。


「風呂……」


起こそうとした声が途中で弱くなる。


結局、もう少しだけそのままにしておくことにした。


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