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第十五話 しらないから

四月。


優が大学へ通い始めて、一週間ほど経った。


「今日、一限?」

朝のキッチンでパンを齧りながら、佳乃が聞いた。


「二限」

優はテーブルに頬杖をつき、まだ半分眠そうな目でスマートフォンを眺めている。薄いパーカーにデニム。制服ではないし、鞄も高校のときとは違う。


毎朝見ているうちに慣れてきたけれど、ときどき佳乃はまだ少しだけ変な感じがした。

「いいな、大学」


「最高」


「一限ある日もあるでしょ」


「知らない」


「時間割見なよ」


「見たら一限が存在することになる」


「もう存在してるよ」


優は何も聞かなかったような顔で、残りのパンを口に入れた。

佳乃も牛乳を飲む。足元には、もう出かけるためのバッグが置いてある。


「お姉ちゃんは?」


「今日スクーリング」


「何時?」


「九時」


優が時計を見て、少しだけ目を開く。


「じゃあもう出るじゃん」


「うん」


「早」


「だから昨日早く寝た」


「十二時だったじゃん」


「最近の中では早い」


優の視線が、時計から佳乃へ戻った。

「最近の中では?」


佳乃は椅子を引いて立ち上がる。

「行ってきます」


「逃げた」


「遅れるから」


「まだ八時前じゃん」


「電車あるの」


「はいはい」


バッグを肩へかけて玄関へ向かうと、少しして優が後ろから顔を出した。

「お姉ちゃん」


「何」


「今日も巻くやつ?」


「今日はカットもやる」


「切るの?」


「ウィッグね」


「私じゃないの?」


佳乃は靴を履く手を止め、振り返った。

「何であんた切るの」


「最近ずっと顔貸してって言われるから。そのうち頭も取られるのかなって」


佳乃の口元が引きつる。

「ホラーじゃん」


優は満足そうに笑った。

「いってらっしゃい」


「うん。いってきます」


ドアを開けると、四月の朝の空気が入ってきた。二月に初めてスクーリングへ向かった頃より、ずっと暖かい。

佳乃はそのまま一人で外へ出た。


学校へ行く朝、玄関で何分も立ち止まることは、いつの間にかなくなっていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


実習室では、佳乃の机にウィッグと道具が並んでいた。


授業が始まるまで、あと十分。


佳乃はその横でノートを開き、前回書いたページを見直していた。毛束を取る位置、コームの角度、手首の向き。その横には、自分で描いた小さな図がある。


さらにページの端には、


『顔周り 頬骨との位置』

『横から見たとき』

『光 上/横』


授業とは直接関係のない文字まで増えていた。


「橘さん」


呼ばれて顔を上げると、講師が立っていた。


「はい」


「それ、前回の?」


「はい」


講師の視線がノートへ落ちる。


「見てもいい?」


「どうぞ」


佳乃が少し身体をずらすと、講師は机の横からページをめくった。

ワインディング、カット、毛髪。


そこまでは授業の範囲だった。


さらに一枚めくると、

色彩。顔の骨格。撮影用の照明。

前回、優のコスメ撮影から考えたことも残っている。


『主役を決める。全部を強くしない』


『最初に見てほしい場所』


講師の指が止まった。


「これ、授業でやったっけ」


「どれですか?」


「照明」


「あ、それはやってないです」


「だよね」


さらにページをめくる。


「これも?」


「それも違います」


「肌の反射?」


「はい」


「どこで習ったの?」


「習ってないです」


講師が顔を上げる。


「じゃあ何?」


佳乃も講師を見る。

一瞬、質問の意味が分からなかった。


「……気になったので」


「自分で?」


「はい」


「これも?」


「はい」


「こっちの色彩も?」


「それは学校の教材にも少しあります。でも、分からないところがあったので別で調べました」


講師はまたノートへ目を落とした。

余白まで埋まった文字。矢印。小さな図。疑問符。


「国家試験には、ここまで出ないよ」


「あ」

佳乃が瞬きをする。


「はい」


「知ってる?」


「一応」


「じゃあ、試験対策?」


「いえ」


今度は考える間もなかった。

講師が少し眉を上げる。

佳乃はその反応を見てから、ようやく自分でも考えた。


「試験のためじゃないです」


「じゃあ、何のため?」


「何の……」


言葉が止まる。

ノートへ視線を落とす。

光。色。髪。肌。

優の写真。

久世のメイク。

撮影で見たものと、そのとき分からなかったもの。


一つずつ思い浮かべても、立派な理由にはならなかった。


「……知らなかったので」


講師が少し黙った。


「知らないから?」


「はい」


「調べた?」


「はい」


佳乃には、それ以外の答えが思いつかなかった。

講師はしばらくノートを眺めていたが、やがて小さく頷いた。


「そっか」


ページを元へ戻す。


「でも、国試の勉強もしてね」


「あ、それはやってます」


「ならいいけど」


講師はわずかに笑って、別の机へ向かった。

佳乃はノートを引き寄せる。

照明について書いたページは、まだ途中だった。

少し考えて、余白へ新しく書き足す。


『背景色でも変わる?』


書き終えたところで開始の声がかかり、佳乃は慌ててノートを閉じた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


今日の実習はカットだった。

講師の説明を聞きながら、佳乃はウィッグの髪を分けていく。

以前より、手が止まらない。

コームを入れ、指で毛束を挟み、ハサミを動かす。

最初の一束。


次、もう一束。


「橘さん」


「はい」


講師が横へ来て、佳乃の手元を覗いた。


「そこ、もう少し引き出す角度揃えて」


「あ」


言われて、自分の指を見る。

確かに、ほんの少しだけ違う。

「こうですか?」


「そう」


「はい」


次の毛束を取る。

今度は、自分で角度を確認してから切った。その次も同じように進める。

講師はもう何も言わない。


少し経ったところで、今度は佳乃の方から手を止めた。


「先生」


「ん?」


「ここ」


講師が戻ってくる。


「さっきと同じ角度で引いてるんですけど、こっちだけ長く見えるのって何でですか?」


「頭の丸みがあるから」


「でもこの位置だと、さっきより……」


ウィッグを少し回して見せる。

講師も角度を変えて確認した。


「ああ。そこなら、引き出す方向もあるね」


「方向?」


「真横じゃなくて、少し後ろに引いてる」


佳乃は自分の手を見る。

さっきの動きを、ゆっくりもう一度繰り返してみる。


「あ」


指の位置が、ほんの少し後ろへ流れていた。


「分かった?」


「はい」


反射的にノートへ手を伸ばす。


「今書くの?」


佳乃の手が止まった。


「忘れるので」


「切ってからでいいよ」


「あ、はい」


少し恥ずかしくなって、佳乃は笑いながらハサミへ戻った。

同じところを、もう一度。

今度は揃う。


切り口を見た瞬間、佳乃の口元に笑みが浮かんだ。

ただ、それを眺めていたのはほんの数秒だった。

すぐ隣の毛束が目に入る。


「先生」


「今度は何?」


「ここは?」


講師が思わず笑う。


「一個ずつね」


「……はい」


佳乃もつられて笑った。


楽しかった。


分からなかったものにも理由がある。

聞けば、さっきより少し見える。

自分でやって、違って、直す。

もう一度やれば、今度はできる。


成功したことそのものより、どうしてできたのかが分かる瞬間の方が嬉しかった。

次はどこだろう。

佳乃の視線は、もうウィッグの別の場所を探していた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


昼休み。


以前、隣に座った女の子が佳乃の机へやってきた。


「橘さん」


「ん?」


「これ聞いていいですか?」


差し出されたのはウィッグだった。


「ここ、左右で長さ変になっちゃって」


佳乃は一瞬、自分を指差す。


「私?」


「うん」


「先生じゃなくて?」


「今向こういるから」


「私もまだ全然だよ」


「でも今日めっちゃ聞いてたじゃん」


「聞いてただけ」


「でも、私より分かってそうだから……」


そこまで言われて、佳乃は少し困った顔のままウィッグを受け取った。

右。

左。


毛先を指で揃える。


「……多分」


「うん」


「ここ取るとき、こっちだけ後ろに引いてるかも」


「え?」


「私さっき同じことやった」


佳乃が実際に毛束を取って見せる。


「こうすると、こっち長く見えた」


女の子も真似をする。


「あ」


「で、こっちに……」


説明しながら、自分でもさっき習ったことをもう一度確かめる。

人に言葉で伝えてみると、自分一人で手を動かしていたときとは少し違った。


どこまで理解できていて、どこからはまだ感覚でしか分かっていないのか。

その境目が見える。


「こう?」


「うん。多分」


女の子が切り終え、鏡で左右を見る。

「あ、できた」


佳乃も横から覗く。

さっきより揃っている。


「ほんとだ」


「よかった」


女の子が笑顔になる。


「ありがとう」


「いや、先生にも確認してね」


「真面目だね」


「……間違ってたら嫌だから」


「橘さん、結構そういうタイプなんだ」

佳乃の表情が少し止まった。


「え」


「細かいっていうか。ちゃんとしてる」


急に話題が自分へ向いた。

さっきまでなら勝手に出ていた言葉が、そこで途切れる。

技術のことなら、聞かれたことを見て答えればいい。

でも、自分がどういう人間なのかと言われると、何を返せば正しいのか分からなかった。


女の子の顔を見る。

悪い意味ではなさそうだった。


「……そうかな」


「褒めてます」


「あ、うん。ありがとう」


言ってから、少し変な返しだった気がした。

佳乃は自分の手元へ視線を落とす。

けれど相手は何も気にした様子がなく、


「先生にも見てもらってきます」


とウィッグを抱えて戻っていった。

佳乃はその背中を少しだけ見送る。

胸の奥に残った小さな居心地の悪さは、すぐには消えなかった。


さっき教えたところを思い出して、ノートを開く。


『人に説明すると曖昧なところ分かる』


一行書き加える。


その文字を見ているうちに、口元が少しだけ緩んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


夕方。


「ただいまー」


優が佳乃の部屋を覗いた。

返事がない。


「お姉ちゃん?」


机には教材とノート、化粧品、スマートフォンまで出ているのに、本人だけがいない。

優が部屋の中を見回していると、洗面所の方から足音が聞こえた。


「ゆう」


佳乃が何かを手に戻ってくる。

優の眉が上がる。


「いた」


佳乃は優の顔を見るなり、持っていたものを抱え直した。目が少し輝く。

「ちょうどいい」


「何が」


「顔貸して」


優の表情がすっと消えた。


「ただいま」


「おかえり」


「顔貸してって何」


「座って」


「嫌な予感しかしない」


「いいから」


「何するの?」


「試す」


「何を?」


「色々」


優が一歩だけ後ろへ引く。


「一番怖い答え」

文句は言いながらも、結局いつもの椅子へ座った。


佳乃が後ろへ回り、優の髪をまとめる。


「今日は何?」


「この前の」


「どの前?」


「コスメ撮影」


「ああ」


佳乃は優の前へ戻ると、顔をじっと見る。


佳乃は正面から優の顔を見たあと、少し横へ回る。頬から顎の線を追って、また正面へ戻った。


「お姉ちゃん」


「動かないで」


「まだ何もしてないけど」


「見てる」


「何を」


「顔」


優が少し眉を寄せる。


「あるよ」


「そういう意味じゃない」


「知ってる」


優は諦めたように口を閉じた。

佳乃はパレットを開く。

薄い色を取り、目元、頬、リップへ順番に乗せていく。


「目閉じて」


「はい」


ブラシが動く。

久世ほどではないけれど、それでも以前より明らかに手が速くなっていた。

一つ塗るたびに鏡へ戻って長く考えることも減っている。


頭の中にある程度、次が見えている。

佳乃は一度離れた。


「開けて」


優が目を開ける。

佳乃はその顔を確かめ、すぐスマートフォンを取った。

一枚。


「次」


「もう?」


「うん」


目元を少しだけ変える。

また撮る。

リップは同じ。


「もう一回」


優が鏡を見ながら首を傾げる。


「何が違うの?」


「目」


「分かんない」


「分かんなくていい」


「じゃ何で聞いたの」


「聞いてない」


「会話難しい」


佳乃は返事もせず、二枚の写真を並べた。

画面を行き来する指が、途中で止まる。


「……こっち」


「どっち」


「二枚目」


「何で?」


「先に口見る」


優も横から画面を覗く。

しばらく二枚を見比べて、


「どっちも私」


佳乃が顔を上げた。


「それはそう」


「じゃ成功」


「違う」


「難しいなあ」


佳乃はもう次を考えていた。

優の髪を下ろし、今度は片側だけ耳へかける。

写真。

両方下ろす。

また写真。


「……変わる」


「髪変えたんだから変わるでしょ」


「どれくらい変わるか見たいの」


「へえ」


優の返事が少しずつ雑になっていく。


佳乃はまったく気づかない。


次に気になったのは服の襟だった。


優のパーカーを見る。


「これ邪魔」


「服に悪口言わないで」


「首見えない」


「寒いから」


「ちょっと脱いで」


優が即座にパーカーの襟を掴む。


「嫌だよ」


「中何着てる?」


「Tシャツ」


「じゃいいじゃん」


「何が」


数分後。


優はTシャツ姿で椅子に座っていた。

両腕を擦りながら、恨めしそうに佳乃を見る。


「寒い」


「暖房上げる?」


「服返して」


「あとで」


「横暴」


佳乃は笑いながら写真を撮った。

今度は、その後ろが気になった。


机の前。

白い壁。

カーテンの横。

優を見て、背景を見て、また優を見る。


「ゆう、こっち」


「まだ移動するの?」


「光違うから」


「何時までやる?」


佳乃が時計を見る。


六時十分。


「ちょっとだけ」


優の眉が下がり、口元まで露骨に嫌そうな形になる。


「その顔やめて」


「素です」


「今はいらない」


「ひどい」


佳乃は声を立てて笑った。

窓際へ優を立たせる。

夕方の自然光に、室内灯。

スマートフォンを構える。

一枚。


「……あ」


画面を見た佳乃の目が、少し大きくなる。


「何?」


「待って」


もう一枚。

今度はカーテンを少し閉めてから撮る。

佳乃は二枚を交互に見た。


「全然違う」


「暗くなったからじゃない?」


「それだけじゃない」


画面を拡大する。


肌、頬、最後に唇。


「こっちだと青く見える」


「何が」


「リップ」


優が画面を見て、怪訝そうな顔をする。


「赤じゃん」


「赤にも色々あるの!」


「出た」


「何が」


「色にうるさい人」


佳乃はもう聞いていない。

スマートフォンを机へ置き、ノートを開いた。


『自然光 夕方 青み?』


書いたところで、ペン先が止まる。


「いや、時間も関係あるか」


今度はスマートフォンで検索を始める。

優が椅子から立った。


「終わった?」


「待って」


「ご飯」


「あとちょっと」


「お腹すいた」


「私も」


「じゃ食べようよ」


佳乃は画面から目を離さない。


「これだけ」


優が大きく息を吐いた。


「何が分かったら終わりなの?」


佳乃の指が止まった。


「え?」


「ずっと何か調べてるじゃん」


「今は光」


「その前、髪」


「うん」


「その前、目」


「うん」


「終わんなくない?」


佳乃は初めて机の上全体を見た。


写真。

ノート。

化粧品。

開いたままの検索画面。


自分でも少し考える。


「……分かんない」


「ほら」


「違う」


「何が」


「分かんないところが分かれば終わる」


優が数秒、何も言わなかった。

やがて視線だけをノートへ落とす。


「それ、増えてない?」


佳乃もノートを見る。

一つ分かった横には、いつの間にか新しい疑問符が増えている。

答えを書いたその下にも、別の矢印が伸びていた。


「……増える」


自分で言って、少し笑ってしまう。

優も呆れたように笑った。


「ダメじゃん」


「何で」


「終わらないから」


「それは困る」


言いながら、佳乃の顔はあまり困っていなかった。


「ご飯食べよ」


「うん」


ようやくスマートフォンを伏せる。

優がすぐに手を出した。


「服返して」


佳乃がパーカーを見る。


「あ、ごめん」


「忘れてたでしょ」


「ちょっと」


「最低」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


夕食を食べて、風呂へ入った。

少しだけテレビも見た。

優が自分の部屋へ戻ったあと、佳乃も一度はベッドへ入った。


十一時半。

目を閉じる。

五分。

十分。


「……」


また目を開けた。


夕方に撮った写真が浮かぶ。


カーテン。

窓からの光。

同じリップ。


それなのに青く見えた色。


——何で。


佳乃は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。

一つ検索する。

色温度。


その中に、また知らない言葉が出てくる。


自然光。

照明。

ホワイトバランス。


意味を確認するために別のページを開き、そこからさらに別の解説へ飛ぶ。


「……」


佳乃は布団の中で少しだけ画面を読んでいたが、やがて身体を起こした。

机へ移る。

ノートを開く。


『色温度』


書く。

その下に意味をまとめて、さらに矢印を伸ばす。


『撮影だと?』


調べる。


今度は写真。

そこからカメラ。

背景。

一時間前までリップの見え方を調べていたはずなのに、気づけば照明の記事を読み込んでいた。


光の角度によって、顔に落ちる影が変わる。

髪の見え方も変わる。

骨格まで違って見える。


「……これ」


佳乃の手が止まった。

前に久世が作った、二つ目のルックを思い出す。

あのときの頬。


目元の陰影。


自分が作ったものより、大人っぽく見えた顔。


あれはメイクだけではなかったのかもしれない。

佳乃は新しく一行書く。

また検索する。

分からない。

だから次を読む。

少し分かる。


すると、その説明の中にまた気になる言葉がある。


もう一つ開く。


佳乃はいつの間にか笑っていた。

誰もいない部屋で、一人きりなのに。

今まで別々に置かれていたものが、頭の中で少しずつ繋がっていく。


色と肌。

光と影。

髪と顔。


どれか一つだけで決まるわけではない。

組み合わせれば、同じ顔でも見え方が変わる。


「……面白」


口から勝手に漏れた。


すぐ次のページを開いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


廊下へ出た優は、佳乃の部屋の前で足を止めた。


ドアの下から、まだ明かりが漏れている。

時計を見る。

午前一時三十二分。

トイレへ行き、戻ってくる。

まだ消えていない。

優はドアを開けた。


「お姉ちゃん」


「ん?」


佳乃が振り返る。

少し眠たそうな顔をしているのに、目だけは妙に明るい。


「何してんの」


「これ見て」


「何」


「さっきのリップ」


優の顔が露骨に曇った。


「まだやってんの?」


「違う。今は光」


「もっと分かんない」


佳乃は構わずスマートフォンの画面を向ける。


「同じ色でも、光の色で全然変わって見えるの。だから今日窓で撮ったやつ、青く見えたのも多分――」


優は説明より、佳乃の顔をしばらく見ていた。


「お姉ちゃん」


「何?」


「今何時だと思う?」


佳乃の声が止まる。

画面から目を離した。


「十二時くらい?」


優は何も言わず、壁の時計を指した。


一時三十二分。


佳乃が時計を見る。

数秒、そのまま固まる。


「……え」


眉が上がった。


「もうそんな時間?」


「もうそんな時間」


「嘘」


「時計に言って」


佳乃は今度はスマートフォンの時刻を見る。


間違いなく同じだった。


「……ほんとだ」


優の目が机へ移る。


教材。

ノート。

写真。

スマートフォン。


夕方にはなかった紙まで増えている。


「いつからやってたの?」


「え」


佳乃は視線を彷徨わせた。


「十一時……半?」


「寝るって言ってたじゃん」


「寝ようとはした」


「失敗してる」


「ちょっと気になって」


優がノートを見る。


「ちょっと?」


佳乃も同じものを見る。


三ページくらい増えていた。


「……ちょっとじゃなかった」


自分でも可笑しくなったのか、少し笑う。


優は笑わず、小さく息を吐いた。


怒っているわけではなさそうだった。ただ、眠そうだった眉が少しだけ下がっている。


「寝なよ」


佳乃はもう一度、開いている画面を見る。


あと一つだけ。


そう言いかけて、口を閉じた。


優がまだドアのところに立っている。


多分、トイレに起きただけなのに。


「……うん」


ブラウザを閉じる。


ノートも閉じた。


それを見て、優の目が少し丸くなる。


「素直」


「何」


「もっと『あとちょっと』って言うかと思った」


「言おうと思った」


「思ったんだ」


「でも明日もあるし」


「えらい」


「子ども扱いしないで」


「じゃ、おやすみ」


優がドアへ向かう。


「ゆう」


「何」


「明日もう一回顔貸して」


優の足が止まった。


ゆっくり振り返る。


「寝るんじゃないの?」


「明日」


「……覚えてたらね」


「私が覚えてる」


優の顔が嫌そうに歪む。


「最悪」


佳乃が笑う。

優も少しだけ笑って、部屋を出ていった。

佳乃は電気を消し、布団へ入る。

目を閉じると、明日試したいことがいくつか浮かんだ。


少しだけ続きを考えて、今日はそのまま眠った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌朝。


優が大学へ行く時間になっても、佳乃は起きなかった。


「お姉ちゃん」


反応がない。

ベッドへ近づくと、佳乃は布団の中にほとんど埋まっている。


「学校は?」


少しして、布団の奥から声だけ返ってきた。


「今日ない……」


「何時起きる?」


「……知らない」


優の口元が緩む。


「午後の佳乃さん?」


数秒。


「よろしく言っといて……」


優が吹き出した。


「はーい」


そのまま部屋を出ようとして、机の前で一度足を止めた。

昨日のノートが開いたままになっている。


学校のこと、少し先にはメイク。

さらにページを送ると、写真、光、色。


優には半分も意味の分からない文字が、隙間なく並んでいる。

昨夜見たときより、改めて朝見る方が量が分かった。


夕方から何かやって途中でご飯を食べて、風呂へ入って。


それからまた始めて、一時半まで。


優の眉が少し上がる。


「……めっちゃやってるじゃん」


小さく呟いた。


ベッドから返事はない。


優はノートには触れず、そのまま部屋を出た。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


佳乃が起きたのは、昼を過ぎてからだった。

顔を洗って、ぼさぼさの髪のままリビングへ下りる。水を飲んで、冷蔵庫を開け、適当に何かを食べた。


午後一時半。

部屋へ戻る。


机には昨日のノートがある。

椅子へ座り、最後に書いたページを開く。


色温度。


その下には、まだ答えのない疑問符。

佳乃の口元が少しだけ緩んだ。


スマートフォンを見ると、優からメッセージが来ている。


『起きた?』


『今』


返すと、すぐ既読になった。


『昨日何時間やってたの』


佳乃の指が止まる。少し考える。


スクーリングから帰ったのが夕方。

それから優の顔を借りて、夕食を食べて、風呂へ入った。

夜、一度は寝ようとした。

そこからまた調べ始めて――。


数えてみようとして、途中で分からなくなる。


「……何時間?」


『知らない』


送る。


『こわ』


『そんなやってないよ』


ほとんど間を置かずに返ってきた。


『やってたよ』


佳乃はノートを見る。

昨日より、確かにページは増えている。

それでも、自分ではあまり勉強をしたという感じがしなかった。

試験問題を何時間も解いたわけではない。

誰かに課題として出されたわけでもない。


ただ、分からなかった。


だから調べた。

一つ分かると、その先に別の分からないものが出てきた。

だから、それも調べただけ。


佳乃は文字を打つ。


『知らないから調べてただけ』


送る。


少しして、

『それをやってるって言うんじゃないの』

佳乃は画面をしばらく見た。


「……そうなの?」


誰もいない部屋で呟く。


少し考えて。


結局、笑った。


スマートフォンを机へ置く。

昨日、最後まで分からなかったことが一つ残っている。

佳乃はペンを取った。


まずは、それから調べようと思った。

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