第十三話 卒業式
三月十二日。
朝から、佳乃は鏡の前にいた。一度結んだ髪をほどいて、またまとめる。少し眺めて、違う気がして、またほどく。
「お姉ちゃん」
ベッドの上から優の声がした。
「何」
「まだ?」
「もうちょっと」
「さっきも聞いた」
「だからもうちょっと」
優は制服姿だった。紺のブレザーにスカート、胸元にはいつものリボン。
三年間着てきた制服なのだろうけれど、佳乃にはそれほど見慣れている感じがしなかった。
この一年、朝に優が学校へ出るところを見ることはあっても、帰ってきた頃には自分の部屋に閉じこもっていた日も多かった。
「それ、何回目?」
優が聞く。
「何が」
「髪」
「二回」
「五回くらいやってない?」
「やってない」
「やってるよ」
佳乃は鏡越しに睨んだ。
「人の学校行くんだから、ちゃんとした方がいいでしょ」
「私いつも行ってるけど」
「あんたは生徒だから」
「お姉ちゃんも別に面接じゃないよ」
「分かってる」
優が笑った。
「でも、もうそれでよくない?」
「ほんと?」
「うん」
佳乃が振り返る。
「適当に言ってない?」
「言ってない」
「じゃあどこがいいの」
優は佳乃を上から下まで見る。少し考えてから言った。
「ちゃんとしてる」
「何それ」
「ちゃんとしてる人に見える」
「普段ちゃんとしてないみたいじゃん」
「家ではね」
「うるさい」
優が笑う。
「大丈夫だって。変じゃないから」
今度は、さっきより少しだけ迷いのない言い方だった。
佳乃はもう一度鏡を見て髪に触れかけ、やめた。
結局、そのままにした。
ベージュのコートに、中は黒のワンピース。派手ではないけれど、普段より少しだけちゃんとしている。
優が立ち上がる。
「じゃ、行こ」
「待って」
「今度何」
「リップ」
「まだあった」
「うるさい」
佳乃がポーチへ手を伸ばしたところで、優のスマートフォンが震えた。
「あ」
画面を見る。
「お母さん」
メッセージだった。
『卒業おめでとう。今日行けなくてごめんね。夜には帰れると思います。写真いっぱい撮ってきてね』
その少し上には父からも来ている。
『卒業おめでとう。帰ったら何か食べに行こう』
佳乃も覗く。
「お父さん今日も無理なんだ」
「そうみたい」
優はそのまま、
『ありがとー』
とだけ返した。
佳乃も何も言わなかった。
「写真送れって」
「撮れば?」
「お姉ちゃん撮って」
「いいよ」
「盛ってね」
「素材が悪かったら無理」
「ひど」
優が笑う。
いつもの朝だった。
少しだけ服が違って、少しだけ予定が特別なだけ。
二人で家を出た。
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学校へ着くと、校門の前にはもう人が多かった。
制服、スーツ、コート、花束。立て看板の前では、家族が並んで写真を撮っている。
「もうちょい右!」
「そこ!」
「笑って!」
あちこちから声が聞こえる。
優が、
「人多」
と呟いた。
「卒業式なんだから当たり前でしょ」
「こんないると思わなかった」
「全校いるんだから」
「そっか」
優は校門を見る。
三年間通った学校。
何か感慨深そうな顔をするかと思ったけれど、
「あとであそこで撮ろ」
それだけだった。
「今撮らないの?」
「混んでる」
「珍しく合理的」
「いつも合理的だよ」
「どこが」
「そこそこ」
昇降口が近づく。
卒業生と保護者の入口が分かれていた。
「じゃ、ここ?」
佳乃が立ち止まる。
「うん」
優も止まった。
一瞬だけ、二人で顔を見る。
「終わったら連絡する」
「うん」
「寝ないでね」
「寝ないよ」
「式長いよ」
「知ってる」
優は一度、佳乃の顔を見た。
「......飽きたら帰っていいから」
佳乃が眉を寄せて言う。
「帰んないよ」
「別にいいのに」
「何しに来たと思ってるの」
優が少し笑った。
それから卒業生の入口の方へ二、三歩、小走りに離れていく。
途中でくるりと振り返った。黒い髪が、その動きに遅れて揺れる。
「じゃ、見てて」
さっきより少しだけ声が弾んでいた。
佳乃が瞬きをする。
「何を」
「卒業するとこ」
優は嬉しそうに笑う。
「そこしかないでしょ」
「じゃ、あとで!」
今度こそ優は背を向け、校舎の方へ駆けていった。
その途中。
「優ー!」
声が飛んだ。
優が振り返る。
「あ、待って!」
同じ制服の女の子が二人、走ってくる。
優は佳乃へ一度だけ手を振った。
「あとで!」
「うん」
すぐに三人で何かを話し始める。
佳乃はその姿を少しだけ見てから、保護者入口へ向かった。
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体育館。
並べられたパイプ椅子。壇上。校旗。紅白の幕。
前方には卒業生の席があり、後ろに保護者席が並んでいる。
佳乃は体育館をぐるっと見渡してから、空いている椅子へ座った。
隣には夫婦らしい男女。その向こうにも、母親、父親、祖父母らしい人たちがいる。
一人で来ている自分が、少しだけ浮いているような気がした。
でも、誰も見ていない。
当然だった。
佳乃は膝の上でプログラムを開く。
卒業証書授与。校長式辞。送辞。答辞。校歌。
見慣れない学校のものなのに、その並びだけは知っている。
たぶん自分の高校も同じようなものだった。
佳乃は一度だけ息を吸った。
ざわついていた体育館が静かになる。
卒業生が入場してきた。
一列、また一列。
佳乃は自然に優を探した。
すぐ見つかった。
小さい。
周りより頭一つ低いほどではないけれど、それでもすぐ分かる。
顔を上げて歩いている。
いつもの優だった。
少し前の生徒がつまずきかけて、優の口元が少し動く。
笑うのを堪えている。
佳乃も少しだけ笑った。
優がこちらを見た。
ほんの一瞬、目が合った。
優の眉が少し上がる。
それだけで、手は振らない。
すぐ前を向いた。
佳乃はその横顔を見送った。
式が始まり、一人ずつ名前が呼ばれる。
生徒が卒業証書を受け取り、拍手が起こる。
同じことが繰り返される。
佳乃は途中から、壇上よりも卒業生たちの背中を見ていた。
制服。卒業証書。胸元の花。
自分にも、同じ日があったはずだった。
たった一年前。
自分のクラスメイトも、こうやって座っていた。
自分の名前も呼ばれたのだろうか。
いや、欠席だったから呼ばれなかったのかもしれない。
分からない。
卒業証書は、後から受け取った。
式のあと、学校へ行ったわけでもなかった。
家に届いた封筒。
その中に、卒業したことを証明する紙が入っていた。
それだけだった。
写真もない。
花束もない。
先生と話した記憶も、友達と制服姿で笑った写真もない。
佳乃は膝の上のプログラムを見る。
胸の奥に、昔の傷へ指を触れたときのような感覚があった。
痛い。
でも、前ほど鋭くはなかった。
「橘優」
名前が呼ばれた。
佳乃の顔が上がる。
優が立つ。
壇上へ向かう。
「はい」
体育館へ声が通った。
卒業証書を受け取り、頭を下げて、顔を上げる。
ただそれだけ。
佳乃は、ちゃんと見ていた。
自分の卒業式には、いなかった。
でも今日は、ここにいる。
優が卒業証書を持って席へ戻るまで、佳乃は目を逸らさなかった。
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式が終わり、体育館を出る。
廊下も校舎も、あちこちで声がしていた。
「写真撮ろ!」
「先生どこ?」
「寄せ書きして!」
「待って待って!」
佳乃は校舎の外へ出た。
優から、
『ちょっとかかる』
と来ている。
『了解』
と返した。
そのまま校門近くで待つ。
周囲には、親と写真を撮る生徒。母親から花束を受け取る子。父親に肩を組まれて、露骨に嫌そうな顔をする男子。
「ほら、笑って!」
少し離れたところから声が飛ぶ。
佳乃はそんな様子を眺めながら、スマートフォンを弄った。
十分。
二十分。
三十分。
「お姉ちゃん!」
顔を上げると、優がいた。
卒業証書の筒を片手に持って、その後ろから男女五人ほどがついてくる。
「え」
思わず佳乃の身体が固まった。
優の隣を歩いていた髪の短い女の子が、佳乃を見る。
「誰?」
「姉」
優が答える。
「え、お姉ちゃん!?」
今度は全員の視線が佳乃へ向いた。
「初めまして」
反射的に頭を下げる。
「橘佳乃です」
一瞬の間。
それから、後ろにいた男子が吹き出した。
「丁寧!」
「優と全然違う」
短髪の女の子も笑う。
「何が?」
優が振り返る。
「雰囲気」
「似てない?」
「顔は全然違うでしょ」
別の女の子が佳乃と優を交互に見る。
「でも姉妹なんだ」
「義理だけどね」
優がいつもの調子で言う。
「あ、そうなんだ」
誰もそれ以上は聞かなかった。
「てか写真撮ろ!」
後ろの男子が優の肩を叩く。
「さっき撮ったじゃん」
「全員のない!」
「えー」
「モデルなんだからセンター行け!」
「やだよ」
「行け!」
背中を押されて、優が数歩よろける。
「お姉ちゃん、ちょっと待ってて」
「うん」
そう答えたところで、優からスマートフォンを渡された。
「あ、撮る?」
「お願い」
「お願いします!」
短髪の女の子がすぐに頭を下げる。
別の子が、
「お姉ちゃん写真上手そう」
と言った。
「何で?」
「メイク好きだからじゃない?」
優が笑う。
「関係ないでしょ!」
佳乃もつられて笑いながら、カメラを構えた。
五人が並ぶ。
優は当然のように端へ入ろうとする。
「優、真ん中!」
「嫌だって」
「モデルなんだから!」
「関係ないじゃん」
短髪の女の子に腕を引かれ、結局真ん中へ押し込まれる。
右隣の子が優の肩へ腕を回した。
優もそのまま、反対側にいる子の頭へ腕を乗せる。
「はい、撮るよ」
佳乃がスマートフォンを構える。
「三、二、一」
カシャ。
「もう一枚!」
「優、ちゃんと笑え!」
「笑ってるじゃん」
「モデル顔すんな!」
「してないし!」
「もっと盛れ!」
「元がいいので」
「うざ!」
一斉に笑い声が上がった。
優も堪えきれずに笑う。
佳乃はその瞬間に、もう一度シャッターを押した。
カシャ。
画面の中で、優は隣の女の子に寄りかかるように笑っていた。
家で見る優とは、少し違う。
普段より口調は雑で、遠慮なく人に触れて、向こうから触れられても気にしない。
でも別人には見えなかった。
ここにも、ちゃんと優がいた。
「ありがとうございます!」
スマートフォンを返す。
「優、あとで送って!」
「誰かグループに投げて」
「お前が撮ったやつだろ!」
「めんどい」
「最後くらいやれ!」
またみんなが笑った。
そこへ
「優」
今度は別の声。
少し離れたところに、女の子が一人立っていた。
「ちょっといい?」
「あ、うん」
優がそちらへ行く。
さっきまでの集団から離れる。
佳乃は何となく見ていた。
女の子は笑っているけれど、少しだけ目が赤かった。
「大学行ってもさ」
「うん」
「連絡していい?」
優が首を傾げる。
「何で聞くの」
「忙しくなりそうじゃん」
「普通にしてよ」
「モデルとかやってるし」
「まだ二回くらいしかやってないよ」
「でもこの前サイト出てたじゃん」
「あれ見た?」
「見たよ」
少し沈黙があって、女の子が言った。
「前もありがとね」
「何が?」
「二学期くらいの」
優が少し考える。
「……何だっけ」
「忘れてんの?」
女の子が笑う。
「進路のとき」
「ああ」
「めっちゃ話聞いてくれたじゃん」
「そうだっけ」
「最低」
「ごめん」
優も笑っている。
でも、さっきとは少し違った。
声が少し柔らかい。
相手の話を遮らない。
自分からふざけすぎない。
「まあでも」
優が言う。
「行きたいとこ決まってよかったじゃん」
「うん」
「じゃ大学でも頑張って」
「優もね」
「頑張る」
「適当」
「頑張るって」
二人で笑う。
女の子が、
「じゃあまたね」
と手を振る。
「うん。また」
優も振る。
その子が去る。
と思ったら
「優ー!」
また呼ばれる。
今度は男子が二人。
「来た来た、モデル!」
「何その呼び方」
「サインください」
「千円」
「取るの?」
「じゃ二千円」
「上がってる!」
優が笑う。
そのまま今度は男子たちに混ざる。
腕を引かれる。
いじられる。
優もやり返す。
佳乃は少し離れた場所から見ていた。
さっき、大勢の真ん中で笑っていた優。
一人の友人の話を静かに聞いていた優。
今は、男子にからかわれて言い返している優。
全部、少しずつ違う。
でも、どれも優だった。
誰かといるたびに別人になるわけじゃない。
ただ、隣にいる人が変われば、声の調子も、言葉の選び方も、立つ場所も少しずつ変わる。
それが不思議なくらい自然だった。
佳乃が一番よく知っているのは、家にいる優だった。
佳乃のベッドへ勝手に潜り込んで、犬の動画を見せて、じゃがりこを食べて、眠くなったらそのまま寝る。
学校でも友達が多いことも、人に好かれることも、昔から分かっていた。
でも、こうして見るのは初めてだった。
佳乃が家から出られなかった一年。
優にはここがあった。
朝起きて学校へ行き、誰かと笑って、話を聞いて、からかわれて、相談されて。
佳乃の知らない時間を、優は毎日生きていた。
当然のことなのに、今さら初めて気づいたみたいだった。
少し、寂しかった。
自分の知らない優が、思っていたよりずっと多かったから。
でも、それ以上に。
——この子。
ちゃんとここにいたんだ。
佳乃が家から出られなかったあいだも、優は優の場所で笑っていた。
誰かに呼ばれて、誰かの話を聞いて、また別の誰かに呼ばれて。
それが、なぜか嬉しかった。
佳乃がいなくても、優には優の生活があった。
胸のどこかが少し離れていくような寂しさと、それを見て安心する気持ちが、同じところにあった。
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「橘さん」
声をかけられた。
佳乃が振り返る。
優の担任らしい男性が立っていた。
「あ、はい」
「優さんのお姉さん?」
「はい」
「今日はご両親は?」
「仕事で」
答えたのは佳乃ではなかった。
戻ってきた優だった。
「来れなかったです」
「ああ……そうか」
先生の方が、少し困ったような顔になる。
「残念だったね」
優は、「そうですか?」と言いかけて、一瞬佳乃を見る。
「まあ、お姉ちゃん来てるんで」
と笑った。
「ああ、そうだね」
先生も笑う。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「大学行っても遅刻するなよ」
「何でみんなそれ言うんですか」
「心当たりあるだろ」
「ないです」
「あるよ」
「ないです」
先生が笑う。
「じゃ、またな」
「はい」
先生が離れていく。
佳乃は横の優を見る。
優はもう、卒業証書の筒を弄っていた。
父も母もいない。
そのことを、本当に特別だと思っていないようだった。
佳乃にとっても、それはずっと普通だった。
忙しい。
仕事。
だから家にいない。
それだけのことだと思っていた。
けれど、さっきの先生の一瞬の表情や、周囲で家族と写真を撮る生徒たちを見ていると、自分たちの普通が、外の普通とは少し違うように見えた。
「お姉ちゃん」
「何」
「アルバム見る?」
「今?」
「暇でしょ」
「暇じゃないけど」
「じゃ見ない?」
「見る」
二人で少し人の少ないところへ移動する。
優が卒業アルバムを開いた。
クラス写真。行事。体育祭。文化祭。修学旅行。
佳乃の知らない優が何人もいる。
友達の隣で変な顔をしている優。
体育祭で鉢巻を巻いている優。
何かを食べている優。
教室の後ろで誰かと笑っている優。
佳乃はページをめくる。
最後のページの寄せ書きには、文字がいっぱいだった。
『大学行っても遊ぼ!』
『寝坊すんな』
『いつも笑わせてくれてありがと』
『相談聞いてくれてありがとう』
『意外と真面目』
『またカラオケ行こう』
『モデル有名になったら自慢する』
『ノート見せてくれてありがとう』
『お前ならどこでもやっていける』
佳乃の動きが止まる。
「意外と真面目って二人書いてる」
「真面目だから」
「“意外と”ね」
「そこいらない」
「三人目あるよ」
「もう読まなくていい」
優がアルバムを閉じようとする。
佳乃が押さえる。
「待って」
「何」
「いっぱい書かれてるね」
「まあね」
「誰が一番仲良かったの?」
優が止まった。
「え?」
「高校で」
「一番?」
「うん」
優は少し考える。
さっきのグループ。
一人で話していた女の子。
男子たち。
他にも、まだ何人もいる。
「……誰だろ」
「分かんないの?」
「みんな仲いいよ」
「それは見れば分かるけど」
「じゃあ分かんない」
優は本当に困っているようではなかった。
「別に一番とかなくない?」
「そういうもん?」
「そういうもんじゃない?」
佳乃はアルバムを見る。
これだけたくさん人がいる。
名前も、言葉も、思い出も。
なのに一人を選べと言われると、優は選ばない。
選べない、ではなく。
選ぶ必要を感じていないようにも見えた。
「お姉ちゃんは?」
「何」
「高校のとき一番仲良かった人」
佳乃の指が止まる。
「……いたよ」
「誰?」
「今度話す」
「ずる」
「今度」
「忘れるよ」
「じゃ忘れて」
「ひど」
二人で笑った。
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また
「優!」
と呼ばれる。
優が顔を上げる。
「行ってくる」
「まだ行くの?」
「最後だから」
「はいはい」
優は走っていった。
佳乃は一人になった。
優が置いていったアルバムが、膝の上に残る。
風が少し吹いて、ページが勝手にめくれた。
集合写真。
優。
次。
また優。
その次は、違う人の隣。
違う顔。
どれもちゃんと楽しそうだった。
佳乃はページを押さえる。
少し離れたところで、優がまた別の誰かと笑っている。
佳乃はそれを見ていた。
嫌ではなかった。
取られたとも思わない。
ただ、自分の知らない優が、思っていたよりたくさんいた。
そのことが少しだけ、寂しかった。
でも、それでいいとも思った。
優には優の世界がある。
自分には、これから自分の世界を作ればいい。
学校。
メイク。
仕事。
まだ全部、途中だけど。
少しずつ。
佳乃はアルバムを閉じた。
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一時間近く経った。
「お姉ちゃん」
佳乃が顔を上げる。
優が戻ってきた。
「終わった?」
「多分」
「また多分」
「まだ呼ばれるかも」
「人気者」
「疲れた」
優はそう言って、佳乃の隣へ座った。
さっきまで、ずっと笑っていた。
話して、走って、写真を撮って。
呼ばれれば、また別のところへ行って。
今、佳乃の隣では肩が少し落ちている。
「水いる?」
「いる」
佳乃がバッグからペットボトルを出す。
「はい」
「ありがと」
優が飲む。
「楽しかった?」
佳乃が聞く。
「うん」
「疲れた?」
「うん」
「どっち」
「両方」
「そういうもんか」
「そういうもん」
優は少しだけ佳乃の肩へ頭を預けた。
佳乃は何も言わなかった。
少ししてから優が顔を上げ、不服そうに言う。
「写真撮ってない」
「いっぱい撮ってたじゃん」
「お姉ちゃんと」
「私?」
「うん」
「別にいいよ」
「何で」
「主役あんただし」
「来たんだから撮ろ」
「どこで」
「校門」
「混んでるでしょ」
「もう減った」
校門を見ると、朝よりずっと人が少ない。
「じゃあ一枚だけ」
「三枚」
「一枚」
「二枚」
「何で交渉なの」
「二枚」
「はいはい」
二人で立ちあがり、校門へ向かう。
そこにいた卒業生の母親らしい女性へ、優が声をかけた。
「すみません、写真お願いしてもいいですか?」
「いいですよ」
スマートフォンを渡す。
優が佳乃の横へ立つ。
少し近い。
「もっと寄って」
女性が言う。
「だって」
優が言う。
「聞こえてる」
佳乃が少し寄る。
優も寄る。
肩が触れる。
「はい、撮りますよー」
カメラを見る。
佳乃は一瞬だけ、去年のことを思った。
自分の卒業式の写真はない。
制服姿も。
卒業証書を持ったものも。
何もない。
でも、今年はここにいる。
優の卒業証書。
優の制服姿。
その隣に、自分もいる。
「はい、笑ってー」
優の肩が少し当たる。
佳乃がそちらを見る。
優はもう笑っていた。
つられて、佳乃も笑う。
カシャ。
「もう一枚いきます」
カシャ。
「ありがとうございます!」
優がスマートフォンを受け取る。
「見る?」
「あとでいい」
「珍しい」
「寒い」
「それね」
二人で歩き出す。
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帰り道。
駅へ向かう。
優は卒業証書とアルバムを持っている。
佳乃は、なぜか花束を持たされている。
「これあんたのでしょ」
「荷物多い」
「私だってバッグあるんだけど」
「お姉ちゃん優しいから」
「返すよ」
「ごめんなさい」
でも優は受け取らない。
佳乃も結局、持っている。
しばらく歩く。
「お父さんもお母さんも来なかったね」
佳乃が言った。
「ね」
優は普通に答えた。
「寂しかった?」
優が少し考える。
本当に、少しだけ。
「……別に」
強がった感じはなかった。
「そっか」
また歩く。
数歩歩いてから、優が前を見たまま言った。
「お姉ちゃんいたし」
佳乃の足が、ほんの少し遅くなる。
優は気づかない。
「何食べる?」
「……今その話?」
「お腹すいた」
「さっきお菓子食べてたじゃん」
「卒業したからカロリーゼロ」
「意味分かんない」
「卒業祝い」
「自分で言う?」
「言う」
佳乃が笑った。
さっきの言葉について何か聞こうかと思った。
でもやめた。
優にとってはきっと、それくらい普通のことだった。
佳乃も、それでいいと思った。
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夜。
優はベッドへ寝転がり、昼間撮った写真を眺めていた。
友達。
先生。
クラス。
校門。
変な顔。
笑っている顔。
指を送る。
次に出てきたのは、佳乃との写真。
卒業証書を持った優。
その隣に、少し緊張したように立っている佳乃。
もう一枚。
今度の佳乃は、優の方を見て笑っていた。
優の指が行き来して、止まる。
一枚目へ戻って、また二枚目へ。
少し考えて、画面を操作する。
アルバムを選び、追加する。
『宿根草』
そのままスマートフォンを閉じた。
廊下へ出る。
佳乃の部屋の下から明かりが漏れている。
ノックもしない。
ドアを開ける。
「お姉ちゃん」
机に向かっていた佳乃が振り返る。
「何」
「暇」
「知らない」
優は勝手に入る。
床へ座る。
佳乃はまた教材へ戻る。
優もスマートフォンを開く。
しばらく、二人とも別のことをしていた。




