第十一話 十一分の一
スクーリングの日が決まってから。
佳乃は、何度もその日付を見ていた。
カレンダー、学校から届いたメール、スマートフォンの予定。
見ても日付は変わらない。
二月十九日。
朝九時。
美容実習。
分かっているのに、前日の夜にもまた確認した。
「明日何時?」
ベッドに寝転がっていた優が聞いた。
「九時」
「家出るのは?」
「七時半くらい」
「早」
「ゆうもそれくらいでしょ」
「私は七時四十五分」
「十五分しか変わんないじゃん」
「十五分も寝れる」
「誤差でしょ」
「朝の十五分は二時間と同じ価値あるから」
「ないよ」
佳乃はバッグの中を見る。
筆記用具、教材、学校から指定された実習道具、タオル、ノート。
もう一度閉じる。
「今何回目?」
優が漫画を読みながら聞いた。
「何が」
「確認」
「二回」
「四回くらい見てない?」
「見てない」
「ふーん」
佳乃はバッグから手を離した。
数秒後、またファスナーへ触れる。
「五回目」
「うるさい」
優が笑う。
「忘れたら借りればいいじゃん」
「誰に」
「学校」
「そんな雑な」
「じゃあコンビニで買う」
「ワインディングのロッドを?」
「売ってないの?」
「売ってるわけないでしょ」
「じゃあ忘れないで」
「だから確認してんの!」
「六回目」
佳乃は枕を投げた。
優が漫画で防ぐ。
「危なっ」
「もう寝なよ」
「お姉ちゃんもね」
「分かってる」
佳乃はバッグを机の横へ置く。
電気を消して、ベッドへ入った。
目を閉じる。
明日は学校。
その言葉だけで胸の辺りが少し固くなった。
高校でもない。自分が通えなくなった高校の、あの校舎でもない。
それでも学校という言葉は、まだ少し怖かった。
佳乃は布団の中で身体を丸めた。
隣の部屋から小さく何かが落ちる音がした。
数秒して。
「いった」
優の声。
佳乃は目を開ける。
「何してんの!」
壁越しに言う。
「スマホ落とした!」
「寝なよ!」
「はーい!」
静かになる。
佳乃はしばらく天井を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
目を閉じる。
明日は、明日考えればいい。
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翌朝。
玄関には、二人分の靴。
優は制服で、佳乃は私服。
並んで靴紐を結んでいた。
「お姉ちゃん」
「何」
「顔怖いよ」
佳乃の手が止まる。
「怖くない」
「怖い」
「緊張してるだけ」
「それを怖いって言うんじゃない?」
「違う」
優は立ち上がった。
佳乃もバッグを肩へかける。
鏡を見る、髪、服、メイク。
全部、何度も確認した。
「行く?」
優が言った。
「……うん」
佳乃がドアを開ける。
冷たい空気が入ってきた。
少しだけ息が止まる。
でも、足は止まらなかった。
「さむ」
優が肩を縮める。
「二月だもん」
「帰り雪降るかな」
「知らない」
「傘持ってない」
「天気見なよ」
「お姉ちゃん持ってる?」
「折り畳みなら」
「じゃあ大丈夫」
「何であんたが使う前提なの」
そんな話をしながら駅まで歩いた。
電車へ乗る。
朝の車内は人が多かった。
優は吊り革につかまりながら、スマートフォンを見ている。
佳乃はその隣で、バッグを身体の前で抱えていた。
一駅。二駅。
景色が流れる。
乗り換えの駅が近づくにつれて佳乃の指に少しずつ力が入っていく。
「お姉ちゃん」
「何」
「バッグ潰れるよ」
佳乃が手元を見る。
持ち手を強く握っていた。
「……ほんとだ」
少し緩める。
優はそれ以上何も言わなかった。
電車が駅へ入る。二人で降りる。
改札を抜けて少し歩く。
大きな分岐。
右へ行けば、優の高校へ向かう路線。
左へ行けば、佳乃の学校。
二人の足が止まった。
「私こっち」
優が右を指す。
「うん」
佳乃は左を見る。
人が流れていく。
自分の行く方向。
「お姉ちゃん何時終わる?」
「五時くらい」
「長」
「スクーリングだから」
「私の方が先帰ってるかも」
「多分」
「じゃあ晩ご飯どうする?」
「今決めること?」
「大事じゃん」
佳乃が少し笑った。
「帰ってから考えよ」
「はーい」
優が一歩下がる。
「じゃ」
「うん」
「いってらっしゃい」
佳乃の目が一瞬優へ向いた。
「……いってらっしゃい」
「私も?」
「学校行くでしょ」
「あ、そっか」
優が笑う。
「じゃ、またあとで」
「うん」
それだけ。優は背を向けた。
人の流れへ入っていく。
黒い髪、制服。
すぐに他の人たちの中へ混ざる。
佳乃はその背中を見ていた。
いつもなら、一緒だった。
外へ出るとき、知らない場所へ行くとき、怖いとき、隣にいた。いてくれた。
今日は、ここから一人だった。
優の姿が見えなくなった途端、さっきまで普通に動いていた足が急に重くなった。
戻って、制服の袖を掴んで。
やっぱり今日だけ一緒に来て。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
でも、もう優はいない。
佳乃は左を見る。
自分が行かなければならない方。
優はもう、自分の場所へ行った。
なら、自分も行かないと。
いつか、あの子の隣に立ちたいなら。
人が横を通り過ぎる。
佳乃は一度息を吐いた。
左へ身体を向ける。
「……行こ」
今度は。
一人で歩き出した。
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駅から歩いて十分ほど。
見覚えのある建物が見えてきた。
佳乃の足が少し遅くなる。
美容師養成施設。
何度も来た場所だった。
病気になる前はこの道を普通に歩いていた。
学校が終わってから来る日もあった。
休みの日に来ることもあった。
教材を抱えて、友達とメッセージをしながら、コンビニで飲み物を買って。
時間がぎりぎりで走ったこともある。
そんな場所。
なのに今日は、遠かった。
入り口まで、あと三十メートル。
佳乃の足が止まる。
「……」
建物を見る。
何も変わっていない。
看板、窓、自動ドア。
昔と同じ。
だから余計に自分だけが変わってしまったような気がした。
最後にここへ来た日のことを、急に思い出した。
別に、何かあった日ではない。
朝も普通だった。
授業を受けて、ノートを取って、帰るつもりだった。
それなのに途中で、ぷつんと何かが切れた。
教材を開いても文字が読めなくなった。
涙が勝手に出てきて、止めようとしても止まらなかった。
椅子から立つことすらできなくなった。
あの日を最後に、ここへ来なくなった。
佳乃は目を逸らした。
——また、ああなったら
佳乃はバッグへ手を入れた。
スマートフォンを取り出す。
画面をつける。
優とのトーク。
一番上には、昨日送られてきた犬の動画。
指が止まる。
何か送ろうかと思った。
『着いた』
そこまで打つ。
本当に送りたいのは、それだけじゃなかった。
怖い。帰りたい。
できるなら、来てほしい。
佳乃は入力欄を見つめた。
それでも、打ったのは、
『着いた』
それだけだった。
送る。
少しして既読がついた。
『こ』
すぐにもう一つ。
『お』
打ち間違えたらしい。
「……何それ」
思わず小さく笑った。
怖いとは送らなかった。
来てとも言わなかった。
それでも、さっきより少しだけ呼吸がしやすくなった。
佳乃はスマートフォンをバッグへ戻した。
もう一度、建物を見る。
「……行くだけ」
小さく言った。
授業を全部受けなくても無理なら途中で帰ってもいい。
まず、中へ入る。
それだけ。
佳乃は歩いた。
一歩、二歩。
自動ドアの前。
開く。
中へ入った。
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「おはようございます」
受付の女性が顔を上げた。
「あ、あの……今日、スクーリングで……橘、佳乃です」
少しだけ声が詰まった。
女性はパソコンを見る。
「ああ、橘さんですね」
「はい」
「お待ちしていました」
その言葉に佳乃の胸が少しだけ動いた。
怒られなかった。
どうして今まで来なかったのかとも聞かれない。
ただ待っていた。
「今日は三階の実習室です。こちら、出席票ですね」
「はい」
「久しぶりですし、分からないことがあれば先生に聞いてください」
「……はい」
佳乃は紙を受け取る。
エレベーター。
三階。
扉が開く。
音が聞こえた。
ドライヤー、話し声、ワゴンのキャスター、何かを机へ置く音。
そして少し独特な匂い。
シャンプー、整髪料、消毒液。
いくつもの匂いが混ざっている。
知っている。
その瞬間に、記憶より先に身体が反応した。
胸が少し詰まる。
指先が冷たくなる。
それでも懐かしいとも思った。
嫌だった。
怖かった。
なのに懐かしい。
その両方が同時にあった。
実習室の前。
ドアは開いている。
中にはもう何人かいた。
机、鏡、ワゴン。
そしてずらりと並んだウィッグ。
佳乃は入口で足を止める。
知っている顔を探した。
いない。
当然だった。
一緒に始めた人たちはもうほとんど修了している。
ここにいるのは、自分より後から入った人たち。
知らない顔。
知らない声。
佳乃は、ほんの少し息を吐いた。
よかった。
「久しぶり」も。
「どうしてたの」も。
昔の自分を知っている目もない。
そう思ってから。
——そっか。
いないんだ。
一緒に始めた人たちは、もう先へ行った。
胸の奥がちくりとする。
安心したくせに。
今度は、置いていかれたみたいで悔しい。
佳乃は視線を落とした。
「橘さん?」
後ろから声をかけられた。
佳乃の肩が跳ねる。
振り返る。
女性の講師が立っていた。
顔は覚えている。
何度か授業を受けたことがある。
「……はい」
「久しぶり」
「……お久しぶりです」
声が小さくなる。
講師はそれ以上何も聞かなかった。
「今日はワインディング。道具持ってきてる?」
「はい」
「じゃあ、あそこの空いてる席使って」
指された席。
一番端。
「分からないところあったら呼んで」
「はい」
それだけ。
頑張って。
大丈夫。
戻ってこられてよかったね。
何も言われなかった。
佳乃は。
少しだけ安心した。
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授業が始まる。
机の上。
ウィッグ、コーム、ロッド、ペーパー。
以前は見慣れていたもの。
佳乃は一つずつ並べた。
手順は覚えている。
講師が前で説明する。
ブロッキング、毛束の幅、角度、テンション、ロッドの位置。
佳乃は聞きながら。
自分の手元を見る。
「では始めてください」
一斉に手が動く。
佳乃もコームを持った。
髪を分ける。
最初のブロック。
コームを入れる場所は、考えるより先に手が知っていた。
ここ。次。
毛束を取る。
ペーパー。
毛先を挟む。
ロッドへ巻く。
「……」
ずれる。
やり直す。
もう一度。
巻く。
今度はペーパーから毛先が少し飛び出した。
佳乃の手が止まる。
周りが速い。
もう二本目へ行っている人がいる。
三本目。
佳乃は。
まだ一本。
胸がざわつく。
昔ならこんなところで止まらなかった。
そう思った瞬間。
手元がさらに固くなる。
ロッドが、指から落ちた。
カラン。
床へ転がる。
近くの人が一度こちらを見る。
佳乃の顔が熱くなる。少し泣きそうになる。
「……すみません」
誰に言ったのかも分からない。
ロッドを拾う。
指が少し震えている。
やっぱり。
できない。
頭に浮かぶ。
一ページ。
読めなかったときと同じ。
昔ならできた。
今はできない。
また。
講師が横へ来た。
佳乃の身体が固くなる。
「毛先」
「……はい」
「ペーパーもう少し先まで」
講師が指で示す。
「あと、角度上がりすぎ。ここ」
それだけ。
佳乃は手元を見る。
「……はい」
やり直す。
毛束、ペーパー。
さっきより先。
角度、巻く。
「そう」
講師はもう次の席へ行った。
佳乃は巻いた一本を見る。
綺麗ではない。
遅い。
でも巻けた。
次。
毛束を取る。
同じところで。
少し迷う。
でも、今度は自分で直した。
二本目。
三本目。
周りより遅い。
全然遅い。
それでも。
手を止めなかった。
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一時間ほど経った頃。
佳乃の肩は。
もうかなり重かった。
集中しすぎている。
自分でも分かる。
周りの音が、少し遠い。
目の前、髪、ロッド、指。
それだけ。
一本。
次。
一本。
また次。
「橘さん」
呼ばれる。
佳乃は顔を上げた。
「はい」
「そこ、今度はテンション強すぎ」
「……あ」
見る。
確かに。
「根元引っ張りすぎると均一にならないから」
「はい」
ほどく。
やり直す。
今度は少し弱く。
「それくらい」
「……はい」
また。
次。
一回言われる。
分かる。
直す。
次から。
同じところでは間違えない。
最初に固まっていた手が。
少しずつ動くようになっていく。
別に。
上手いわけじゃない。
速くもない。
でも。さっきよりは、確実にできる。
佳乃はほんの少しだけ口元を緩めた。
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昼休み。
佳乃は窓際の席で、一人でパンを食べていた。
朝。
駅前のコンビニで買ったもの。
包装を開く。
一口。
あまり味がしない。
疲れている。
それでも帰りたいとは思っていなかった。
「ここいいですか?」
顔を上げる。
同じ実習を受けていた女の子。
「あ、は、はい」
佳乃は少し身体を寄せる。
女の子が隣へ座った。
「今日からですか?」
「えっと……」
佳乃は少し迷う。
「前に、在籍してて……しばらく休んでました」
「そうなんですね」
それだけだった。
理由は聞かれなかった。
佳乃は少しだけ肩の力を抜く。
女の子が自分の手を見る。
「ワインディング、嫌いなんですよね」
「え」
「全然速くならなくて」
佳乃は思わず。
実習室を見る。
「……私も今日、全然でした」
「でも先生、一回しか直してなくないですか?」
「いや……遅いので」
「私めっちゃ直されてますよ」
女の子が笑う。
佳乃も、少しだけ笑った。
そこから会話が途切れる。
でも嫌な沈黙ではなかった。
女の子はスマートフォンを見る。
佳乃もパンを食べる。
話し続けなくてもいい。
そのことに気づいて。
少し楽になる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後。
また実習。
午後になると。
朝より手は動いた。
でも疲れも出てきた。
一本巻く。
次。
巻く。
講師が時間を告げる。
あと三十分。
佳乃はウィッグを見る。
まだ終わっていない。
周りにはもう全体を巻き終えている人もいた。
胸の奥が。
少し焦る。
全部。
やりたい。
ここまで来たなら。
今日中に。
終わらせたい。
手が速くなる。
一つ。
次。
雑になる。
ペーパーがずれる。
やり直す。
時間が減る。
「……っ」
もっと。
もっと早く。
昔なら。
講師が佳乃の机の横で止まった。
「橘さん」
「はい」
「急がなくていいよ」
佳乃の手が止まる。
「今日は試験じゃないから」
「……でも」
「今日一日で戻す必要ないでしょ」
佳乃は。
返事ができなかった。
ウィッグを見る。
途中。
中途半端。
昔なら。
終わらせた。
昔なら。
もっと。
その言葉が浮かぶ。
でもその昔の自分が、どこか遠くに見えた。
昔の自分に戻りたいのか。
分からなかった。
あの頃の自分は、少し嫌いだった。
何でもできる顔をして。
できないと言えなくて。
最後には、何もできなくなった。
でも、昔できていたことまで、できないままでいたいわけじゃない。
そこは、悔しい。
できるようになりたい。
いや、前より、上手くなりたい。
佳乃は、手に持っていたロッドを見る。
それから、机へ置いた。
「……はい」
講師は何も言わず。
次の席へ行った。
佳乃は、途中まで巻いたウィッグを見る。
終わっていない。
でも朝より増えている。
一本。二本。
なんて数ではない。
ちゃんと自分の手で巻いたものが残っている。
佳乃は、少しだけ息を吐いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後五時。
授業が終わった。
片付け。
道具をバッグへ入れ、使った場所を拭く。
出席票、次回の案内。
全部終わって佳乃は建物の外へ出た。
夕方の空気が冷たい。
朝。
ここで足を止めた。
同じ入口。
今は外へ出ている。
「……終わった」
声に出す。
身体は重い。
肩も痛い。
頭も疲れている。
達成感というほど綺麗なものでもなかった。
失敗した。
遅かった。
途中までしかできなかった。
知らない人と話した。
一日中、人のいる場所にいた。
全部疲れた。
佳乃はスマートフォンを出す。
優とのトークを開く。
『終わった』
送る。
数秒。
既読。
『おつ』
その下。
すぐにもう一つ。
『生きてる?』
佳乃は思わず笑った。
『ぎり』
返す。
『じゃがりこいる?』
少し考える。
『いる』
送った。
「……サラダ味」
独り言。
数秒後。
優から
『サラダね』
佳乃は笑った。
スマートフォンを握ったまま、駅へ向かって歩き出す。
足取りが、ほんの少しだけ速くなった。
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家へ着いた頃にはもう辺りは暗かった。
玄関を開ける。
「ただいま」
二階から足音。
「おかえりー」
優が顔を出す。
ジャージ。
髪は適当に結んでいる。
「お疲れ」
片手にじゃがりこ。
サラダ味。
「ほんとに買ったんだ」
「欲しいって言ったじゃん」
「言ったけど」
「はい」
渡される。
佳乃は受け取った。
「ありがと」
「どうだった?」
その質問に佳乃はすぐには答えなかった。
靴を脱ぐ。
バッグを置く。
少し考える。
「……疲れた」
「うん」
「全然できなかった」
「何が?」
「ワインディング」
「何それ」
「髪巻くやつ」
「ああ」
分かっていない顔だった。
「前はもっとできたんだけど」
「うん」
佳乃は階段を見る。
自分の部屋、教材。
また続きが待っている。
今日、一日行っただけ。
あと十日、その先に国家試験。
まだ全然遠い。
「でも」
優が見る。
佳乃はじゃがりこを抱えたまま少しだけ笑った。
「行ってよかった」
優の目がほんの少し細くなる。
「そっか」
それだけだった。
佳乃は少し待った。
優はもう階段へ身体を向けている。
「……それだけ?」
「え?」
「いや。別に」
もうちょっとくらい、何か言ってくれてもいいのに、とそう思う。
でも、今ここで大げさに「すごいじゃん」と褒められたら、それはそれで居心地が悪かった気もする。
難しい。
佳乃はじゃがりこの蓋へ指をかけた。
「……もうちょっと何かないの」
「何が?」
「別に」
優が少し考える。
「お疲れさま?」
「遅い」
「難しいなあ」
「うるさい」
佳乃は蓋を開けた。
一本食べる。
サラダ味。
少しだけ満足した。
優が階段を上がる。
「ご飯どうする?」
「今から?」
「お腹すいた」
「私もう動きたくない」
「じゃあ何か頼む?」
「そうして」
「何食べたい?」
佳乃が一瞬考える。
「……何でもいい」
「出た」
「何が」
「一番困るやつ」
「じゃあゆう決めて」
「私?」
「うん」
「んー……」
優はスマートフォンを開きながら階段を上がる。
佳乃もその後ろをついていく。
途中バッグが少し重い。
朝より中身は何も増えていない。
それなのに少しだけ違う重さに感じた。
部屋へ戻る。
机の上、教材、ノート。
昨日までのレポート。
佳乃はバッグをクローゼットへ戻さなかった。
机の横へ置いた。
次も使うから。
スマートフォンを開く。
学校の履修画面。
未履修スクーリング。
十一日。
表示を更新する。
十日。
佳乃はその数字をしばらく見た。
一日。
減った。
たった一日。
でも。
今日は。
その一日で十分だった。




