第三節:狂愛の鎖と、誓約書の焦土
〔一〕
ボールドウィン子爵家が破滅し、アリスを脅かす存在は完全に消え去った。
しかし、執務室のルードヴィヒの心は、晴れるどころか深海よりも深い鬱屈に沈んでいた。
(……なぜだ。なぜアリス様は、あんなに寂しそうな顔でカレンダーを見つめているのだ……!?)
影移動の魔法で密かに離れを観察していたルードヴィヒは、部屋で一人、切なげに指折り日数を数えるアリスの姿を目撃していた。
契約の「1年」が近づいている。
アリスは「ルードヴィヒ様の足枷にならないよう、期限が来たら静かに身を引こう」と、愚かなまでに健気な決意を固めていたのだ。
(身を引くだと……!? ふざけるな!! 誰が去っていいと言った!! 俺がどれほどお前を愛しているか、まだ伝わっていないというのか!? 1年が経ったら自由にしてやるなど……全部俺の嘘だ!! 逃がすわけがないだろうが!!)
執務机の前で、ルードヴィヒは頭を抱えて悶絶していた。
「閣下。アリス様が密かに王都での部屋探しや、小さな手芸店の求人情報を集めておられます」
ジャンの報告が入った瞬間、ルードヴィヒの理性は音を立てて弾け飛んだ。
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### 〔二〕
**「……誰の手から逃げられると思っている」**
ルードヴィヒの手の中で、最高級の金装飾万年筆がミシミシと音を立て、激しい魔力の奔流によって一瞬で粉々に砕け散った。
黒いインクがボタボタと絨毯に滴り落ちる。
「閣下、落ち着いて……」
「落ち着いていられるかジャン!! アリス様が俺を捨てて出て行こうとしているんだぞ!? 手芸店だと!? 部屋探しだと!? 冗談ではない、アリス様が暮らす場所は俺の腕の中だけだ!!」
ドス黒い執着心と、失うことへの猛烈な恐怖。
『冷血公爵』の不敵な面影はどこにもなく、一人の男としての狂気の独占欲がルードヴィヒの全身を駆け巡っていた。
「……連れて行く。いや、俺が行く。今すぐだ!!」
ルードヴィヒは猛然と執務室を飛び出した。
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### 〔三〕
バタン!! と激しい音を立ててアリスの寝室の扉が開かれた。
「ル、ルードヴィヒ様……!?」
荷造りの書類を隠そうとしたアリスの手首を、ルードヴィヒは容赦なく掴み上げた。
そのまま勢い任せにベッドへ押し倒す。
「ひやっ……!?」
柔らかなシーツの上に押しつけられたアリス。その上から被さるように、ルードヴィヒの大きな体が覆いかぶさった。
アリスの細い手首を頭上で片手で固定し、ルードヴィヒは怒りと情熱に燃え上がる青い瞳で彼女を見下ろした。
(あぁ……可憐だ。恐怖に揺れるこの瞳も、赤く染まった頬も……全て俺のものだ!! 絶対に渡さない、誰にも、世界中の何者にも!!)
「逃げるつもりだったのか、アリス」
低く恐ろしい声。だが、その声は微かに震えていた。
「俺の手から逃げ出せると思うな……! 1年が経とうと、お前をこの城から出す気など毛頭ない! お前は生涯、俺の妻としてここで暮らすんだ!」
激しい独占欲に突き動かされ、ルードヴィヒはアリスの白く細いうなじへ口づけた。
絶対に消えない痕を刻み込むように、強く、深く、熱く吸い上げる。
「んっ……あ……ルードヴィヒ、様……っ」
アリスの甘い声が耳を叩くたび、ルードヴィヒの理性がさらに削れていく。
「……嫌いだから、ではありません……っ!」
アリスの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お嫌いだから……逃げ出すのではありません……! 愛しすぎてしまったからです……! 契約なのに、本当にお慕いしてしまったから……ご迷惑になりたくなくて……っ!」
(……は?)
ルードヴィヒの動きが、完全に停止した。
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### 〔四〕
「……愛し……すぎて……?」
ルードヴィヒは呆然とアリスを見つめた。
(今……何とおっしゃった……? 愛しすぎて……お慕いしている……? 俺を……? アリス様が、この俺を……!?)
脳内で一気に巨大な花火が何千発も打ち上がった。
冷酷な夫を演じきり、嫌われているとばかり思っていた。ただの恐怖と恩義でここに留まっているのだとばかり思っていた。
それが——相思相愛だったのだ。
「……あ……あああぁぁぁ……っ!!」
ルードヴィヒは感極まり、アリスの手首を解放すると、そのまま激しく彼女を抱きしめた。
アリスの細い体に顔をうずめ、背中を強く抱きしめ返す。
「アリス様……! アリス、俺の愛しいアリス……! 誤解だ、全て俺の言葉足らずだった……! 俺もお前を愛している!! 一目見たその瞬間から、狂おしいほど愛していたんだ……っ!!」
ルードヴィヒは懐から、あの「1年間の契約結婚書」を取り出した。
指先に青い魔導の炎を灯す。
アリスの目の前で、冷酷な契約書は一瞬で燃え上がり、美しい青い灰となって宙に散った。
「こんな契約など、最初からいらなかったんだ。……これからは、俺の愛だけでお前を縛る。二度と『去る』などと言わないでくれ……俺の命を奪う気か……!」
「ルードヴィヒ様……っ」
二人の唇が重なり合う。
これまでのすれ違いを埋めるような、深く、甘く、永遠を誓う口づけだった。
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### 〔五〕
数ヶ月後。
すっかり春の陽気に包まれたヴァルハイト城の庭園。
かつては「氷結公爵」と呼ばれた男は、今や城中の誰もが呆れるほどの「極度の過保護夫」へと変貌を遂げていた。
「アリス、日差しが強い。日傘をさせ。いや、俺がさそう」
「ルードヴィヒ様、大丈夫ですよ、ほんの少しのお散歩ですから……」
「ダメだ! 足元に小さな石ころがある、つまづいたらどうする! 抱っこしよう!」
「も、もう……! 子供ではありません……!」
呆れ顔のジャンとメイドたちが遠巻きに見守る中、アリスがふっと足を止め、自分の愛おしいお腹に手を当てた。
「ルードヴィヒ様……実は、報告があります」
「なんだ? 気分が悪いのか!? 今すぐ医者を——」
「違います……ふふ。私たちの……新しい家族ができました」
(……新……しい……家族……?)
ルードヴィヒの思考がフリーズした。
アリスのお腹を見つめ、彼女の笑顔を見つめ——。
「お……俺と、アリスの……子供……!?」
ドッ!! と音を立てて、ルードヴィヒはその場に崩れ落ちた。
「閣下ーっ!? 嬉しさのあまり公爵閣下が倒れられましたぞーっ!!」
ジャンの叫び声が、平和な春の庭園に響き渡った。
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