第四節:絶対零度の過保護と、永遠の愛の結実
〔一〕爛漫の春と、過保護の限界突破
アリスのご懐妊が発覚してからというもの、ヴァルハイト城の日常は『厳戒態勢』という言葉すら生ぬるいほどの超過保護空間へと変貌を遂げていた。
「アリス、足を動かすな。歩行は母体への負担が大きい」
「ルードヴィヒ様……! 廊下を数メートル歩くだけです!」
バサリと上質な毛皮の膝掛けをアリスの肩にかけ、ルードヴィヒは呼吸をするように妻を姫抱っこで軽々と持ち上げた。
ドレスの裾がふんわりと揺れ、アリスが恥ずかしそうに胸元にしがみつく。その重み、その柔らかさ、体温。すべてがルードヴィヒの心臓を狂おしいほど締め付けた。
(あああっ! 愛おしい!! 可愛すぎる!! 俺とアリスの命が、今この小さな体の中で育まれているという事実……奇跡だ!! 天の恩寵だ!! 俺は前世で世界でも救ったのか!?)
内心で全知全能の神々に感謝を捧げ、全細胞で歓喜の舞を踊っているルードヴィヒであったが、表面上はどこまでも厳格で険しい夫の顔を崩さない。
「理屈ではない。床の僅かな段差で躓きでもしたらどうする。俺が抱えて移動すれば危険係数はゼロだ」
「もう……離れから本邸へ行くのすら抱っこなんて、使用人の皆さんに笑われてしまいます……」
案の定、廊下に並ぶメイドや騎士たちは「また始まった……」と言いたげな温かい(呆れた)微笑みを浮かべて深く頭を下げていた。
「誰が笑うものか。文句がある奴は全員北の最果てへ左遷する」
「閣下、冗談でもそのような脅しはお控えください」
後ろから付き従うジャンが、やれやれと肩をすくめる。
執務室に入ると、ルードヴィヒは宝物を扱うかのような慎重さでアリスを特注の極厚クッション付きソファへと下ろした。
「して、アリス。折り入って話とはなんだ?」
アリスは膝の上で小さく手を握り締め、意を決したようにルードヴィヒの青い瞳を見つめ返した。
「ルードヴィヒ様……来週開催される、王都での建国記念晩餐会ですが……私もご一緒させていただけないでしょうか?」
その瞬間、執務室の温度が冷や汗が出るほど急速に冷え込んだ。
「……正気か? 王都までの馬車の揺れ、大勢の人間がひしめく暑苦しい会場、有象無象の社交界の貴族ども……お前と我が子の体に障る。危険すぎる。却下だ」
「ですが! 私は公爵夫人です。皆様へのお披露目もまだですし、何より……ルードヴィヒ様が『愛妻家』として社交界で変な噂を立てられているとお聞きしました。私が隣に立つことで、ルードヴィヒ様のお立場を守りたいのです……!」
(ぐはっ……っ!!)
ルードヴィヒの胸に、見えない愛の撃破弾が直撃した。
(俺のために……!? 体を張って俺の立場を守ろうとしてくれているのかアリス様は……!? なんだこの天使は、神か、聖女か!! 抱きしめたい!! 今すぐ押し倒して全身に口づけを浴びせたい!!)
脳内が大爆発を起こし、理性が消し飛んだルードヴィヒは「ダメだ」と言おうとした口を思わず滑らせた。
「……条件がある。馬車はサスペンションを最高級魔導仕様に改修し、揺れを完全に無効化する。移動中は俺の膝の上。会場では俺の半径五十センチ以内から一歩も離れないこと。少しでも体調に変化があれば即座に撤収する。良いな?」
「はい! ありがとうございます、ルードヴィヒ様!」
花がほころぶようなアリスの笑顔に撃ち抜かれ、ルードヴィヒは「ジャン、今すぐ王都への最優先厳戒体制を構築しろ!」と、裏で血反吐を吐くような準備を命じるのだった。
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### 〔二〕建国記念晩餐会と、暗黒の嫉妬嵐
王都・国賓級大広間。
建国記念晩餐会の会場は、絢爛豪華な衣装に身を包んだ貴族たちで埋め尽くされていた。
その中央に足を踏み入れた瞬間、満場の視線が一斉に一箇所へと注がれた。
『氷結公爵』ルードヴィヒ・フォン・ヴァルハイト。その隣に添えられた、淡い桜色のドレスに身を包んだ息をのむほどに美しい少女——公爵夫人アリス。
虐げられていた過去の影など微塵もなく、最高級の宝石とルードヴィヒの注ぐ無限の愛によって磨き上げられた彼女は、まさに夜空に輝く一粒の真珠であった。
「見たか……あれがヴァルハイト公爵の『隠された妻』か……」
「なんて可憐で美しい方だ……」
「氷の公爵が、片時も腰から手を離そうとしないぞ……」
ひそひそと交わされる囁き声。
ルードヴィヒはアリスの細い腰をガッチリと抱き寄せ、周囲の男たちに向けて「近づいたら殺す」と言わんばかりの絶対零度の威圧(覇気)を放射していた。
(見るな!! 俺のアリス様を見るな愚民ども!! 視線だけで汚れそうだ!! その汚い目玉を全員くり抜いてやろうか!? アリス様が美しすぎるのが悪いのだが、それを他人の男に見せつけねばならない社交界など滅びてしまえばいい!!)
心の中で地獄の炎を燃やし尽くしていたルードヴィヒであったが、彼が少しだけ主催者の公爵と挨拶を交わすために数歩離れた、ほんの一瞬の隙であった。
「やあ、可愛らしい公爵夫人。一人かい?」
調子の良い、軽薄な子爵令息がアリスに接近し、不躾にもその手を取ろうと腕を伸ばしたのだ。
「公爵様は少し冷たすぎるお方だ。僕がもっと君を楽しませてあげ——」
**ガシッ。**
「……ひっ!?」
男の手首が、人間業とは思えぬ力で空中固定された。
振り仰いだ男の視界に入ったのは、般若も青ざめるほどの暗黒の殺意を宿したルードヴィヒの顔面であった。
「……誰の許可を得て、俺の所有物に触れようとした?」
骨がみしみしと音を立て、男の手首に青い霜が張り付いていく。
「ひ、ひぃぃぃっ!? す、すみま……っっ!!」
「二度と俺の妻の視界に入るな。次はない」
放り投げられた男は、悲鳴を上げて這いずるように逃げ去った。
ルードヴィヒはすぐさま最高級の絹のハンカチを取り出し、アリスの手を(触れてもいないのに)親の敵のように丁寧に拭い去った。
「アリス、大丈夫か!? 汚言を聞かされて耳が腐っていないか!? 気分は!?」
「あ、大丈夫ですルードヴィヒ様……少し、人が多くて熱気でクラクラしただけで……っ」
アリスがふらりと身体を揺らした瞬間、ルードヴィヒの心臓は跳ね上がった。
「アリス!?」
顔色を失ったアリスを横抱きに抱え上げると、ルードヴィヒは周囲の貴族どもを薙ぎ払うような怒号を上げた。
「退け!! 道をあけろ!! 妻の体調が最優先だ!! 晩餐会は中止だ!!」
主催者への挨拶もそこそこに、ルードヴィヒは嵐のように会場を後にしたのだった。
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### 〔三〕王都別邸での甘やかしと復帰
王都別邸の豪華な寝室。
ベッドに横たわるアリスの手を、ルードヴィヒは両手で強く握りしめていた。その手は微かに震えている。
専属の医師が診察を終え、「単なる社交界の熱気による軽い貧血です。母子ともに異常はありません」と告げたことで、ルードヴィヒはようやく止まっていた呼吸を再開させた。
「……良かった……本当に、良かった……」
部屋に二人きりになると、ルードヴィヒはベッドの脇に膝をつき、アリスの手の甲に何度も何度も熱い口づけを落とした。
「ごめんなさい、ルードヴィヒ様。私が無理を言ったばかりに……せっかくのお披露目だったのに……」
「馬鹿なことを言うな!! お前と我が子の無事以上に価値のあるものなど、この世に存在しない!!」
ルードヴィヒはアリスの身を起こすと、そのまま折れよとばかりに強く、愛おしく抱きしめた。
「俺が愚かだった……お前を自慢したいという浅はかな虚栄心のために、危険に晒してしまった……。許してくれ、アリス……」
「ルードヴィヒ様……嬉しかったです。私を守るために、あんなに怒ってくださって……」
アリスがそっとルードヴィヒの首に腕を回し、その耳元で囁く。
「私、ルードヴィヒ様の奥様になれて……本当に幸せです」
(〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっ!!!!)
ルードヴィヒの頭の中で、理性の防波堤が完全に崩壊した。
「アリス……好きだ……愛している……! 狂いそうだ……!!」
重ね合わされる重く、甘く、熱い口づけ。
互いの呼吸が混ざり合い、幾重にも愛を確かめ合うように夜は静かに更けていった。
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### 〔四〕生の誕生と、永遠の愛の誓い
数ヶ月後、季節は再び冬の足音を捉えていた。
ヴァルハイト城の主寝室からは、アリスの痛みに耐える悲痛な声が響いていた。
「くっ……あぁぁぁっ……!」
「アリス!! アリスーーーッッ!!」
産室の外で待機させられていたはずのルードヴィヒは、もはや制止するジャンの制圧を力任せに振り払い、部屋の中に乱入していた。
ベッドの脇に滑り込み、汗に濡れたアリスの小さく震える手を全力で握りしめる。
「ル、ルードヴィヒ……様……出ちゃ……ダメって……」
「黙れ! 俺がここにいる!! お前の痛みを半分……いや全額俺に寄こせ!! 影魔法でも魔導術でも何でも使って俺に痛みを移植しろ!! 頼むからアリスを苦しめないでくれ!!」
冷酷無比な『氷結公爵』の面影など微塵もない。
髪を振り乱し、青ざめた顔で涙をボロボロとこぼしながら、妻の手を握りしめて祈り続ける一人の男がそこにいた。
「閣下! お手を握る力が強すぎてアリス様の骨が折れます!! 落ち着いてください!」
「黙れジャン!! アリス! 死ぬな! 死んだら俺もすぐ後を追う!!」
「生み落とす前に縁起でもないことを言うなこの分からず屋!!」
絶叫と混乱が渦巻く中——おぎゃあぁぁぁぁぁっ!! と、透き通った元気な産声が部屋中に響き渡った。
「生まれた……! 元気な男の子です!!」
助産師の歓声。
ルードヴィヒは呆然と、アリスの胸元に抱き上げられた赤子を見つめた。
アリスに似た可憐な目元と、ルードヴィヒ譲りの青い瞳をした、小さな命。
「……ルードヴィヒ様……見落としましたよ……私たちの……男の子です……」
疲れ果て、今にも瞳を閉じそうなアリスが、愛おしそうに微笑む。
ルードヴィヒはアリスの額に、そして生まれたばかりの息子の頭に、震える唇で優しく口づけを落とした。
「ありがとう……アリス……俺の元へ来てくれて……俺の妻になってくれて……俺に家族をくれて……っ」
大粒の涙が、ルードヴィヒの頬を伝って落ちる。
かつて心を氷で閉ざし、誰からも恐れられていた孤高の男は、今、世界で最も暖かい愛に包まれていた。
「誓うよ、アリス。俺の命、俺の魂、俺の持つ全ての力をかけて……お前とこの子を、永遠に守り抜く」
窓の外では、祝福の粉雪が静かに舞い降りていた。
『氷結公爵』と呼ばれた男の城に、二度と冷たい冬が訪れることはない。




