第二節:氷解の偽装と、甘き狂愛の罠
〔一〕
公爵邸での生活が始まって数週間。
執務室の机に向かうルードヴィヒの表情は、一見すると相変わらず厳格な『氷結公爵』そのものであった。だが、その頭の中は1秒たりともアリスのことで休まる瞬間がなかった。
(今日の朝食のスープ、アリス様は一口多く召し上がってくださったそうだ……! 素晴らしい、料理長に特別ボーナスを支給しろ!! だが手に残るあの痛々しい傷跡……まだ完全には消えていない。王室御用達の最高級軟膏を「ただの試用品だ」と偽ってジャンから渡させたが、効果が出るまで俺の胃が保たん……!)
指先をカタカタと机に叩きつけながら、ルードヴィヒは冷や汗を流していた。
そこへ、ジャンが静かに秘蔵の書籍を数冊抱えて入室してきた。
「閣下。アリス様が図書室で高い棚の本に手を伸ばし、苦戦されていたご様子でしたので、さりげなく『公爵様のお気に入り』としてお渡しできるよう準備いたしました」
「でかしたジャン!! すぐに行く!!」
執務室を飛び出したルードヴィヒは、足音を消す魔法を全身に纏いながら図書室へと急行した。
静まり返った図書室。背の高い本棚の陰で、つま先立ちになりながら一生懸命に手を伸ばすアリスの姿が見えた。小さく息を弾ませ、届かない本を見上げるそのうなじの可憐さ。
(っ~~~~~っっっ!! 可愛すぎる!! 届かないなら俺を脚立代わりに使ってくれ!! いや俺が一生抱え上げて見たい本を全部取ってやる!!)
理性が吹き飛びそうになるのを力任せに抑え込み、ルードヴィヒは『冷酷かつ偶然を装った夫』として、音もなくアリスの後ろに立ち上がった。
アリスの背後からすっと腕を伸ばし、彼女が欲しがっていた秘蔵本を軽々と抜き取る。
(ふっ……どうだアリス様! 190センチを超える俺のこの背丈! 頼りになる男だろう!?)
「……これを探していたのか」
低く抑えた声で囁くと、アリスが驚いて振り返り、小さな肩を跳ねさせた。その距離、わずか数センチ。ふわりと漂う彼女の甘い体香に、ルードヴィヒの脳内は爆破テロに遭ったかのように大パニックを起こした。
(近い近い近い近い近すぎる!! 顔が良い!! 瞳が澄んでいる!! 吐息が触れそう!! 押し倒したい!! 今すぐこの本棚に押し挟んで唇を奪いたい!! 落ち着け俺の魔力、部屋を凍らせるな!!)
アリスが上目遣いに「あ、ありがとうございます……ルードヴィヒ様」と頬を染めてお礼を言った瞬間、ルードヴィヒの心臓は限界突破の鐘を鳴らした。
「……気にすることはない。……図書室の本は好きに使え」
平然を装って本を手渡し、颯爽と立ち去るルードヴィヒ。しかし、ドアを閉めた直後の廊下で、彼は壁に激しく頭を打ち付けていた。
「ハぁっ……ハぁっ……!! 見たかジャン、今の上目遣いを……! 俺はもうダメだ、可愛さの過剰摂取で命を落とす……!!」
「閣下、お気持ちは分かりますが壁に亀裂が入っております。それと、子爵家(実家)から例の脅迫めいた不快な書簡が届きました」
ジャンの報告を受けた瞬間、ルードヴィヒの顔から一切のデレが消え去り、極寒の殺意が宿った。
「……あの豚ども、まだアリス様を吸い尽くす気か。ハインツを呼べ。子爵家の資産凍結の手続きを加速させろ。一粒の金貨すら残さず奪い尽くしてやる」
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### 〔二〕
数日後の午後、ルードヴィヒは城の大温室へと足を運んだ。
目的はもちろん、温室で花のお手入れをするアリスを『偶然』見守るためである。
ガラス張りの温室の中で、青く輝く『氷晶の乙女』という珍しい花を愛おしそうに見つめるアリス。その横顔は、まるで一幅の絵画のように美しかった。
(あの花になりたい……アリス様の小さな手に優しく撫で回される花に俺はなりたい……!!)
物陰からじっと熱視線を送っていたルードヴィヒだったが、アリスが花に手を伸ばした瞬間、彼女の足元がドレスの裾に引っかかり、大きく体制を崩した。
「あっ……!」
(アリス様ーーーーーッッ!!!!)
思考より先に体が動いた。
影移動の如き超絶的な速度で踏み出し、倒れ込むアリスの華奢な体をがっしりと腕の中に抱きとめた。
ドサリ、と柔らかな感触が腕の中に収まる。
アリスの細い腰、腕の中にすっぽりと収まる小ささ。
(ぬあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!! 抱きしめてしまった!! 腕の中にアリス様がいる!! 柔らかい!! 暖かい!! 軽い!! 折れてしまいそうだ!! 永遠にこのまま解きたくない!!)
胸の中でパニックを起こして心臓を爆走させるルードヴィヒだったが、顔は完璧な不機嫌を装っていた。
「……怪我はないか」
「は、はい……すみません、お見苦しいところを……」
真っ赤になって身を縮めるアリス。その愛らしさに耐えかねたルードヴィヒは、足元に落ちていた『氷晶の乙女』を一輪拾い上げると、吸い寄せられるようにアリスの柔らかい髪に挿した。
(似合いすぎる……! 天使だ、いや美の女神そのものだ!! 俺の目の前に神が降臨した!!)
「……似合っている」
ぼそりと呟いた一言に、アリスは目を見張り、さらに顔を真っ赤にして俯いた。
その反応を見たルードヴィヒの脳内では、全理性が一瞬で蒸発していった。
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### 〔三〕
その夜、側近のハインツから「ボールドウィン子爵家が、アリス様を連れ戻すために連日過激な行動を企てている」との報告が入った。
部屋で一人、実家の脅威と己の無力さに怯え、不安そうに身をすくませるアリス。
それを影の護衛からの報告で知ったルードヴィヒは、理性のタガが完全に外れた。
「……俺の女を、脅かすだと……?」
バタン!! とアリスの部屋の扉を力任せに開け放ち、ルードヴィヒは一直線に彼女のもとへ歩み寄った。
怯えるアリスの肩を掴み、そのまま強く、強く、押し潰さんばかりの力で抱きしめた。
「ル、ルードヴィヒ様……!?」
(ああああっ! 怖がらせたいわけじゃないんだ!! だが許せない、アリス様を不安にさせる世界全てが許せない!! 誰も渡さない、誰一人としてこの腕から連れ去らせはしない!!)
アリスの首筋に顔をうずめ、彼女の体温と匂いを全身で吸い込む。
腕の中で震える彼女を感じながら、ルードヴィヒは獣のような低い声で誓いを口にした。
「……誰も、お前を連れ去らせはしない。あの愚か者どもが何を企もうと、俺が全て叩き潰す。お前はここにいろ……俺のそばにいろ!!」
(これは契約なんかじゃない!! 俺の執着だ、俺の狂愛だ!! 1年経ったら返す? 冗談じゃない、一生俺の籠の中で甘やかされて暮らすんだ!!)
抱きしめる腕に一層力を込めると、アリスは驚きながらも、そっとルードヴィヒの背中に小さな手を回してくれたのだった。その温もりに、ルードヴィヒの脳内は感動の涙で満たされていた。
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### 〔四〕
ついに、ボールドウィン子爵夫人と異母姉が、高飛車な態度で公爵邸の応接間に乗り込んできた。
「アリス! 出来損ないの分せいで公爵様に図々しく居座って! さっさと実家に戻って家導のために働きなさい!」
汚い声を張り上げる醜悪な母娘。
アリスが不安そうに身を縮めたその瞬間——応接間のドアが激しく開かれ、極寒の絶対ゼロ度の魔力を纏ったルードヴィヒが踏み込んできた。
**「……誰の許可を得て、俺の妻に気安く話しかけている?」**
部屋の空気が一瞬で凍りつき、高級な調度品に霜が降りる。
子爵夫人らが恐怖でガタガタと震え出す中、ルードヴィヒは迷わずアリスの横に立ち、その華奢な肩をしっかりと引き寄せた。
「あ、アリスはただの『1年契約の道具』でしょう!? 公爵様!!」
「戯言を」
ルードヴィヒの青い瞳に、冷酷極まりない光が宿る。
「アリスは俺の『愛する正妻』だ。1年契約など、貴様らのような害虫を炙り出し、二度とアリスに近づけさせないための欺瞞に過ぎん」
(言った!! 言ってやったぞ!! 全世界に向かってアリス様は俺の愛妻だと宣言したぞ!!)
内心でガッツポーズを決めるルードヴィヒ。そこへタイミングよくハインツが入室し、書類を突きつけた。
「ボールドウィン子爵夫人。子爵家の莫大な不正融資、脱税、および公爵家に対する詐欺罪の証拠が全て揃いました。本日をもって子爵家の全財産を没収、爵位剥奪の上、ご家族全員には最果ての鉱山にて終身刑が課されます」
「な……なんですってーーーっ!?」
絶叫する母娘を騎士たちが引きずっていくのを見送りながら、ルードヴィヒはアリスに向き直った。
アリスは呆然としながら、潤んだ瞳でルードヴィヒを見上げていた。
「ルードヴィヒ様……本当に、私を……?」
(あああああダメだ!! その瞳で見つめられたら、今すぐここで押し倒して本当の夫婦になってしまう!!)
ルードヴィヒは必死で顔の緩みを抑え込み、優しく、しかしどこまでも重い手つきでアリスの頬を撫でた。
「……そうだ。お前はもう、どこへも行かなくていい。俺の永遠の妻だ」
裏で仕掛けた全工作が結実し、邪魔者は全て消えた。
残るは、この可憐な天使の心を、完全に俺のものにするだけだった。
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