第一節:冷血の仮面と、脳内大パニックの始まり
全4話の公爵視点です。
〔一〕氷点の執務室と、歪んだ運命の報せ
北の辺境、ヴァルハイト公爵領。
春の足音など永遠に届かないのではないかと錯覚させる猛吹雪が、猛獣の咆哮のように城塞を揺らしていた。
重厚なオーク材の執務机に向かい、ルードヴィヒ・フォン・ヴァルハイトは書類にサインを走らせていた。
『氷結公爵』——社交界の人間どもは、畏怖と蔑みを込めてそう呼ぶ。
生来保有する過剰な魔力と、冷徹無比な判断力。他者に心を開かず、常に絶対的な冷血を誇る男。
だが、その実態は酷く滑稽なものであった。
(……寒い。いや、物理的な寒さではない。胸の奥が、ずっと凍りついているのだ)
ルードヴィヒはペンを止め、己の手元を見つめた。
幼少期より溢れ出る氷魔力は、彼の感情の起伏に応じて周囲の温度を極限まで低下させる。それ故に人は彼を恐れ、遠ざかり、ルードヴィヒ自身もまた、誰も寄せ付けない孤高の氷壁を築き上げていた。
そこへ、静かにドアがノックされ、老執事のジャンが入室してきた。
「閣下。ボールドウィン子爵家より、契約の受諾と……令嬢の到着が確認されました」
「……そうか」
ルードヴィヒは低く短い声を返した。顔色一つ変えず、冷淡そのものの態度を崩さない。
しかし、その脳内は、ジャンの一言によって**疾風怒濤の大パニック**に陥っていた。
(来ただと……!? 本当に……本当に来てしまったというのか、アリス・ボールドウィンが……っ!?)
感情を押し殺すためにグッと奥歯を噛み締めると、周囲の空気が一気に氷点下まで跳ね上がり、執務室の窓ガラスに美しい霜の結晶がピシピシと音を立てて広がっていく。
(落ち着け! 落ち着くんだルードヴィヒ・フォン・ヴァルハイト!! お前は冷酷無比な北の獅子! 社交界の害虫どもを恐怖で平伏させてきた男だろう!? なぜたった一人の少女の到着に、これほど心臓がうるさく鐘を鳴らしているのだ!!)
頭ではそう叫びつつも、胸の鼓動は早まるばかりだった。
そう——この「契約結婚」は、単なる利害の一致などではなかった。
事の始まりは、数ヶ月前にさかのぼる。
子爵家から届いた莫大な借金の肩代わりを求める悲痛な……否、強欲な哀願状。そこに添えられていた、子爵家の血統図とごく小さな肖像画。
粗末な羊皮紙に描かれたアリスの姿を見た瞬間、ルードヴィヒの氷の心臓は跳ね上がったのだ。
可憐で、どこか寂しげで、守ってあげたくなるような小さくて愛らしい瞳。
社交界の群がる群青の蛾どもとは一線を画す、圧倒的な純粋さ。
(あのお方に……一目お会いしたい。守りたい。俺の手に収めたい……!)
だが、素直に「嫁に来てくれ」などと言えるはずもなかった。
自分は忌み嫌われる『氷結公爵』だ。突然そんな求婚をすれば、恐怖で辞退されるに決まっている。
故にルードヴィヒは、敢えて冷酷非道な「1年限定の契約結婚」という条件を提示した。
「1年経てば自由と莫大な慰謝料を与える」という餌を撒き、まずは己の城に引きずり込む。そしてその1年の間に、じっくりと、確実に、彼女の心を俺だけのものにする——という、裏で血反吐を吐くような緻密で必死な謀略であった。
「……ジャン。彼女の様子は」
表面上は「どうでもいい」と言いたげな、氷のように冷ややかな声で問う。
「は。道中、相当な吹雪に煽られたご様子で……かなりお疲れのように見受けられます。衣服も、少々寒冷地には不釣り合いな薄手のもので……」
**「……何?」**
ルードヴィヒの青い瞳が、すっと細められた。
その瞬間、執務室の暖炉の炎が凍りついたかのように小さく縮こまる。
(ボールドウィン子爵家の屑どもめ……!! 自分の娘に、この極寒の北国でまともな防寒着すら与えずに送り出したというのか!? 許さん……万死に値する!! あの豚ども、後で絶対に破滅させてやる……!!)
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、必死の理性で抑え込む。
「……今すぐ応接間へ……いや、ここで会う。通せ」
「畏まりました。アリス様をお連れいたします」
ジャンが静かに一礼して部屋を出ていく。
ドアが閉まった瞬間、ルードヴィヒはガバッと立ち上がり、胸元を力任せに緩めた。
(やばい。やばいやばいやばい!! 呼吸の仕方を忘れた!! どうする!? どんな顔で迎えればいい!? 冷血な公爵として振る舞わねば、彼女に『企み』がバレて警戒されてしまう……だが、ボロボロの状態で届いた彼女を目の前にして、俺の正気が保てるのか!?)
机の上の万年筆を握り締めると、ミシミシと音を立てて冷気が漏れ出した。
(耐えろ、俺の魔力! 今ここで部屋を凍らせたらアリス様が寒がってしまうだろうが!! 落ち着け、冷酷になれ、最高に冷徹で恐ろしい夫を演じきるんだ……っ!!)
自らの頬を両手で軽く叩き(無論、人には絶対に見せられない顔である)、再び机に腰を下ろすと、冷徹な氷の仮面を完璧に張り直した。
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### 〔二〕運命の対面と、砕け散る理性の破片
コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「閣下。アリス様をお連れいたしました」
「入れ」
重厚な扉が開く。
そこに入ってきたのは——息をのむほどに小さく、儚い少女だった。
安物の、ところどころ擦り切れた地味なドレス。
寒さでガタガタと震える小さな身体。
しかし、その瞳だけは真っ直ぐにルードヴィヒを見つめていた。
(——あ)
ルードヴィヒの思考が、完全に停止した。
肖像画など、彼女の愛らしさの千分の一も表現できていなかった。
薄暗い執務室の中で、アリスの存在だけが奇跡のような光を放っている。儚く、美しく、今にも消えてしまいそうな透明感。
(可愛い……!! なんだこの生き物は!? 天使か!? 天使が舞い降ろされたのか!? 抱きしめたい!! 今すぐその細い体を抱きしめて暖炉の前で温めてあげたい!!「よくぞ俺の元へ来てくれた」と泣きながら感謝したい!!)
内心で狂喜乱舞し、脳内全細胞がスタンディングオベーションを贈っているルードヴィヒだったが、現実の彼の表情は「眉間に深いシワを寄せた激怒の相」であった。
あろうことか、あまりの感動と動揺により、魔力コントロールが完全に崩壊。
執務室内の温度が急降下し、アリスが寒さで「く、くしゅん……っ」と小さく身をすくませたのだ。
(しまっ……!? 俺の馬鹿!! 何を冷気撒き散らしてんだこの唐変木!! アリス様が寒がってるだろうが!! 止めろ、冷気を止めろ!!)
必死で魔力を抑え込もうとすればするほど、緊張で指先が凍りついていく。
「……アリス・ボールドウィンです。本日より、契約に基づき……お世話になります」
細く振るえる声で、彼女は懸命にカーテシーをした。
その姿の痛々しさと、健気さ。
ルードヴィヒの視線は、彼女の「手」に吸い寄せられた。
凍えて赤くなり、かつて過酷な労働を強いられていたことを物語る、小さな傷とタコだらけの細い手。
子爵家の令嬢でありながら、虐げられ、まともな手入れもされてこなかった虐待の痕跡。
(……許さん)
ドクン、と黒い衝動が胸を突き上げる。
(ボールドウィン……あの腐れ豚ども……!! 俺の……俺の愛しいアリス様に、こんな傷をつけただと……!? 爪を剥いで最果ての鉱山に叩き落としても生ぬるい!! 明日にでも全財産を差し押さえて路頭に迷わせてやる……!!)
ドス黒い殺意が溢れ出しそうになるのを、ルードヴィヒは冷酷な言葉という「蓋」で必死に隠した。
「……確認するが、契約内容は理解しているな? 期間は1年。その間、お前には我がヴァルハイト公爵家の『白い結婚の妻』として振る舞ってもらう。俺にお前を抱く気はない。1年後、約束通りの手切れ金を渡して解放する。異論はあるか?」
(嘘だ!! 抱きたいに決まってるだろ!! 毎日抱きしめて愛でて愛でて甘やかしたいよ!! 1年後に返すわけないだろ!! 絶対に離さない!! 1年かけて俺なしでは生きていけない体に……いや、心にしてやるんだからな!!)
心の中では血涙を流しながら、ルードヴィヒはあらかじめ用意していた「誓約書」を机の上に滑らせた。
アリスは少し寂しそうな、しかし安堵したような表情を浮かべ、小さな手でペンを取った。
彼女がカリカリと署名する音すら、ルードヴィヒの耳には愛おしい音楽のように聞こえる。
「……書けました、閣下」
差し出された用紙を受け取る際、ルードヴィヒの指先が、アリスの凍えた指にほんの少しだけ触れた。
ひやっとした冷たさと、驚くほどの柔らかさ。
(ッ~~~~~~~~~~っっっっっっ!!!!!)
ルードヴィヒの脳内で、巨大な爆発が起きた。
触れた。触れてしまった。
冷たい。あまりにも冷たすぎる。今すぐこの手を両手で包み込んで、俺の体温で温めてやりたい。唇を寄せて吐息を吹きかけてやりたい。
「……下がってよい。部屋へ案内させろ」
ルードヴィヒは急いで手を引き、背を向けた。
これ以上彼女の顔を見ていたら、冷血の仮面が叩き割れて、その場で彼女を押し倒して「好きだ、愛している、どこへも行くな」と泣きついてしまいそうだったからだ。
「……失礼いたします」
アリスが頭を下げ、部屋を出ていく。
パタン、と扉が閉まった瞬間——。
ルードヴィヒは机に両手をつき、荒い息を吐いた。
「ハぁっ……ハぁっ……!!」
顔は真っ赤に染まり、心臓は狂ったように鼓動を打っている。
「……無理だ……。耐えられるわけがない……こんな可憐な方が……俺の妻として同じ屋根の下にいるなど……!!」
そこへ、アリスを見送ったジャンが静かに戻ってきた。
「閣下。アリス様を離れのお部屋へご案内いたしました」
「ジャン……ッ!」
ルードヴィヒは弾けたように老執事へ詰め寄った。先ほどまでの氷の公爵の威厳など、微塵もない。
「見たか!? 見たかジャン!! アリス様の手を!! あの小さく、傷ついた手を!!」
「は。痛ましい限りでございます」
「あの豚ども……ボールドウィン子爵家を今すぐ潰す!! ハインツを呼べ! 子爵家の不正、借金、裏取引、あらゆる汚点を洗え!! 1年後の破滅などぬるい、今すぐ首を括らせてやる!!」
「閣下、お気持ちは察いたしますが、今子爵家を潰せばアリス様が実家に連れ戻されるか、社交界の噂の的に成り下がります。今は『1年後に破滅させるための準備』を極秘裏に進めるのが上策かと」
「くっ……! だが、あの防寒着の薄さは何だ!? 部屋の暖房は十分か!? 暖炉の薪は最高級のものをくべているか!? ベッドの羽毛布団は羽毛の量を3倍に増やしたか!?」
ルードヴィヒは執務室の中を右往左往しながら、マシンガンのように命令を捲し立てた。
「料理だ! 痩せこけていたじゃないか! 最高の料理人を集めろ! 胃に優しく、かつ栄養価の高いスープを作らせろ! それから傷薬だ! 王室御用達の秘薬を取り寄せろ! アリス様の手に一筋の傷跡も残してはならん!!」
「すでに指示を出してございます、閣下」
ジャンは呆れたように、しかし温かい目で見つめながら言った。
「それと……離れをお使いいただく件ですが、本邸の閣下のお部屋のすぐ隣へ変更なさいますか?」
「バ、バカを言うな!」
ルードヴィヒは耳まで赤くして叫んだ。
「そんなことをしたら……俺の理性が保てるわけがないだろうが! 1年間の『冷酷な契約夫』という体裁が崩れてしまう! アリス様に『怪しい変質者』だと思われたらどうする!? 離れでいい……いや、離れのセキュリティを最強にしろ! 影の護衛を10名配置しろ! 蚊一匹通すなよ!!」
「かしこまりました。……ところで閣下」
「なんだ!?」
「顔が、非常にだらしなく緩んでおられますぞ」
「くっ……黙れ!! 下がれジャン!!」
怒鳴り散らすルードヴィヒを残し、ジャンは深々と一礼して退出した。
一人残されたルードヴィヒは、アリスが署名した誓約書を大切そうに胸に抱きしめた。
「アリス様……。ようこそ、俺の城へ」
彼の青い瞳に宿っていたのは、冷酷な氷などではなく、どこまでも深く、重く、底なしの狂愛の炎であった。
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### 〔三〕離れの静寂と、極秘の『甘やかし作戦』
執務室を出たアリスは、ジャンの案内で離れへと向かっていた。
「……不思議。執務室を出たら、あんなに寒かったのが嘘みたい」
アリスが小さく呟いた言葉を、後ろの影からこっそり追跡していたルードヴィヒ(※影移動の魔法を使用中)は聞き逃さなかった。
(当たり前だ!! 俺が必死で魔力を抑え込んだからな!! というか、俺のせいで寒がらせて本当に申し訳ありませんでしたアリス様!!)
木々の陰からアリスの華奢な後ろ姿を見つめながら、ルードヴィヒは拳を握り締めていた。
アリスは離れの前に立ち、庭園の木々を見上げて小さく息を吐いた。
「ここで……1年間。静かに、ご迷惑にならないように過ごそう」
その背中はどこか寂しげで、しかし強い覚悟を秘めていた。
(迷惑なものか……! 迷惑どころか、俺の命を全て差し上げてもいいくらいだ!! 1年などと言わず、一生ここにいてくれ……!!)
ルードヴィヒは木の後ろで身を悶絶させながら、心の中で誓った。
明日から、俺の『裏工作』が始まる。
アリス様に悟られぬよう、世界で最も甘く、過保護で、逃げ出せない「籠」を作り上げてやる。
『冷血公爵』の仮面の下で、男の欲望と狂愛が、静かに、しかし爆発的に燃え上がっていた。
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