第三章:解かれぬ契約と執着の牢獄
〔一〕
実家であるブルーム子爵家が完全に解体され、恐れていた義母と異母姉が北部の鉱山へと追放されてから、月日は瞬く間に流れていった。
ヴァルハイト公爵城での生活は、アリスにとってまるで終わることのない美しい夢のようだった。かつて物置部屋で震えていた痩せこけた少女の面影はどこにもなく、今やアリスは豊かな金髪と輝く肌を湛え、社交界でも「氷の公爵を射止めた奇跡の淑女」と密かに囁かれるほどの気品を身につけていた。
そして何より、冷酷無比と恐れられた夫――ルードヴィヒ・ヴァルハイトの変貌ぶりは、城の執事や侍女たちを連日驚かせ続けていた。
「アリス様、本日の午後はお仕事の合間を縫って、閣下が自ら乗馬のお付き合いをされたいと仰っておりますのよ」
侍女のマーサが嬉しそうに微笑みながら、淹れたてのハーブティーをテーブルに置く。アリスは少し照れくさそうに頬を染めながら、手元に置かれた一冊の手帳を見つめた。
「閣下はいつもお忙しいのに……私なんかのために時間を割いてくださって、本当に申し訳ないくらいだわ」
「まあ、アリス様ったら。『私なんか』なんて仰ったら、また閣下に怒られてしまいますよ? あのお方は、アリス様と過ごすお時間だけが唯一の息抜きなのですから」
マーサの言葉に、アリスは胸の奥がキュッと締め付けられるような、切なく甘い痛みを覚えた。ルードヴィヒの不器用で、けれど惜しみない深い情愛。それに触れるたび、アリスの胸の中に芽生えた恋心は、もはや抑えきれないほど大きく育っていた。
(私は……ルードヴィヒ閣下を、心から愛している……)
しかし、その愛しさが深まれば深まるほど、アリスの胸を強く苛む影があった。
アリスはそっと手帳のページをめくった。そこに記されているのは、この城にやってきた日から刻み続けてきたカレンダーであった。
(……もうすぐ、あの日から『1年』が経ってしまう……)
そう――二人が交わしたのは、あくまで「後継者を得るための1年限定の契約結婚」だったはずなのだ。この1年間、ルードヴィヒはアリスの体調や傷ついた心身を最優先にし、手厚く保護し続けてくれた。だが、「後継者を設けるための本当の夫婦の営み」には一度として至っていなかった。
ルードヴィヒが自分に触れるときはいつだって、壊れ物を扱うかのように慎重で、大切で、優しい撫で方だった。それがアリスへの気遣いであることは痛いほど分かっていた。だが同時に、アリスの心には冷たい不安が渦巻いていたのだ。
(閣下が私に良くしてくださったのは、傷ついた私を哀れんで庇護してくださっていたから……。契約の期限が切れれば、私はこの城を出ていかなければならない……)
『約束の1年が過ぎれば、お前を自由にしてやる』
婚姻の日にルードヴィヒが口にした言葉が、アリスの脳裏で幾度も冷たく響き渡る。彼にとって自分は、助け出すべき哀れな不遇の令嬢であり、契約上の妻でしかないのだと――アリスは自分に言い聞かせるように唇を強く噛み締めた。
(これ以上ここに甘えて、閣下の足枷になってはいけない。1年が満了したら……私は自ら静かに身を引こう)
彼への愛が本物だからこそ、彼を契約という不自由な絆で縛り続けたくない。アリスは深い切なさを抱えながら、人知れず城を去る準備を密かに進め始めていたのだった。
〔二〕
だが、アリスがどれほど隠そうと試みようと、ルードヴィヒの鋭い眼光を誤魔化すことなど不可能なことだった。
執務室にて、巨大なデスクに向かうルードヴィヒの周りには、凍てつくような冷気が漂っていた。彼の琥珀色の双眸は、手元の書類ではなく、副官ハインツがもたらした報告書に注がれている。
「……アリスが、城の外に小さな家を借りようとしているだと?」
ルードヴィヒの声は、地底から響くような低音を帯びていた。手にしていた万年筆が、彼の指の力に耐えかねてメリメリと音を立てて亀裂を生じさせる。
「はい、閣下。アリス様は信頼できる商人を経由し、王都の郊外に小さなお住まいを手配しようと動いておられるようです。また、持ち出す荷物を最小限にまとめ、ご自身の私財の整理も進めておられます」
ハインツの報告を聞くにつれ、執務室内を包む魔力の気配が異常な高まりを見せた。室内に飾られた観葉植物が一瞬にして凍りつき、窓ガラスに白い氷の結晶がバリバリと音を立てて走る。
「……なぜだ」
ルードヴィヒの唇から、絞り出すような呟きが漏れた。
「なぜアリスは……ここを去ろうとする? 俺の手もとから逃げ出そうとしているというのか……!?」
彼の中に眠っていた、凄惨なまでの独占欲と狂暴な執着が、一気に噴き上がっていた。
ルードヴィヒにとって、アリスは単なる「契約の妻」などでは断じてなかった。初めて彼女の傷だらけの姿を見たあの日から、その健気で澄んだ瞳に惹かれ、彼女を手に入れるために実家から買い叩くという強硬手段まで使ったのだ。
彼女が怯えぬよう、慎重に距離を保ち、優しく甘やかし、世界中のあらゆる幸福を与えてきたつもりだった。この手で慈しみ、やがて『1年』という期限が来れば、契約などという形式的な不格好な鎖を破棄し、生涯彼女を逃がさぬ本物の婚姻を結び直すつもりだったのだ。
「……アリスは、俺を拒むというのか。この俺の愛を捨てて、消えようとしているのか……っ」
パキン、と音を立てて万年筆が力任せに粉砕された。インクが漆黒のテーブルに飛び散る。
ルードヴィヒの冷徹だったはずの美貌が、激しい感情の渦によって凄惨に歪む。琥珀色の瞳には、冷たい氷の奥で煮えたぎるような、恐ろしい執着の光が宿っていた。
「ハインツ」
「はっ……!」
「アリスの準備している逃走経路、手配した借家、関わった商人……すべてを凍結させろ。一粒の砂、一本の糸くずすら、この城から持ち出させるな」
「承知いたしました。……閣下、アリス様へ直接お確かめにならないのですか?」
ルードヴィヒはゆっくりと立ち上がった。彼の全身から立ち上る凄まじい魔力の圧迫感に、ハインツすら思わず息を呑む。
「……確かめるまでもない。俺の手から逃げられると誤解しているようなら、思い知らせてやるまでだ」
冷徹な仮面が完全に剥ぎ取られ、剥き出しになった狂おしいほどの愛と執着。ルードヴィヒは静かな、だが確実な足取りで、アリスの待つ寝室へと向かって歩み出した。
その夜、城を包む雪は一段と激しさを増していた。
部屋で一人、旅立ちの準備の最後の手帳を閉じたアリスは、窓の外の猛吹雪を見つめていた。
(これでいい……。私がいなくなれば、閣下はもっと相応しい、公爵家に相応しい素晴らしい方と……)
そう自分に言い聞かせ、寂しさに耐えるように抱きかかえた肩。そのとき――
バンっ!
落雷のような激しい音とともに、部屋の重厚な扉が力任せに開け放たれた。
「ひっ……!?」
驚いて振り返ったアリスの視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど恐ろしい形相をしたルードヴィヒの姿だった。彼の纏う圧倒的な威圧感と激昂の魔力に、部屋中の蝋燭の火が一瞬で掻き消え、室内は月光と冷気だけに包まれる。
「か、閣下……? どのようなご用件で……」
怯えるアリスへ、ルードヴィヒは大股で一気に間合いを詰めた。逃げる隙すら与えず、彼はアリスの華奢な手首を掴み上げると、そのままベッドの上へと押し倒したのだった――。親しくも恐ろしい執着の夜が、幕を開けようとしていた。
〔三〕
ベッドの上へと押し倒され、深く沈み込む感覚と同時に、アリスは手首を固定する手から伝わる異様なまでの熱量に息を飲んだ。
冷徹な「氷の公爵」の肌が、燃えるように熱い。アリスを見下ろすルードヴィヒの琥珀色の瞳は、普段の冷静さを完全に失い、底なしの暗い執着と殺気すら孕んだ情念で揺らめいていた。
「か、閣下……っ!? 一体、どうなさったのですか……!?」
恐怖と動揺で声を震わせるアリスに対し、ルードヴィヒは低く、地底から響くような掠れた声で問いかけた。
「……逃げるつもりだったのか」
「え……?」
「借家を手配し、私財を整理し……俺に黙ってこの城から消え去る準備をしていたそうだな、アリス」
アリスの胸がドキンと跳ね上がった。隠していたはずの秘密が、すべて見抜かれていたのだ。
「そ、それは……! ですが、もともと私と閣下の契約は『1年間』……。約束の期限が来たら、私はお邪魔にならないよう身を引くのが当然だと……っ」
「身を引くだと……? 邪魔だと……!?」
ルードヴィヒの唇から、絶望と怒りが混ざり合った激しい吐息が漏れた。彼はアリスの両手首を片手で軽々と頭上へと押さえつけると、空いた手で彼女の細い顎を強く掴み、無理やり視線を固定させた。
「お前は愚かだ、アリス。一体誰が、期限が来たら逃げていいと許した? 誰が、お前を解き放つなどと言った……!?」
「だって、おっしゃったではありませんか! 『1年が過ぎれば自由にしてやる』と……っ」
「あれは、お前を縛り上げていた実家の呪縛や虐待から解き放つという意味だ! 俺の元から去っていいなどという許可を出した覚えは、ただの一度もない!」
咆哮のような言葉に、アリスは言葉を失った。見つめ合う至近距離で、ルードヴィヒの目が狂おしいほどに切なく歪む。
「俺がお前を慈しみ、大事に甘やかしてきたのは……すべてお前を繋ぎ止めるためだ。壊れ物のように触れてきたのは、お前の傷が癒えるのを待っていたからだ! それなのに……お前は俺を捨てて消えようとしていたのか!?」
「閣下……! そんな……捨てるだなんて、滅相もありません! 私は、私などはただの契約の妻で、あなた様のお役に立てないから……だから、あなた様のために……っ」
「黙れ!」
ルードヴィヒはアリスの言葉を遮るように、彼女の白い首筋へと激しく唇を寄せた。吸い付くような強い口づけと、残される生々しい赤い痕。アリスは小さく悲鳴を上げながら身をよじらせたが、ルードヴィヒの体躯に完全に押さえ込まれ、逃げることなど叶わなかった。
「お前の言う『契約』など、ただの口実に過ぎん。俺が欲しかったのは最初から……お前だけだ、アリス」
熱い吐息が耳元を掠め、アリスの心臓が壊れたように跳ね上がる。
「お前が俺から逃げるというのなら、容赦はしない。手足の自由を奪い、この部屋から一歩も外へ出さぬよう繋ぎ止めてやる。死ぬまで俺の籠の中で、俺の愛だけを受けて生きていけ」
彼の言葉は恐ろしい束縛の宣告であったが、そこに込められた圧倒的な愛の重さに、アリスの胸は激しく打ち震えた。
(私を哀れんでいたからじゃない……。閣下は本当に、私を必要としてくださっていたの……?)
「……泣いても無駄だ、アリス。お前を絶対に離さない」
ルードヴィヒはアリスの頬を伝う涙を唇で拭うと、彼女の唇を奪おうと顔を近づけた。しかし、その瞬間、アリスの手が弱々しく彼の胸元を押し止めた。
「閣下……聞いてください……っ。私は逃げたかったのではありません……!」
アリスの真に迫った声に、ルードヴィヒの動きがピタリと止まった。アリスは涙で潤んだ瞳でまっすぐに彼を見つめ、胸の内に秘め続けてきた想いを絞り出した。
「私……私、ルードヴィヒ閣下をお慕いしております……! 大好きで、愛しているからこそ……私のような何もない女が、あなた様の足を引っ張ってはいけないと思い込んで……それで……っ」
告白された言葉の意味を噛み締めるように、ルードヴィヒの瞳が大きく見開かれた。
「……何だと……?」
「私がいなくなろうとしたのは、閣下を拒んだからではありません……! あなたを愛しすぎてしまったからです……っ」
二人の間に、密度の濃い静寂が訪れる。アリスの言葉が、ルードヴィヒの凍りついていた心を劇的に打ち砕いていくのだった――。
〔四〕
「……愛しすぎてしまった、だと……?」
アリスの瞳からポロポロとこぼれ落ちる大粒の涙を見つめながら、ルードヴィヒは絞り出すような声で呟いた。彼を押さえつけていた激しい怒りと暗い衝動が、その一言によって瞬時に打ち砕かれ、消え去っていく。
「はい……っ。私のような何の取り柄もない女が、公爵家や閣下の足を引っ張ってはいけない……。契約の期限が来たら、大人しく身を引くことだけが、私にできる唯一の感謝だと思い込んでいたのです……」
アリスは涙に濡れた顔で、胸の内に溜め込んでいた素直な気持ちを全て打ち明けた。自分が如何に彼を愛しているか、そして彼に嫌われることが恐ろしくて堪らなかったかを。
それを聞いたルードヴィヒは、深く息を吐き出すと、ゆっくりとアリスの手首を解放した。そして、彼女の小さな身体を押し潰さんばかりの勢いで力強く抱きしめたのだった。
「……愚か者は、俺の方だったな」
ルードヴィヒの声はかすかに震えていた。アリスの柔らかい金髪に顔をうずめ、背中に回した大きな手で、彼女の体温を確かめるように何度も抱きしめ直す。
「俺がお前に不安を与えていたのだな。お前の手元に置いておきたい一心で、壊れ物のように扱い……身を引くなどという悲しい誤解をさせてしまった」
「閣下……」
「もう『閣下』などと他人行儀に呼ぶな、アリス。俺を『ルードヴィヒ』と呼んでくれ」
ルードヴィヒはアリスの顔を上げさせると、親指で彼女の涙を優しく拭った。その琥珀色の瞳には、冷酷さなど微塵もなく、ただただ深い慈愛と甘い熱量が宿っていた。
「俺がお前を買い叩いて手に入れたのは、政略のためでも、哀れみでもない。最初から……お前という一人の女性を愛していたからだ。お前以外の女を妻にするつもりなど、天地がひっくり返っても存在しない」
「ルードヴィヒ……様……っ」
初めてその名を呼んだアリスに、ルードヴィヒの口元が愛おしそうに綻ぶ。彼はポケットから折りたたまれた一枚の羊皮紙を取り出した。それは、一年前、ふたりが交わしたあの「1年間の婚姻契約書」であった。
「こんなものは、もういらん」
ルードヴィヒが指先に微かな魔力を通すと、契約書は青い炎に包まれ、一瞬にして灰となって舞い散った。
「契約は終了だ。今日からは……契約ではなく、俺の愛だけでお前を永遠に縛らせてもらう」
「はい……! 喜んで、あなた様に縛られます……っ」
重なり合う二人の唇。先ほどのような激しい牽制の kiss ではなく、互いの愛を慈しみ、確認し合うような、深く甘い口づけだった。すれ違いを乗り越えた夜、二人は本当の意味で「夫婦」として結ばれ、お互いの熱に溶けていったのだった。
〔五〕
数ヶ月後――。
ヴァルハイト公爵城の庭園は、爛漫と咲き誇る花々と温かな陽光に包まれていた。
「おや、アリス様。また閣下がそのような重いお召し物を禁止されたのですか?」
庭園の東屋で、侍女のマーサが可笑しそうにクスリと笑った。アリスは軽やかな薄桃色のドレスの裾を揺らしながら、少し困ったように笑ってみせる。
「ええ……。『少しでも体に負担がかかるものは着てはならん』って、ルードヴィヒ様が凄くうるさくて……」
「ふふ、ご懐妊初期なのですから当然です。閣下の過保護ぶりは今に始まったことではありませんが、拍車がかかっておりますね」
アリスの愛おしそうに撫でるお腹の中には、新しい命が宿っていた。契約結婚から始まった関係は、今や誰もが羨む幸福で満たされている。
「アリス」
低い、けれど世界で一番温かい声が響く。振り返ると、公務を早々に切り上げてきたルードヴィヒが、眩しいものを見るような眼差しで歩み寄ってくるところだった。
「ルードヴィヒ様、おかえりなさいませ」
「ああ。風が冷たくなってきた、そろそろ中へ入ろう」
ルードヴィヒは手慣れた手つきで自分の上着をアリスの肩へと羽織らせ、その細い腰をしっかりと抱き寄せた。彼の琥珀色の瞳には、永遠に解けることのない、愛という最高の甘い鎖が宿っている。
「一生、お前を離さない」
「はい……どこへも行きません。ずっとあなた様の傍にいます」
二人は微笑み合い、どこまでも続く光の中へと、仲睦まじく歩みを進めていくのであった――。
分けすぎたぁ




