第二章:冷徹な公爵と、不器用な暖炉
〔一〕
ヴァルハイト公爵城での生活が始まってから、およそ二週間が経過しようとしていた。
実家であるブルーム子爵家での記憶は、アリスにとって未だに拭い去れぬ悪夢のような影を落としていた。凍てつく物置部屋、義母や異母姉から浴びせられる不条理な罵倒と暴力、そして「何の役にも立たない不吉な娘」という烙印。しかし、この重厚で静謐な城で過ごす日々の温もりは、アリスの凍りついた心を少しずつ、だが確実に溶かしつつあった。
「アリス様、本日のドレスのお色味はいかがなさいますか?」
朝の陽光が優しく差し込む洗面所で、老侍女のマーサが恭しくおじぎをしながら尋ねてきた。彼女の後ろには、上質なシルクやベルベットで仕立てられた美しいドレスが数着、侍女たちの手によって捧げ持たれている。
「あ……えっと、マーサさん。私はどのようなお召し物でも構いません。いつもこのような素晴らしいものを着せていただいて、かえって恐縮してしまうくらいで……」
「ふふ、またそのようなことを。閣下からは『アリス様のお召し物は最高級の生地のみを吟味し、少しでもお気に召さないものはすべて買い替えよ』と命じられておりますのですよ」
マーサは心底嬉しそうに目元を綻ばせる。アリスは頬を少し赤らめながら、控えめな薄青のドレスを選んだ。身支度を整えられ、姿見の前に立ったアリスは、鏡に映る自分の姿に未だ戸惑いを隠せない。特別な薬膏のおかげで手に残っていた痛々しい火傷や擦り傷は綺麗に消え去り、かつて痩せこけていた肌には健康的な血色が戻っていた。伸ばされた金糸のような髪は美しく結い上げられ、まるで別人のような令嬢の姿がそこにあった。
「……本当に、夢を見ているみたい……」
ポツリと漏らしたアリスの呟きに、マーサは温かい手でアリスの肩を包み込んだ。
「夢などではございませんよ、アリス様。これが、あなた様が当然受け取るべきお姿なのです」
朝食を済ませた後、アリスは城の東側に位置する広い図書室へと向かった。そこは天井まで届くほどの巨大な本棚が幾重にも立ち並び、希少な古文書から歴史書、魔導書に至るまで膨大な蔵書が収められている場所だった。
「失礼いたします……」
静まり返った図書室に入ると、アリスは静かに息を呑んだ。実家では本を読むことすら許されず、夜中に物置部屋で落ちていた破れ本を盗み見るのが唯一の娯楽だった。しかし今や、この膨大な知識の海をいくらでも泳ぐことが許されているのだ。
アリスは静かに棚の隙間を歩き、一冊の和国との貿易誌を手に取った。夢中になってページを捲り、熱心に目を通していると、ふと背後から微かな衣擦れの音が響いた。
「……本が好きなのか」
低い、氷片のように冷たくも重厚な声。振り返ると、そこには黒い軍服姿のルードヴィヒが立っていた。琥珀色の鋭い瞳が、まっすぐにアリスを見下ろしている。
「閣下……! 申し訳ありません、お仕事のお邪魔をしてしまいましたでしょうか」
アリスは咄嗟に本を胸に抱え、深々と頭を下げた。ルードヴィヒは足音もなくアリスへ近づいてくると、彼女の手元にある本へと視線を落とした。
「構わん。この図書室はお前が自由に使うといい。……難解な貿易誌を読んでいるのだな」
「あ……はい。昔から、外の世界の歴史や領地運営の記録を読むのが好きでして……。出すぎた真似でしたでしょうか」
「……いや」
ルードヴィヒはそう短く呟くと、大きな手を伸ばし、アリスが背の届かない棚の上段から、一冊の豪華な装丁本を抜き取った。それはヴァルハイト公爵家の秘蔵とされる、北国独自の植物や魔導鉱石に関する古い図鑑だった。
「お前なら、これも理解できるだろう。持って行け」
「あっ……ありがとうございます、閣下!」
アリスは両手で本を受け取り、ぱっと表情を輝かせた。その純粋な喜びに満ちた笑顔を目の当たりにした瞬間、ルードヴィヒの呼吸がわずかに止まった。彼は無表情を装いながらも、ふいっと顔を横へ背け、口元を手の甲で覆った。
「……風邪を引くな。暖炉の火を強めさせておく」
「はい! お心遣い、感謝いたします」
去っていく彼の背中を見送りながら、アリスは胸の奥がキュッと締め付けられるような温かい痛みを覚えた。恐ろしい「氷の公爵」として誰もが遠巻きにする男。けれど彼は、口数は少ないものの、いつだってアリスの小さな行動や欲求を完璧に見抜き、さりげなく与えてくれるのだ。
(どうして、こんなにも優しくしてくださるの……? ただの『後継者を産むための契約結婚』でしかないはずなのに……)
アリスの手元に残された図鑑には、ルードヴィヒの微かな魔力の熱と、ほんのりと甘い香木の香りが残っていた。
だが、そんな平穏な日々の中に、予期せぬ泥を投げつけるような出来事が訪れる。
アリスがヴァルハイト公爵家に嫁いで三週間が経とうとしていたある日の午後。城の応接間にて、一通の書簡がルードヴィヒの執務机の上に届けられた。差出人は――ブルーム子爵家。アリスの実父であった。
「閣下、ブルーム子爵より書簡が届いております。……内容は、アリス様に関する追加の要求のようです」
副官であるハインツが、苦々しい表情で羊皮紙をルードヴィヒに差し出した。
ルードヴィヒは無言のまま手紙を受け取り、目を通した。そこにしるされていたのは、身勝手極まりない醜悪な欲望の数々だった。
『不吉な娘を引き取っていただいたことには感謝する。しかし、子爵家から公爵家へ嫁を差し出した以上、相応の援助があって然るべきである。つきましては、追加で金貨五千枚の融資と、我が子爵家が抱える債務の帳消しを要求したい。さもなくば、アリスの素行の悪さを社交界で言いふらし、婚姻を無効と訴える手はずもある』
手紙を読み終えた瞬間、ルードヴィヒの周りの空気が一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。執務室の窓ガラスに、見る見るうちに白い霜が張り付いていく。
「……愚か者が」
ルードヴィヒの声には、もはや人間に対する温度など存在しなかった。琥珀色の瞳に凄惨なまでの殺意が宿り、手の中の羊皮紙は一瞬にして凍りつき、パキリと音を立てて粉々に砕け散った。
「閣下、いかがなさいますか? 子爵家はアリス様が当家で冷遇されていると思い込み、脅しが効くと踏んでいるようです」
「ハインツ」
「はっ」
「ブルーム子爵家の全財産、過去の帳簿、裏の不正取引の記録を洗え。……やつらが二度とアリスの名を口にできぬよう、息の根を止める」
「承知いたしました。……それと、もう一つ報告がございます。明日、子爵夫人が『アリスの面会』と称して、このヴァルハイト城へ直接乗り込んでくる模様です」
ルードヴィヒは冷酷な笑みをその薄い唇に浮かべた。
「……追い返すな。通せ。アリスを害しようとした報いを、その身体で味わわせてやる」
暗く重い殺意を滾らせるルードヴィヒ。アリスを巡る実家との因縁は、過酷な結末に向けて動き出そうとしていた。次なる嵐が、アリスの与えられた平穏を脅かそうとしていたのだった――。
〔二〕
図書室での秘蔵本の一件以来、ルードヴィヒのアリスに対する「過保護」ぶりは、日を追うごとに拍車がかかっていた。
冷酷無比と恐れられる「氷の公爵」の面影はそこにはなく、アリスが少しでも寒そうにしていればすぐさま上着を羽織らせ、食事の進みが遅ければ「口に合わなかったか」と本気で料理人を全員問い詰めようとする始末だった。
ある暖かな日の午後。アリスはルードヴィヒに誘われ、公爵城の奥深くに位置するガラス張りの大温室を訪れていた。
「わあ……! なんて綺麗な……っ」
足を踏み入れた瞬間、アリスは思わず感嘆の声を漏らした。外の冷たい空気とは対照的に、魔導具で常に春のような暖かさに保たれた温室の中には、色とりどりの珍しい花々が咲き乱れ、甘い芳香で満たされていた。実家の暗く冷たい物置部屋に押し込められていたアリスにとって、ここはまるで童話の世界のようだった。
「……喜んでもらえたなら何よりだ。北国の過酷な気候でも咲くよう、魔導で品種改良させた花々だ」
アリスの少し後ろを歩くルードヴィヒが、低く落ち着いた声で呟いた。彼の表情は相変わらず崩れていないものの、その琥珀色の瞳は、花々よりも目の前で無邪気に瞳を輝かせるアリスの横顔に釘付けになっていた。
アリスは一輪の可憐な青い花の前で足を止めた。幾重にも重なった薄い花弁が、光を浴びて宝石のように煌めいている。
「このお花、とっても綺麗です……。なんていうお名前なのですか?」
「『氷晶の乙女』だ。極寒の地にしか咲かず、強い日差しには弱いが、温室で大切に保護すればこのように永く美しく咲き続ける」
そう説明しながら、ルードヴィヒはすっと手を伸ばし、その咲き誇る青い花を一輪摘み取った。そして、驚くアリスの髪へと、非常に手慣れた――しかしどこかぎこちない丁寧な動作で挿したのだ。
「か、閣下……!?」
突如として近づいたルードヴィヒの端正な顔立ちと、ふわりと漂う男性的な香気に、アリスの心臓が早鐘のように鳴り響く。耳たぶまで真っ赤にして狼狽するアリスを見下ろし、ルードヴィヒは満足そうに口元を僅かに緩めた。
「やはり、よく似合う。お前の金糸の髪に映える」
「あ……あ……ありがとうございます……っ」
あまりの甘い言葉と至近距離の視線に耐えかね、アリスは慌てて後ずさろうとした。だが、履き慣れないドレスの裾を踏んでしまい、盛大にバランスを崩してしまう。
「きゃっ……!?」
「危ない!」
倒れそうになった身体を覚悟したアリスだったが、衝撃は訪れなかった。瞬時に動いたルードヴィヒの強い腕がアリスの腰をすっと引き寄せ、そのまま自分の胸の中へとしっかりと抱き留めたのだ。
「……怪我はないか、アリス」
「は、はい……すみません、お見苦しいところを……」
ルードヴィヒの胸板から伝わってくる、固く力強い鼓動と熱。氷の魔導を使う彼とは思えないほど熱い体温に包まれ、アリスの頭は真っ白になった。
(こんなに温かい……。閣下は冷酷なお方なんかじゃない。誰よりも優しくて、あたたかいお方……)
アリスがその胸の中で息を弾ませていると、ルードヴィヒは彼女を解放しようとせず、むしろ腕の力をさらに強め、アリスの頭を包み込むように撫で下ろした。
「……お前はもう少し自分を大事にしろ。怪我でもされたら、俺の身が持たん」
その声には、冷徹な公爵のものとは思えないほど切実な響きが籠もっていた。アリスは素直に彼の胸に頬を寄せ、小さく「はい」と頷いた。
ふたりの間に流れる甘く満たされた時間。しかし、その夜、平穏に暗雲が垂れ込めることになる。
〔三〕
夜の執務室。ルードヴィヒがハインツから「明日、ブルーム子爵夫人が乗り込んでくる」という最終報告を受けていた頃、アリスは自室の窓辺で月を見上げていた。
そこへ、副官のハインツが静かに訪ねてきたのだった。
「アリス様。夜分遅くに申し訳ございません。……明日についての件で、少々お伝えしておかねばならぬことがございます」
「ハインツさん……? 明日、何かあるのですか?」
ハインツは言葉を濁しながらも、アリスの実家――ブルーム子爵夫人が明日この城へやってくるという事実を告げた。それを聞いた瞬間、アリスの顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。
(お義母様とセシリアお姉様が……!? どうしてここに……っ)
実家で受けた凄惨な虐待の記憶が一瞬にして脳裏を駆け巡る。冷たい言葉の暴力、理不尽な打擲、物置部屋の暗闇。身体が勝手にガタガタと震えだし、アリスは自分の腕を固く抱きしめた。
「あ……私、またお義母様たちに連れ戻されてしまうのでしょうか……? 閣下に……ご迷惑をおかけしてしまう……っ」
「アリス様、落ち着いてください。閣下はけっしてそのような――」
ハインツが言葉を紡ぎ終わるより早く、部屋の重厚なドアが荒々しく開け放たれた。
「何をしている」
現れたのは、ただならぬ雰囲気を察して駆けつけてきたルードヴィヒだった。彼は顔を蒼白にして震えるアリスの姿を見るや否や、ハインツを一瞥して追い出すと、大股でアリスの元へと歩み寄った。
「アリス……!」
「か、閣下……ごめんなさい、私……私、怖くて……!」
怯えと不安に押し潰されそうなアリスを、ルードヴィヒは躊躇うことなくその腕の中に抱きしめた。温室の時よりもさらに力強く、まるで世界中のあらゆる脅威から彼女を隠し隠蔽するかのように。
「……何も恐れるな。お前を苛む過去も、あの愚か者どもも、俺がすべて破滅させてやる」
ルードヴィヒの低く力強い声が、アリスの頭上で響く。彼の琥珀色の瞳には、アリスを恐怖に陥れた実家への激しい憤怒と、決意の炎が燃え上がっていた。
「俺はお前を絶対に手放さない。誰一人として、お前を俺の元から連れ去ることなどできん」
「閣下……っ」
ルードヴィヒの揺るぎない言葉と深い体温に包まれ、アリスの震えは少しずつ収まっていった。この男が自分を守ってくれる――その安心感が、胸を満たしていく。
(私は……このお方の傍にいたい。離れたくない……)
明日訪れる対決を前に、二人の絆と内に秘めた想いは、より一層深く固く結ばれようとしていたのだった――。
〔四〕
翌日の午後、ヴァルハイト公爵城の広大な応接間には、不釣り合いな怒号と高飛車な声が響き渡っていた。
「なちなちと勿体ぶって! 私はこの城の新しい奥様――アリスの『母』なのですよ!? この私をこのような下々のもてなしで待たせるとは何事ですか!」
派手で悪趣味なドレスに身を包んだブルーム子爵夫人――アリスの義母であるビクトリアは、出された高級茶葉の紅茶を一口飲むなり、テーブルの上へ乱暴にカップを叩きつけた。彼女の後ろには、贅沢に甘やかされて育った異母姉のセシリアが、鼻を鳴らしながら扇子をパタパタと仰いでいる。
「本当にお母様のおっしゃる通りわ。あんな何の取り柄もない出来損ないの泥棒猫が、まさかこんな豪奢な公爵城で暮らしているなんて許せないわ! きっとろくに挨拶もできないで、閣下に呆れられているに決まっているわ」
実家でアリスを虐げ、召使い以下の扱いをしてきた二人。彼女たちは、アリスがヴァルハイト公爵家で「不遇な扱いを受け、怯えて暮らしている」と思い込み、公爵家の弱みとアリスをダシにして金をむしり取ろうと乗り込んできたのだ。
「……やかましいぞ、無礼者ども」
重厚な扉が開き、地響きのような低音が応接室に満ちた。
足を踏み入れてきたのは、漆黒の軍服を纏ったルードヴィヒであった。彼の後ろには、洗練された美しいドレスに身を包み、どこかおどおどとしながらも以前とは見違えるほど気品に満ちたアリスが付き従っている。
「ひっ……!」
ビクトリアとセシリアは、ルードヴィヒが全身から放つ絶対的な威圧感と、刺すような凄惨な冷気に息を呑んだ。「氷の公爵」と恐れられる男の圧倒的なオーラに、二人の体がガチガチと震え始める。
だが、ビクトリアは必死に気丈を装い、高圧的な態度で声を張り上げた。
「こ、公爵閣下! お初にお目にかかります。私はアリスの母でございます。……それにしても閣下、このような薄汚い娘を押し付けられてさぞご迷惑でしょう! 我がブルーム子爵家としては、もっと教養のある姉のセシリアを改めて……」
「黙れ」
ただ一言。ルードヴィヒの静かな拒絶の言葉が響いた瞬間、応接間全体の温度が劇的に低下した。テーブルの上の紅茶が一瞬にして凍りつき、ビクトリアたちの足元から白い霜が不気味に広がり始める。
「ひ、ひぃっ……!?」
「俺の妻に向かって、いま『薄汚い』と言ったか?」
ルードヴィヒの琥珀色の瞳に、狂暴なまでの殺意が宿る。彼はアリスの腰へとすっと手を回し、彼女を引き寄せると、二人に誇示するように力強くその細い身体を抱き寄せた。
「アリスは我がヴァルハイト公爵家の至宝であり、俺の愛する正妻だ。お前たちのような害虫が軽々しく口にして良い名ではない」
「え……!? あ、愛する……!?」
セシリアは絶句した。目の前に立つアリスは、かつてボロ切れを着せられ、痩せこけていた姿ではない。透き通るような肌、光り輝く金髪、そして公爵から惜しみない愛情と保護を受け、気品溢れる美しさを咲かせた一人の貴婦人の姿だったのだ。
アリス自身も、ルードヴィヒから「愛する正妻」と面と向かって告げられ、顔を真っ赤にして胸を激しく高鳴らせていた。
(閣下……! そんな、私を庇うためにそこまで……っ)
ビクトリアはあまりの冷気と恐怖にガタガタと震えながらも、食い下がろうと叫んだ。
「ですが! アリスを育て上げたのは我が子爵家です! 相応の対価――金貨五千枚と借金の帳消しを払っていただかなければ、社交界でアリスの過去の悪評を不実だと触れ回りますわ!」
「……愚か者が」
ルードヴィヒは冷酷な嘲笑を浮かべると、背後の副官ハインツへ顎をしゃくった。ハインツは恭しく一礼し、厚い書類の束をテーブルの上へ叩きつけた。
「ブルーム子爵夫人。お生憎様ですが、あなた方子爵家は本日をもって破滅いたしました」
「な……何ですって!?」
「当公爵家が所有する金融機関を通じて、ブルーム子爵家が抱えるすべての債権を買い取りました。返済期日は本日です。……さらに、過去十年間に及ぶ脱税、闇市での違法取引、ならびにアリス様に対する虐待と横領の証拠をすべて騎士団と国税局へ提出いたしました」
ハインツの淡々とした宣告に、ビクトリアとセシリアの顔から血の気が完全に引いた。
「ま、待ち……待ってください! そんなの横暴です! アリス! アリス、あなたからも公爵閣下に言いなさい! 私たちを助けるように命じなさい!」
必死でアリスへ縋り付こうと手を伸ばすビクトリア。しかし、アリスが言葉を発するより早く、ルードヴィヒがアリスを庇うように一歩前へ出た。
「アリスにお前たちの薄汚い声を届かせるな」
ルードヴィヒの指先が一閃すると、氷の結界が二人の目の前に立ちふさがり、彼女たちを冷たく弾き飛ばした。
「全財産の没収と爵位の剥奪、ならびに不正取引の罪により、ブルーム子爵家は解体。お前たちは北部の最果ての鉱山にて、死ぬまで強制労働に就いてもらう」
「嫌ぁぁぁぁっ! そんなの嘘よ! アリスの分近でどうして私たちがそんな目に――!」
「連れて行け」
冷酷な命令とともに、待機していた重装騎士たちが雪崩を打って踏み込み、悲鳴を上げるビクトリアとセシリアを容赦なく引きずり出していった。応接間に残されたのは、凍てつく静寂と、静かにパチパチと燃える暖炉の音だけだった。
「……怖がらせたか」
敵が排除された室内で、ルードヴィヒはゆっくりとアリスへと向き直った。彼の表情からは先ほどの凄まじい殺意が消え去り、そこには痛々しいほどの不安と葛藤が浮かんでいた。
アリスの華奢な肩を抱く彼の大きな手が、かすかに震えていることにアリスは気づいた。
「閣下……いいえ。私、ちっとも怖くありませんでした。私を……ずっと苦しかった過去から助け出してくださって、本当にありがとうございました……っ」
アリスの瞳から、ポロポロと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。それは恐怖の涙ではなく、自分を全身全霊で守り抜いてくれた男に対する、溢れんばかりの感謝と深い愛しさの涙だった。
ルードヴィヒは息を呑むと、愛おしさに耐えかねたようにアリスを力強く胸の中へと抱き寄せた。彼の長い腕が、二度と誰にも渡さないとばかりに、アリスの体を固く包み込む。
「……俺の傍にいろ、アリス。誰もお前を脅かさせない。お前を傷つける者は、世界を敵に回してでも俺が潰す」
「閣下……」
彼の胸から伝わってくる、激しく鼓動する心臓の音と高い体温。アリスはその胸にそっと顔を埋め、彼の背中に手を回した。
(ああ……私は、このお方を愛してしまっている……)
実家という呪縛から解き放たれ、公爵の深い愛に包まれる幸福。しかし、二人の胸の奥には依然として、「1年間の契約期間」という残酷な刻限が刻まれていた。
(ですが、契約の期限が来たら……私はこの温かな胸を離れなければならないのでしょうか……?)
身を引く覚悟と育っていく愛しさの間で揺れるアリス。そして、彼女を抱きしめるルードヴィヒの瞳には、逃がすつもりなど毛頭ない、漆黒の重すぎる独占欲が渦巻いていたのだった――。




