【アナザー⑦】極寒の城に訪れた束間の平穏(全員視点)
第一節:公爵不在! ヴァルハイト城に訪れた幻の平和
「……全使用人に通達。ルーカス様は本日より一週間、隣国との国境画定交渉および魔導鉱山視察のため、城を不在にされる」
月曜日の早朝。執事長ジャンが執務室前でその決定を告げた瞬間、ヴァルハイト公爵城に走った衝撃は、過去いかなる事件よりも大きかった。
「……え? ほんとうですか、ジャン様?」
新人メイドのミーナが、信じられないものを見るような目でおそるおそる尋ねた。
「ああ、本当だ。先ほど特注のドラゴン馬車にお乗りになり、出発された」
沈黙。
そして数秒後——。
「やったーーーっ!! 命が助かったーーーっ!!」
「マグロ漁船に行かなくて済むぞーーーっ!!」
「今週は心置きなく息ができるぞーーー!!」
地階の厨房からボリス料理長と若手料理人たちの歓喜の叫びが響き渡り、影の護衛隊「黒狼衆」の隊員たちは樹木の上で人知れず固い握手を交わした。
そう、社交界で『氷の冷血公爵』と恐れられるルーカス殿下が不在ということは、あの常軌を逸した「暴走過保護」「過剰セキュリティ」「理不尽な報告書詰問」から一週間だけ解放されることを意味していた。
「みんな、なんだかすごく嬉しそうね……?」
廊下を通りかかったアリアが、不思議そうに首をかしげる。
「い、いえっ! アリア様! 寂しさを紛らわせるために気合を入れているだけでございます!」
ジャンは慌てて胃薬の小瓶をポケットに隠し、営業スマイルを浮かべた。
「ルーカス様がいらっしゃらない間、アリア様が退屈なさらないよう、我々全力でお世話させていただきますね!」
メイドのミーナとマーガレットも目を輝かせた。
こうして、ヴァルハイト公爵城始まって以来の「平和で穏やかな一週間」が幕を開けたのである。
第二節:のびのびとした日常と、お茶会の温もり
ルーカスがいない城内は、驚くほど穏やかで温かい空気に包まれていた。
いつもなら、アリアが庭園を歩くだけで「風速が強い」「直射日光が危険だ」「小石で躓くかもしれない」とルーカスが大騒ぎし、影の護衛隊が極限状態で日陰を作る。
しかし今週は違う。
「ふふ、今日の風はとても気持ちがいいわね」
庭園のあずまやで、アリアが気持ちよさそうに目を細める。
大木の上の影の護衛隊長カルロスも、今週ばかりは肩の力を抜き、優雅に温かい紅茶を魔法瓶から注いで飲んでいた。
「隊長……直射日光の遮断魔法、出力を半分に落としても大丈夫でしょうか……?」
「ああ、構わん。アリア様も気持ちよさそうに日光浴をされている。殿下がいらっしゃらなければ、庭園とはこんなにも美しい場所だったのだな……」
「ですね……涙が出てきそうです……」
厨房でも、革命的な平和が訪れていた。
「ボリス料理長! 今日のコンソメスープ、温度の計算書は出さなくていいんですか!?」
「バカ者! アリア様が美味しく召し上がれる常識的な温かさで十分だ! スープの温度が0.5度ズレただけで北極海へ飛ばされる心配のない料理が、これほど楽しいものだとは……!」
ボリスは嬉しそうに口ひげを揺らし、アリアが大好きな特製の焼き立てタルトを心を込めて焼き上げた。
アリアもまた、羽を伸ばしていた。
ルーカスがいると、どうしても彼が過保護に甘やかしてくるため(一口食べるごとに『可憐だ……』と悶絶されたり、手を握られたりする)、落ち着いて食事ができないことも多かったのだ。
「ボリスさんのタルト、本当に美味しいわ。ミーナ、マーガレット、良かったら一緒に食べない?」
「えぇっ!? 私たちもいただいて宜しいのですか!?」
「ええ、ルーカス様には内緒で、みんなでお茶会をしましょ」
陽の光が差し込むテラスで、アリアとメイドたちが楽しそうに笑い合う。
執事長のジャンも、その光景を遠くから見つめながら、穏やかな表情でハーブティーを口に含んだ。
(……良いものだな。こういう普通の、温かい日常というものは)
ジャンの胸ポケットの胃薬は、この数日間、一度も出番を迎えていなかった。
第三節:毎夜の『遠隔通信水晶』と、公爵の限界
だが——平和な昼間とは対照的に、毎夜九時になると、城の最高級客間に「緊張」が走った。
ルーカスが旅立つ際、国家予算レベルの古代魔導具である『対話用遠隔通信水晶』をアリアの部屋に設置していったからである。これは離れた場所同士で、空中にお互いの姿と声をリアルタイムで映し出すことができる極めて高価な魔法アイテムだ。
「アリア!! 無事か!? 怪我はないか!? この数日間で痩せていないか!? 誰かにお前を脅迫されていないか!?」
夜九時。通信水晶が起動し、半透明の映像として浮かび上がったルーカスの顔は、遠く離れた隣国の高級ホテルにいるとは思えないほど必死だった。
「ふふ、ルーカス様。落ち着いてくださいな。私はとても元気にしていますよ」
ベッドの上でパジャマ姿のアリアが柔らかく微笑む。
「……! ぱ、パジャマ……! アリア、そのような可愛らしい姿を……通信越しとはいえ、私以外の魔導技師や従者が見ていたらどうするのだ! 今すぐその部屋の周囲一キロを絶対結界で覆わせる!」
「もう、ルーカス様ったら。お部屋には私一人しかいませんよ」
アリアが小さくクスッと笑うと、画面の向こうでルーカスが「グッ……!」と胸を押さえて悶絶した。隣国での過酷な外交交渉の疲れなど一瞬で吹き飛んだようだが、同時に「今すぐ城へ爆速帰還したい」という欲望が爆発しかけているのが画面越しにも伝わってきた。
「アリア……会いたい。今すぐドラゴンを全速力で飛ばせば、明日の朝にはお前を抱きしめられる……」
「だめですよ。お仕事はしっかり最後まで終わらせてきてくださいね。頑張っているルーカス様は、とっても格好いいのですから」
「……っ!!」
アリアの「格好いい」という一言で、ルーカスの青灰色の瞳が激しく揺れ動いた。
ポーカーフェイスを保とうと必死だが、画面の端に見える彼の耳は熟したイチゴのように真っ赤になっている。
「……分かった。お前がそう言うなら、私は明日も完璧に交渉を終わらせてみせる。……アリア、今日のお前の出来事を教えてくれ」
「はい。今日はボリスさんが素敵なタルトを焼いてくださって、ミーナやマーガレットとお庭でお茶会をしたの。風がとっても気持ちよくて……」
アリアが今日あった出来事を嬉しそうに語るのを、ルーカスは愛おしそうに、慈しむような目で見つめていた。
いつもなら「他の使用人と親しくしすぎるな」と嫉妬しそうなものだが、アリアが心から楽しそうに笑っている姿を見て、彼自身も心が満たされていくのを感じていたのだ。
「そうか……お前が穏やかに過ごせているなら、それが私の最大の幸福だ」
「ルーカス様も、お体に気をつけてくださいね。……お会いできるのを、楽しみにしています」
「ああ。……愛している、アリア」
毎夜繰り広げられる、この甘く穏やかなやり取り。
通信が終わるたび、アリアは胸のあたりをぽかぽかと温かい気持ちで満たしながら、静かな眠りにつくのであった。
第四節:帰還の日と、変わらぬ絆
一週間後。
約束の日曜日の夕方、ヴァルハイト公爵城の門前に豪華なドラゴン馬車が到着した。
城の使用人たちがズラリと整列し、出迎える。
一週間の「平和時間」を満喫し、しっかりと英気を養った使用人たちの表情はどこか晴れやかだった。
馬車の扉が開き、長旅の疲れを一切見せない完璧な装いのルーカスが降り立ってきた。
「ルーカス様! お帰りなさいませ!」
アリアが嬉しそうに駆け寄っていく。
「アリア……!」
ルーカスはアリアの姿を見るなり、周囲の目もはばからず、彼女の華奢な身体をそっと、けれど離さないように優しく抱きしめた。
一週間分の愛おしさと恋しさを確かめるように、彼女の髪にそっと顔をうずめる。
「無事で良かった……。お前がいない一週間は、私にとって百年にも等しい拷問だった……」
「ふふ、大袈裟です。無事にお仕事を終えられて良かったですわ」
お仕置きも、理不尽な怒号もない。
ただ、お互いを愛おしく思い合うあたたかな空気が、二人の間に流れていた。
その光景を後ろで見守っていた執事長ジャンは、懐から取り出した胃薬の小瓶をそっとポケットの奥深くにしまい直した。
「……ふむ。たまには、このような穏やかなお帰りも悪くありませんな」
「そうですね、ジャン様。なんだかルーカス様も、少し優しくなられたみたいです」
メイドのミーナも嬉しそうに微笑んだ。
……まあ、その数分後。
執務室に入ったルーカスが「アリアが一週間で描いた絵日記」や「使用人たちとお茶会をした際の記録」を完璧に保存するための巨大金庫を特注し始め、ジャンが再び胃を押さえて薬を呑み込むことになるのだが——それはまた、別の話である。
極寒と呼ばれたヴァルハイト公爵城に訪れた、最高に平和で甘い一週間。
二人の絆は、離れている時間によってさらに強く、深いものとなっていたのであった。
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