【アナザー⑤】極寒の城に咲いた一輪の花(料理長・メイドたち視点)
第一節:命懸けの献立会議と、厨房の戦慄
ヴァルハイト公爵城の地階に位置する大厨房。
ここは本来、王国屈指の厳格さと静寂が支配する場所だった。料理長である私、ボリスは、先代公爵の時代から三十年にわたりこの厨房を取り仕切ってきた頑固一徹の料理人だ。王立料理アカデミーを首席で卒業し、王宮の晩餐会でも腕を振るった自負がある。
しかし、現在のこの厨房は、連日連夜『命懸けの戦場』と化していた。
「ボリス! 本日の夕食におけるスープの温度、および塩分濃度の計算書を出せ!」
厨房の重厚な扉が叩き割らんばかりの勢いで開かれ、入ってきたのは執事長のジャン殿だった。その手には何枚もの羊皮紙と、いつもの胃薬の小瓶が握られている。
「ジャン殿、落ち着いてくだされ! 今日のスープは最高級の国産鴨と冬野菜をじっくり煮込んだコンソメです。温度も完璧に管理しております!」
「甘い! 甘いぞボリス!」
ジャン殿は眉間にしわを寄せ、悲痛な叫びを上げた。
「ルーカス様からの直々の指示だ! 『アリア様が一口目に召し上がるスープの温度は正確に三十八・五度で維持しろ。それより一度でも高ければ猫舌のアリア様の舌が麻痺し、一度でも低ければ体を冷やすことになる。失敗した場合は厨房の全予算を凍結し、料理人は全員北極海のマグロ漁船へ流刑とする』とのことだ!!」
「ひっ……!? マグロ漁船……!?」
若手の料理人たちが青ざめ、手に持っていた玉ねぎをボロボロと落とした。
これが、現在のヴァルハイト城厨房の日常であった。
かつて『氷の冷血公爵』と呼ばれたルーカス様が、一人の少女——アリア様をこの城にお迎えして以来、我々料理人の評価基準は「王公貴族を唸らせる豪華絢爛な料理」から「アリア様の小さなお口と繊細な胃腸に完璧に寄り添う究極の過保護料理」へと完全にシフトしていたのだ。
第二節:一輪の花と、メイドたちの革命
一方、城の二階にある洗濯室やメイド控室でも、同じく天地がひっくり返るような出来事が起きていた。
新人メイドのミーナと、ベテランメイド長のマーガレットが、アリア様の部屋から戻ってくるなり熱い溜息をついた。
「マーガレットさん……私、もうダメかもしれません。可愛すぎて心臓が持ちません……!」
「落ち着きなさいミーナ! 私だって毎朝アリア様を起こしに伺うたびに、天使のような寝顔を見て尊さで倒れそうになるのを必死で耐えているのよ!」
かつてヴァルハイト城で働くメイドたちは、息をひそめて暮らしていた。
ルーカス様は無駄な私語を嫌い、部屋の調度品一つズレているだけで氷のような視線を投げかけてくるお方だった。城内は常にシンと静まり返り、まるで冷たい墓場の中で働いているような緊張感があったのだ。
だが、アリア様が来られてから、全てが変わった。
「ねえミーナ、今日のアリア様のお召し物見た? 昨夜ルーカス様が特注で職人に作らせたという、淡い桃色のシルクドレスよ!」
「見ました! アリア様が『こんなに素敵なドレス、私には勿体ないです……』って少し恥ずかしそうに裾をつままれた瞬間、後ろに控えていたルーカス様の顔、見た!?」
「見た見た! 無表情を装ってたけど、耳まで真っ赤になって、手に持ってた最高法廷の書類を力任せに握り潰して破いちゃってたわよね!」
「きゃーっ!!」と黄色い声を上げるメイドたち。
そう、アリア様はこの極寒の「氷の城」に咲いた、一輪のあたたかな花だった。
不当な扱いを受けていたご生家から引き取られてきたアリア様は、決して威張ることがなく、我々使用人一人ひとりに対して「いつも綺麗にしてくれてありがとう」「美味しいお料理をありがとうございます」と、心からの感謝と可憐な笑顔を向けてくださる。
その天使のような優しさに、気難しい料理長のボリスも、厳しいメイド長マーガレットも、全員が一瞬で魅了されたのだ。
今や使用人たちの共通認識はひとつ。
『アリア様を全力でお幸せにし、あの不器用すぎる冷血公爵の暴走狂愛からアリア様を温かく見守る』ことである。
第三節:激突! 厨房のプライドvs狂愛の冷血公爵
ある日の昼食時。事件は起きた。
アリア様が体調を崩され、食欲がないとおっしゃったのだ。
これを聞いたルーカス殿下の動乱ぶりは凄まじかった。
「食事が喉を通らんだと!? すぐに国中の名医を集めろ! いや、王立薬草園の希少薬草を全て買い取り、この城の庭に移植するんだ!」と執務室で大暴れし、城内は大パニックとなった。
私——料理長ボリスは、料理人としてのプライドを賭けて厨房の真ん中に立った。
「全員、聞け!! 魔法や薬草に頼る前に、我々料理人がやるべきことがあるはずだ! アリア様が食欲のない時でも、一口食べたら笑顔になれるような、優しく温かい料理を作るのだ!」
『おーっ!!』
若い料理人たちも拳を突き上げた。マグロ漁船への恐怖ではない。アリア様に元気になってほしいという一心だった。
私は、かつて母が作ってくれた故郷のスープをベースに、喉越しが良く、胃に優しい最高級トリュフと若鶏の特製粥を煮込んだ。出汁の旨味を極限まで引き出し、余計な油分を削ぎ落とした、渾身の一皿だ。
完成した料理をトレイに乗せ、私が自らルーカス様とアリア様のいらっしゃるダイニングへと運んだ。
ダイニングルームの空気は重苦しかった。
ルーカス様が眉間に深いシワを寄せ、今にも世界を滅ぼしそうな恐ろしい顔でアリア様の隣に座っている。
「アリア……無理にとは言わん。だが、一口だけでも食べてくれ。お前が痩せていくのを見るくらいなら、私は自分の領有権をすべて放棄してもいい……」
「ルーカス様、大袈裟です……少しお腹が空かないだけですから……」
困惑するアリア様。
「失礼いたします。料理長ボリス、特別なお粥をお持ちいたしました」
私がトレイを差し出すと、ルーカス様が鋭いギロリとした視線を向けてきた。
「ボリス……。もしアリアがこれを口にして一口でも残したら、お前を——」
「ルーカス様、お静かに!」
なんと、アリア様がルーカス様の手をキュッと握り、制したのだ。
「ボリスさんが、私のために作ってくださったのですから」
アリア様はスプーンを取り、お粥をすくってゆっくりとお口へ運ばれた。
緊張の一瞬。ルーカス様も、私も、陰で見守るジャン殿やメイドたちも、全員が息をのんだ。
アリア様のお顔が、ぽっと明るくなった。
「……美味しい。すごく……優しいお味がします」
その瞬間、ダイニングに奇跡が起きた。
アリア様がもう一口、さらに満足そうにもう一口とお粥を召し上がっていく。
「素晴らしい……! アリア様が召し上がられたぞ!!」
陰で見守っていたメイドのミーナが嬉しさのあまり泣き出し、マーガレットがそれを固く抱きしめた。私も胸の奥が熱くなり、料理人人生で一番の達成感に震えた。
……そして、お隣のルーカス様はというと。
「……」
ポーカーフェイスを保ってはいるが、アリア様が美味しそうに食べている姿を見て、完全にフリーズしていた。
青灰色の瞳には感動の涙が微かに浮かび、組んだ手がプルプルと震えている。
「ボリス」
「は、ハッ!」
「……褒美だ。ボリス、お前と厨房の者全員の給与を三倍にする。さらに、このお粥のレシピを我がヴァルハイト家の『絶対秘伝国宝』として永久保存せよ!」
(三倍!? 秘伝国宝!? アリア様が食べれる物を作るだけで!?)
(得意分野で、給料三倍ならずっと仕えてやる!
細かな報告書を書く黒狼衆よりはマシだ!)
「ありがたき幸せにございます!!」
私は深々と頭を下げた。
第四節:極寒の城に満ちる温もり
夜。仕事を終えた使用人たちが、地階の食堂に集まっていた。
「ボリスさん、給料三倍だって!? すごいじゃない!」
「なあに、アリア様が笑顔になってくださったことが一番の報酬さ」
私が鼻を高くすると、メイドのミーナが楽しそうに笑った。
「でも、ルーカス様も本当に不器用ですよね。アリア様が『美味しい』って言ったあと、廊下に出るなり壁に頭をくっつけて『アリアがお粥を食べた……天使だ……生きていることが尊い……』って呟いてたの、私聞いちゃいました!」
「コラ、ミーナ。旦那様の奇行をあまり言いふらすものではありませんよ」
マーガレットが苦笑しながら注意するが、その表情もどこか柔らかい。
かつて、この城は「氷の城」と呼ばれていた。
ルーカス様の冷酷さと孤独が、城全体を凍りつかせていたからだ。
だが今、この城のいたるところには温かい笑い声と、甘くて過保護な嵐が吹き荒れている。
ルーカス様の過剰すぎる狂愛には毎日振り回され、胃を痛め、無理難題に悲鳴を上げている。
それでも、我々使用人は誰もこの城を去ろうとはしない。
「ボリス料理長! 明日の朝食の仕込みはどうしますか?」
若い料理人が元気に尋ねてくる。
「決まっているだろう! アリア様がお目覚めになられた時、世界で一番幸せな香りが城中に広がるような、最高焼き立てパンと特製ポタージュを用意するぞ!」
『おーっ!!』
冷血公爵の歪んだ狂愛と、可憐なアリア様の微笑み。
そしてそれを影で支える我々使用人たちの奮闘。
ヴァルハイト公爵城の厨房には今夜も、最高に温かく、少しだけおかしな幸せの匂いが満ちているのであった。
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