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契約妻は氷血公爵に縛られる  作者: 三日月
第2弾:極秘裏工作&サイドストーリー集
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【アナザー③】地下牢の尋問室と、被害者たちの連帯(ハインツ視点)

第一節:鉄格子の奥の足音と、差し出された一杯の温かい茶



ボールドウィン子爵家が解体され、私がヴァルハイト城の地下深くにある特別取り調べ室へと移送されてから、どれほどの時間が経っただろうか。

湿っぽく冷ややかな石壁に囲まれた部屋で、私は手枷と足枷を嵌められたまま、ガタガタと震えていた。


恐怖は未だに去っていなかった。

あの夜、目の前で精鋭の部下たちが一瞬にして透明な氷像へと変えられ、乾いた音を立てて砕け散った光景が、目を閉じるたびに脳裏に焼き付いて離れない。

『氷の冷血公爵』ルーカス・フォン・ヴァルハイト。

社交界で囁かれていた「冷徹で隙のない野心家」という評価は、完全な欺瞞だった。あの男の本性は、一人の少女——アリアに対する過剰で歪んだ執着心によって突き動かされている、正真正銘の『暴走狂愛者』だ。


重厚な鉄の扉が、ギィ……と嫌な音を立てて開いた。

私は「ついに処刑か」と身をすくめ、ぎゅっと目を瞑った。


「失礼しますよ、ボールドウィン前子爵令息」


部屋に入ってきたのは、漆黒の戦闘服を着た拷問官でもなければ、冷酷な眼差しをしたルーカス本人でもなかった。

手提げのトレイを恭しく掲げた、白髪交じりの老執事——ジャン・トレメインであった。


ジャンは私に向かって軽く一礼すると、取り調べ室の木製テーブルの上にトレイを置き、そこから湯気の立つ磁器のカップを取り出した。香ばしいハーブの香りが、カビ臭い地下室に広がる。


「……何の真似だ? 毒でも盛って、私を静かに処理するつもりか?」

私がかすれ声で警戒すると、ジャンは深々とため息をつき、自らも向かいの椅子を引き寄せて腰掛けた。


「毒など入れませんよ。これはカモミールと胃薬の成分を配合した特製のハーブティーです。……あなたも、今のルーカス様の真実(本性)を目撃して、激しい胃痛と動悸に苛まれていることでしょうからね」


「な……?」


「どうぞ、お飲みなさい。冷めてしまっては効果が薄れます」


差し出されたカップを恐る恐る手に取り、一口口に含む。温かい液体が喉を通り、緊張で固まっていた胃がじんわりとほぐれていくのを感じた。……本当に、ただの胃薬入りのハーブティーだった。



第二節:冷血公爵の被害者同盟


「さて、ハインツ様。取り調べの形式的な書類作成はすでに終わっております」

ジャンは胸ポケットから一冊の手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。

「ボールドウィン家の財産没収手続き、およびあなた様のアリア様に対する『威嚇行為』に対する法的処分の確定です。本来なら即刻打首となるところでしたが……アリア様が『これ以上、私のせいで誰かの血が流れるのは悲しいです』とおっしゃったため、終身刑へと減刑されました」


「アリアが……? あの女が私を救ったというのか……?」

「ええ。アリア様は本当にお優しく、慈愛に満ちたお方ですから。……まあ、その発言を聞いたルーカス様が『アリアが自分以外の男の命を心配した』という事実に対して酷く嫉妬し、脳内で大パニックを起こして『私がその男を直接殺せばアリアの意識は永遠に私に向くのでは?』と支離滅裂な暴論を吐き始めたため、抑え込むのが大変でしたがね」


ジャンは眉間を固く揉みほぐしながら、うつむいた。その顔には、長年の疲労と苦労が刻み込まれていた。


「……お前、大変なんだな」

思わず、私の口から共感の言葉が漏れ出していた。


「大変、などという生ぬるい言葉では表現できませんよ」

ジャンは力なく首を振った。

「あなたがた社交界の貴族たちは、ルーカス様のことを『冷酷無比な氷の怪物』『政治的野心のかたまり』などと評価しているでしょう? だからこそ、あなたのように『政治的な弱み』としてアリア様に手を出そうとする愚か者が後を絶たない」


「……ぐっ」


「ですがね、近くで仕える私から見れば、あの男は政治的野心など一微塵も持っていません。彼が執務室で爆速で書類を処理しているのは、領地を拡大するためではなく『一秒でも早くアリア様の元へ戻り、膝枕をしてもらうため』です。彼が敵対勢力を徹底的に叩き潰すのは、権力を握るためではなく『アリア様の散歩コースの安全を確保するため』です。……この異常さが分かりますか?」


「分かる……!! 痛いほど分かるぞ!!」

私はテーブルを叩いて立ち上がりかけた(足枷の音がかちゃりと響いた)。


「そうだろ!? あの男、狂っている!! 昨夜だってそうだ! 私は貴族同士のドロドロとした暗闘や、機密情報の奪い合いをするつもりで潜入したんだ! それなのに……奴は何と言ったと思う!? 『アリアの寝返りを観察する魔導具を調整していた』『お前たちの侵入で廊下の we 度が1.5度下がったから殺す』だぞ!? 意味が分からない!! 政治も外交も完全にあれの頭から吹き飛んでいた!!」


「ええ、ええ。よくぞ分かってくださった」

ジャンは深く深く頷き、我が子を見るような哀愁を帯びた目で私を見つめた。

「あの男の脳内では、世界の中心がアリア様一人なのです。国家の存亡も、公爵家の栄誉も、アリア様の『今日のおやつが美味しいかどうか』より下に位置しているのですよ」



第三節:愚者への教訓と、老執事の告白


「ハインツ様。あなた様はボールドウィン家という歴史ある家系を滅ぼし、自らの人生を棒に振りました」

ジャンは静かな声で言った。

「ですが、一つだけ言わせてください。あなたは運が良かった」


「運が良かった……? 私が、か!?」


「ええ。もしあの夜、ルーカス様があなたをその場で即座に氷漬けにして粉砕していなければ……ルーカス様は『ボールドウィン子爵領の全住民を強制移住させ、領地全体を更地にしてアリア様のための特大ガーデンを建設する』という計画を実行に移すところだったのです」


「ひっ……! 領地を更地にしてガーデン……!?」


「私が『それではアリア様が心を痛められます』と命がけで止めたため、なんとか財産没収とあなた個人の減刑だけで収まりました。領地の民は救われたのです。あなたの浅はかな陰謀は、一つ間違えれば数万の人間を巻き込む大災害になるところだったのですよ」


冷や汗が全身から吹き出した。

あの男の過保護と狂愛は、個人の感情の域を超えて「広域災害」のレベルに達しているのだ。私という一人の人間がハチの巣をつついたせいで、一国の領地が物理的に消滅しかけていたという真実。


「……ジャン殿」

私は思わず、目の前のおそろしく老けた執事に対して敬称を使っていた。

「お前……よく正気を保っていられるな? あんな化け物の側で、毎日毎日……」


「正気、ですか?」

ジャンはふっと、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「保ててなどいませんよ。私の胸ポケットには常に三種類の胃薬が常備されています。夜夢に見るのです……ルーカス様が『アリアが私以外の空気を吸っているのが許せん、城内の酸素濃度を二倍にしろ』と無理難題を突きつけてくる夢を」


「悪夢すぎる……!!」


「ですがね」

ジャンはハーブティーのカップを指で撫でながら、どこか遠くを見るような目をした。

「先代の公爵夫妻が亡くなられてから、ルーカス様は本当に『氷』でした。感情を殺し、誰も寄せ付けず、ただヴァルハイト家を守るためだけに機械のように生きておられた。あの頃のルーカス様は、見ていて痛々しいほどでした」


ジャンの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「それに比べれば……今のルーカス様は、あまりにも支離滅裂で、過保護で、手が付けられない暴君ですが……少なくとも『生きている人間』の顔をしておられる。アリア様の前で見せるあの照れくさそうな、情けない顔を見られるのなら……まあ、私の胃の二つや三つ、潰れても安いものかもしれないと、最近は諦めておりますよ」



第四節:地下牢の誓いと、新たな日常


「……狂っている」

私は力なく椅子に深く腰掛け直した。

「主人も狂っていれば、従者のお前まで毒されている。ヴァルハイト城は、お城の形をした巨大な狂人病棟だ……」


「そうかもしれませんね」

ジャンは立ち上がり、空になった私のカップをトレイへと戻した。

「さて、ハインツ様。あなた様の移送先は、ヴァルハイト領の最北端にある極寒の鉱山に決まりました。あそこなら、ルーカス様の過保護な甘い空気も届きません。……まあ、寒さだけは厳しいですがね」


「……ふん。あの男の『絶対零度の狂愛』に比べれば、北国の吹雪などぬるま湯のようなものだ」


私が鼻で笑うと、ジャンは満足そうに口元を緩めた。


「頼もしいお言葉です。……ああ、それと最後に一つアドバイスを」

ジャンは扉の手前で振り返り、人差し指を口元に当てた。


「鉱山へ向かう途中で、万が一にもアリア様のお姿を見かけても、絶対に視線を合わせてはいけませんよ。『3秒以上視線を交わした者の領地を差し押さえる』という誓約書の条項は、刑期中の罪人にも適用されますからね」


「……合わせるか! 二度とあの女の半径十キロ以内に近づくものか!!」


私が叫ぶと、ジャンは「お見事なご判断です」と深々と頭を下げ、鉄の扉を静かに閉めた。


重い鍵がガチャリと施錠される音が響く。

地下牢に残された私は、まだほんのり温かいハーブティーの余韻を感じながら、天井を見上げた。


ボールドウィン家は滅んだ。私の野心も破れた。

だが、あの大惨事の中で、あの『狂愛の怪物』の手から命だけは無事に残ったのだ。そう考えれば、私は世界で最も幸運な敗北者なのかもしれない。


「頼むから……あのアリアという娘が、いつまでも健やかでいてくれ……」


もし彼女の身に何かあれば、あの『冷血公爵』が今度こそこの世界そのものを氷漬けにしてしまうだろうから——。

私は冷たい床に横たわり、狂愛の城の平和を、心から祈るのだった。

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