【アナザー②】ボールドウィン子爵家・破滅の全記録(ハインツ視点)
第一節:無知なる愚者の罠と、至高の計算
公爵家の情報長官兼、暗部責任者ハインツ・フォン・クラウゼ。
それが私の肩書きだ。
私は、己の才能と野心に絶対の自信を持っていた。
ボールドウィン子爵家の次男として生まれ、幼少期から「神童」と持て囃された私は、王都の貴族社会において着実に地位を築いてきた。広大な領地、潤沢な資金、そして何より他者を陥れるための精巧な陰謀の組み立て方。それこそが、この醜悪な貴族社会を生き抜くための最高の武器だと信じて疑わなかったのだ。
ターゲットは決まっていた。
『氷の冷血公爵』と呼ばれるルーカス・フォン・ヴァルハイト。
弱冠二十代前半にして公爵位を継ぎ、その冷徹無比な手段で敵対派閥を次々と粛清してきた恐るべき男。社交界では「情を持たない悪魔」「感情が凍りついた氷像」と恐れられている。
だが、私に言わせれば、いくら『冷血』と恐れられようと相手は所詮一人の人間だ。隙がない人間など存在しない。
「ハインツ様、例の娘……アリアの手配が完了いたしました。ヴァルハイト公爵城への潜入、あるいは人質としての身柄確保、いつでも実行可能です」
薄暗い書斎で、私に平伏する配下の報告を聞きながら、私は極上のワインが入ったグラスを傾けた。
アリア。没落寸前の貴族家の娘であり、なぜかあの冷血公爵が『契約』という形で自分の城に囲い込んだという女。
社交界の噂では、「ヴァルハイト公爵が何らかの政治的カードとして利用するために冷酷に拘束している」「奴隷のように扱われている」とされていた。
「ククク……愚かなルーカスめ。いくら冷血を気取ろうと、お前がその手で『囲い込んだ弱点』を作ったこと自体が最大の失敗だ」
私の計画は完璧だった。
アリアを影から脅迫し、ヴァルハイト城の内部機密を盗み出させる。あるいは彼女を誘拐し、公爵家に揺さぶりをかけて莫大な領地と財産を脅し取る。
冷血公爵がアリアをどう扱っていようと関係ない。彼女が「公爵城にいる存在」である以上、事件が起きればヴァルハイト公爵家の名声に傷がつく。冷徹なルーカスなら、スキャンダルを恐れて私の要求に屈するはずだ。
そう——この時の私は、これから足を踏み入れる「地獄」の真の姿を、何一つ理解していなかったのである。
第二節:夜の潜入と、圧倒的狂気のエンカウント
決行の夜。
私は自ら厳選した精鋭の暗殺者や手配師たち十数を率い、ヴァルハイト公爵城の裏手にある広大な庭園へと潜入した。
ヴァルハイト城の警備は厳重で知られるが、私は事前に多額の賄賂を使って城の下男を買収し、裏門の鍵と警備の巡回ルートを手に入れていた。
「ハインツ様、警備の数が妙に少ないですな……。噂に聞く『鉄壁の防衛』とは程遠い」
影に潜む部下が疑問の声を漏らす。
「ふん、所詮は田舎の公爵城だ。我々の計画の前に平伏するがいい」
私はフッと嘲笑った。確かに警備は少なかった。だが、その理由は「警備が甘い」からではなかった。
「警備など不要なほどの過保護な悪魔が、城内を徘徊していたから」だということに、当時の私が気づくはずもなかった。
アリアが与えられているとされる離れの広間へ向かって廊下を潜り抜けていた、その時だった。
ズズズ……と、凍てつくような冷気が廊下の奥から吹き抜けてきた。
九月の心地よい夜風ではない。肌を突き刺し、骨の髄まで凍りつかせるような、致命的な殺気を孕んだ絶対零度の冷気。
「な、なんだこの寒気は……!?」
部下たちが身構え、剣を抜く。
暗闇の奥から、静かな足音が響いてきた。
コツン、コツン、と。
月明かりの下に姿を現したのは、一人の男だった。
流れるような銀髪に、吸い込まれそうなほど鋭い青灰色の瞳。完璧な造形をした美貌——ヴァルハイト公爵、ルーカスその人であった。
彼は白銀の装飾が施された漆黒のコートを羽織り、右手には一冊の重厚な本を抱えていた。
「……ボールドウィン子爵家の次男、ハインツだな」
ルーカスの声には、何の感情も籠もっていなかった。怒りすら感じられない。ただの「ゴミ」を見るかのような、冷酷な眼差し。
「くっ……! なぜここに公爵が!? だが、好都合だ! お前たち、奴を囲め! 殺すなよ、人質にして——」
私が命令を出し切るより早く、ルーカスが静かに口を開いた。
「お前たちは、致命的な勘違いをしている」
ルーカスは抱えていた本——それは何重もの魔法鍵で封印された怪しげな書物だった——をパラリと開いた。
「私は今夜、アリアが『寝返りが打てずに息苦しそうにしていないか』を遠遠くから観察するための特別魔導具の調整を行っていたのだ。一秒でも早く彼女の寝顔を確認しに行かねばならんというのに……なぜゴミ虫が廊下に沸いている?」
「……は?」
私は耳を疑った。寝返り? 観察? 魔導具? 一体この男は何を言っているのだ?
「それだけではない」
ルーカスの青灰色の瞳が、ボッと揺らめくような禍々しい光を帯びた。
「お前たちが我が城に侵入したことで、廊下の温度がわずかに一・五度下がった。もしこの冷気が扉の隙間から漏れ出し、アリアの肌を寒さで冷やしたらどうする? 彼女がくしゃみでも一つしてみろ……お前たちの血をすべて抜き取って温風魔法の触媒にしてもおつりが来んぞ」
(狂っている……!! こいつ、冷血どころか、ただの狂人だ……!!)
背筋に冷たい汗が噴き出した。社交界で恐れられる『冷血公爵』の真実。それは冷酷な計算高さなどではなく、一人の女に対する常軌を逸した「過保護と妄執」の塊だったのだ!
第三節:崩壊する計画と、圧倒的暴力
「やれ! 殺せ! 奴を殺せぇぇ!!」
恐怖に駆られた私は叫んだ。
訓練された精鋭の暗殺者たちが一斉にルーカスへ躍りかかる。鋭い刃が彼の首筋や胸元を狙って閃いた。
だが。
「『凍れ』」
ルーカスが短く一言呟いた瞬間、世界から音が消えた。
パキパキパキッ——!!
空間そのものが凍りついたかのような凄まじい衝撃波。躍りかかった暗殺者たちの全身が一瞬にして透明な氷漬けとなり、空中で静止した。剣を振るう姿勢のまま、表情すら凍りついた氷像と化した部下たちが、そのまま床へと倒れ込み、ガラガラと乾いた音を立てて砕け散る。
「ヒッ……!? あ、あぁぁ……!!」
私は腰を抜かし、尻餅をついた。
一瞬だ。一秒にも満たない時間で、十数人の精鋭が人間としての生命を奪われ、文字通りの「氷の彫刻」に変えられたのだ。
「さて、ハインツ」
ルーカスがゆっくりと歩み寄ってくる。靴底が床の氷を踏み砕く音が、私の脳髄を直接揺さぶる。
「お前はアリアを脅迫し、私を揺さぶる計画を立てていたそうだな。買収した下男の取調べで全て吐かせた」
「ひっ……た、助けてくれ! 申し訳なかった! 領地でも金でも何でもやる! ボールドウィン家の財産をすべて捧げるから……!!」
私は床に頭を擦り付け、必死で命乞いをした。プライドも野心も、全て恐怖の前に霧散していた。
ルーカスは私の前に立ち止まり、冷酷な見下ろす視線を投げかけた。
「勘違いするな。お前が私の命や財産を狙ったことなど、どうでもいい。そんなものは虫に噛まれた程度にも思わん」
ルーカスはかがみ込み、私の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。その瞳の奥には、底なしの暗黒が広がっていた。
「許しがたいのは……お前がアリアの名をその薄汚い口で呼び、彼女を恐怖に陥れようとしたことだ。彼女の平穏な日常を脅かそうとした罪は、国家謀反よりも重い」
「あ、あぁぁぁ……!!」
「ボールドウィン子爵家は今夜限りで潰す。お前の父親も、兄も、親族も全て失脚させ、爵位を剥奪する。領地はヴァルハイト家の直轄地とし、全財産はアリアの『おやつ代』および『ドレス新調費用』として没収する」
(おやつ代……!? ドレス費用……!? 一国の貴族家を一つ潰す理由が、女のおやつ代だと……!?)
あまりの理不尽さとスケールの違いに、私は声すら出なくなった。
この男にとって、政治も、貴族社会の勢力図も、全ては「アリア」という一人の少女を中心に回っているのだ。彼女に危害を加えようとする者は、理由の如何を問わず、国家の法も無視して全力で叩き潰される。
「ジャン」
ルーカスが呼びかけると、暗闇からいつの間にか老執事が姿を現した。老執事は疲れ切った表情で胃薬の瓶をいじりながら、深く一礼した。
「ハインツ・フォン・ボールドウィンの身柄を地下牢へ。取り調べの後、全財産の差押え手続きを爆速で進めろ。アリアが目覚める朝六時までに、ボールドウィン家の存在そのものをこの世から消し去るのだ」
「承知いたしました、ルーカス様。……しかし、また余計な予算と手続きが増えましたな。私の胃が持ちそうにありません……」
「黙れ。アリアの平和を守るためなら、国を一つ滅ぼしても安いものだ」
第四節:終焉と後悔(地獄の底にて)
それからの出来事は、恐ろしいほどのスピードで進んだ。
翌朝、私が地下牢の冷たい床で震えている間に、ボールドウィン子爵家の不正や裏取引が次々と暴露された。ルーカスが事前に集めていた膨大な証拠書類が王立裁判所へ提出され、ボールドウィン家はわずか数時間で爵位剥奪、全財産没収の判決を下されたのだ。
父親と兄は辺境の鉱山へと追放され、私は地下牢で一生を過ごす終身刑となった。
かつて王都で神童と称えられ、華やかな未来が約束されていたボールドウィン家は、たった一夜にして歴史から姿を消したのである。
牢獄の小さな小窓から、遠くヴァルハイト公爵城の美しい庭園が見える。
そこには、豪華なドレスに身を包み、楽しそうに花を眺めるアリアの姿があった。
そしてその隣には、社交界では誰も見たことがないような、甘やかすような優しい笑みを浮かべ、アリアに日傘を差して過保護につき従うルーカスの姿があった。
「冷血公爵……? 嘘だ……奴は冷血などではない……」
私は暗い牢獄の隅で膝を抱え、ガタガタと震えながら独りごちた。
奴は氷などではない。
一人の少女を愛するがゆえに、世界全てを敵に回して焼き尽くすことも辞さない、最も恐ろしい『過熱した狂愛の怪物』だったのだ。
あの怪物に手を伸ばしたこと。それが私の人生最大の、そして取り返しのつかない唯一の過ちだった。
「助けてくれ……アリア様……あの男の狂気から、誰か世界を救ってくれ……!!」
私の悲痛な叫びは、冷たい地下牢の壁に空しく響くだけだった。
ヴァルハイト公爵城では今日もまた、一人の少女を巡る甘く恐ろしい過保護の嵐が吹き荒れているのだろう。




