6話:恋々菜の初めてのドレミ
細心の注意を払いながら、上管と下管そしてベルト呼ばれる一番下のパーツをゆっくりと噛み合わせる。
最初は壊してしまいそうで指先が震えていたけれど、汐織先輩のアドバイスを何度も頭の中で反復しながら、私はどうにかオーボエの組み立てを一人でやり遂げることが出来た。
真っ直ぐに繋がった黒い木管のバディ。
そこに、水から引き揚げたばかりの湿ったリードを慎重に差し込む。
カチリとパズルが完成したような小さな音が響き、私の胸に小さな達成感が湧き上がった。
「うん、バッチリ!きれいに組み立てられたね。それじゃあ、いよいよ音出ししてみようか」
汐織先輩が笑顔で、スチール製の黒い譜面台を私の前に寄せてくれた。
楽譜を置くためのその台の上に先輩から手渡された一冊の薄い冊子が載せられる。
表紙には大きく【基礎練習ノート】と書かれていた。
夏に控える地区大会の課題曲や自由曲。
あの大合奏難解なフレーズを吹きこなすためには、地味で退屈に見えるこの基礎練習をどれだけ積み重ねられるかが、何よりも大切になるらしい。
「まずは、一番シンプルな【ドレミファソラシド】からいってみよう。1音1音、頭の中で音の形をイメージしながら、長く息を吹き込んでみて」
私は譜面台のノートをじっと見つめ、大きく息を吸い込んだ。
ードォ、ォォォォ…。
最初の音は、少し震えながらも静かな講義室の壁にぶつかって真っ直ぐに響いた。
続いてレ、ミ、ファ…と指先で銀色のキィを一つずつ慎重に押さえながら、音の階段を上がっていく。
ピアノの鍵盤を叩けば簡単になるドレミが、オーボエという楽器を通すと、自負腕の息の量や唇の締め方一つで、まるで生き物のように形を変えてしまう。
ーソ、ラ、…プツッ。
「あっ…」
高い音になればなるほど、吹く口元が小さくなり、息を押し込むようには凄まじい力が必要になった。
途中で息が続かなくなったり、指の形がこんがらがったりして、何度も音がピシャっと途切れてしまう。
「大丈夫、焦らなくていいよ。吹けない部分は、何度でも指の形を確認して、繰り返し練習すれば絶対に身体が覚えるから」
先輩の言葉に励まされ、私は何度も同じ小節に巻き戻って、繰り返し息を吹き込んだ。
窓の外からは、遠くの校庭で泥まみれになって走る運動部怒号や別の教室から微かに響いているトランペットなサックスのロングトーンが、夕暮れの空気に溶けるように聞こえていた。
そんな周囲の賑やかなから切り離された、この小さな教室で私は自分自身の頼りない音と、何度も何度も向き合い続けた。
指先がキィの形に馴染みはじめ、さっきまで掠れてい高い音が、一本の細い光のように綺麗に抜けた時、私の背中にじんわりと心地よい汗が伝わった。
「うん、すごく良くなった!毎日こうして基礎練習を繰り返していこうね」
汐織先輩が嬉しそうに微笑みながら、時計に目をやった。
文字盤の針は、間もなく午後5時を指そうとしている。
「あっ、もうこんな時間。そろそろ片付けなきゃ。あっそうだ恋々菜ちゃん」
「はい!何ですか?」
「明日から練習のために、自分の【譜面のファイル】を買ったほうがいいかも、これから自分の楽譜がどんどん増えていくから、ファイルがあったほうが便利だよ」
「わかりました、今週にお母さんと一緒に楽器屋さんに行ってきます。」
汐織先輩からの初めての宿題のようなアドバイスが、なんだか本物の【吹奏楽部部員】として認められたような気がして、私の胸を少し弾ませた。
「ーそれでは、本日の部活動を終了します。お疲れ様でした!」
音楽室のスピーカーから部長の先輩の声が、私たちは楽器を慎重に分解して、ケースへと収めた。
ガラガラと静まり返った校庭の引き戸を開け、玄関でスニーカーに履き替えて外に出る。
校門へと続く坂道を歩き始めると、5月の夕方の少しひんやりとした涼しい風が、火照った私の頬を優しく撫でて通り抜けていった。
空を見上げれば、見事な茜色の夕焼けが世界をオレンジ色に染め上げていて、遠くの山々のシルエットが美しく浮かび上がっている。
高校受験のため。内申点のため。部活にはいらないと不利になるから。
そんな後ろ向きな理由で始まった中学校生活だったけれど、自分の足で歩く道、私の心は驚くほどに爽やかで、澄り切ってきた。
明日の筋肉痛はきっと酷いのだろう。
それでも明日もまた、あの黒い楽器を組み立てて、あの優しい音色を響かせたいと心から願っている自分もいたのだった。




