菫
「嗚呼、麽雪。貴女は私のことをただの同胞としか思っていないのでしょうね」
その声には深い哀しみが籠められていた。
「でもそれでいいの。貴女と同じ家に生まれたこと、貴女の背中を追いかけられること、遠縁とはいえ貴女と同じ血が私の中にも流れていること……それだけで満足なの」
そして、半紙に垂らされた一滴の墨汁のようにその言葉からは悍ましい狂愛が滲み出す。
「けれど叶うことなら、もし本当に叶うことなら一つだけ望みがあるの。たった一つだけ、シンプルな望み。私の身に過ぎた、贅沢な望みかもしれないけれど」
そこには不倶戴天の存在に対する赫怒と恒星の質量よりも重い嫉妬が迸っていた。
「あの無能者じゃなくて、私を産んで欲しいの。貴女の胎の中に還って、あの男と番になることなく、私を身籠って欲しいの……息子なんていない、夫なんていない。女手ひとつで私を育てて。そんな貴女を私が支えてあげたい。嫁にも行かず、一生添い遂げてあげたい」
それは決して許されることではない。彼女も理性では分かっている。日柳一族の規範となるべき立場に居るのだから。それでも本能が求めてしまっていた。生と死。陰と陽。真逆の性質を持ちながら分たれることのない、それ以上に。
だから彼女は────
五つ星旅館、万葉亭。各国の重鎮や数々の有名人が宿泊したと言われている場所。帰国して引き請けた、初仕事で得た報酬を躊躇いもせずに使い、一真はそこに居た。元から財布の紐は緩いので平常運転だ。自分が場違いだとは重々承知していながらも、微塵も縮こまることなく、むしろ開き直って傍若無人に広々とした部屋で寛いでいる。テーブルの上にはつい少し前に食べ終えた料理の皿が雑に放置されている。日柳一族で生を受け、行儀に関してもそれなりに指導されたが、そんなものはとっくの昔に忘却の彼方へと追いやられていた。食事を終えると、すぐに仰向けに倒れる。マナー違反だったが、咎める者どころか覗き見ている者も居ない。精神的疲労もあったので、そのまま安らかな眠りに身を任せようとし、
『記憶にはあったけど、あれがあんたの母親なのねー。マジで恐ろしいわ』
聞こえてはならない声のせいで阻止された。一真の意識が覚醒に傾く。瞼を開けるのも億劫だったが、小蝿が近くを飛んでいるような感覚は流石に無視できなかった。
「……何でお前が此処に居る?」
『何でって……やることなくて暇だから』
「出てくんな。今お前に用はない」
『それって私を都合のいい女扱いしてるってこと? あら、やだわ酷い。いくら契約を交わしてるからって、私のことをそんな風に扱うなんて罰当たりにも程があるわよ』
プンプンといった様子で頬を膨らませる少女。呼吸する度に上下する一真の胸の上で仁王立ちし、睨む姿には威厳も迫力も欠片もない。彼は容赦なく、その額を親指で人差し指で押さえて力を溜め、弾く力を前方へと押し出す。それは少女を彼の上体という陸地から追放するには十分な威力を発揮した。勢いよく落とされた少女は畳の上を二転三転しながら何度も跳ね、最後には両足を天高く上げて倒れる。スカートを履いていたがお構いなしだった。女性の風上にも置けない。
『いきなり何するのよ!』
「我が物顔で勝手に俺の上に乗るのが悪い。大体、俺はお前と契約を交わしてるが、別にお前の暇潰しに付き合ってやる気はない。そういうのは契約の中に含まれてねーだろうが」
『そんなことないわよ。よく見なさいよ、契約書の一番下のところに小さく────』
一真はすかさず携帯端末を取り出し、写真フォルダを開く。そこには彼女の言う契約書らしき写真が保存されていた。本来であれば写真に映るものではないが、魔術による細工を施せば出来ないこともない。術者としての技量はそれなりに問われる、高等技術ではあるが。一真は軽薄な笑みを浮かべる。勝ち誇っているのが丸分かりだった。
「ねーよ。こちとらお前がそういういちゃもんをつけてくると思ってちゃんと携帯のカメラで撮影してんだよ。舐めんな、ばーか」
『ちっ』
神秘的な存在とは思えない、悪辣な顔で舌打ちする少女。仕事が失敗に終わった詐欺師のそれだ。断じて精霊がしていい顔ではない。
『でも力を貸してあげる以上、少しくらいは私の暇潰しに付き合いなさいよ』
「お断りだ。お前に付き合ってると俺の身が持たん」
一真は投げ遣りにそう言うと、ヒラヒラと手を振る。野良猫でも追い払う仕草だ。これは屈辱的だろう。少女も顔を赤くしていた。照れ隠しではない。
「早く帰れ。これ以上俺の精神許容量を無駄にするな。いざって時に余裕がなかったら責任取れるのか? 契約違反だぞコラ」
『……ハァ、もういいわよ』
彼女は長い溜息を吐き、姿を消す。大人しく帰ったかのように思えた。一真は断定した口調で虚空に告げる。
「複数の術式をかけて霊体化してるだけだろ。早く帰れ。用が出来たら喚んでやるよ」
『…………私はあんたの都合のいいセフレじゃないんだけど?』
「精霊が口走っていいセリフじゃねえだろ。現代社会に毒され過ぎだ。一旦向こうでデジタルデトックスでもしとけ」
返事はない。しかし、今度こそ消えた。正真正銘この世界を去った。一真は安堵し、再び眠りにつこうとしたが、
「クソが。あの虫のせいで眠気が飛んじまった」
余計な置き土産をされたせいで、瞼を閉じても薄皮一枚の暗闇があるだけで、一向に意識は暗闇の底へ沈んでいかなかった。むしろ眠ろうと集中する度に覚醒スイッチを刺激され、眠気が醒めていく。数分格闘した末、遂に一真は上体を起こす。
「……ひとっ風呂浴びてくるか」
もうヤケクソだった。旅館で用意された着替えを手にし、彼は誰かを想起させる乱暴な足取りで部屋を出て行った。




