美女の野獣共
道のりは長く険しい────こともなかった。何事もなく、従業員とすれ違うことすらなく、一真は無事露天風呂に浸かることが出来た。ささっと体を洗い流し、さっぱりとした後に一気に身を沈めた彼の口からは腹の底から絞り出すような声が漏れる。
「あ゛ー、さいっこう……っ」
年寄り臭い響きを持っていたが、誰も居ないので揶揄われる心配もない。そもそも揶揄ってきた相手次第では然るべき処罰を与えるくらいには容赦のない、人の命を軽く扱う一真にそんな命知らずな真似を出来る輩は限られるだろう。なので、特に人目も気にせず、羽を伸ばす。
「にしてもまさかあの女と出会すとはな……」
辺りの視界が不明瞭になるほどの厚い湯気とほんの僅かな緊張すらもほぐしていく熱気で一真の思考はぽうっと霞んでいく。周囲への警戒心までもが薄れることはなかったものの、普段は心がけている最低限の自制心が取り除かれていき、心の奥底に仕舞ってある本音が零れた。
(俺を捨てた、俺に親子の情の一片も抱いていなかった女……相変わらずだったな)
一真の脳裏に麽雪と視線を交わした一幕が甦る。優雅な微笑みのうちに秘めてある、こちらを値踏みするような眼差し。己の全てを、己すら知らない何もかもを視通すような、恐るべき魔眼。それが霊視力であることに変わりはないが、現界状態という制限付きとはいえ、少女の千を超える隠蔽と認識阻害の術式を易々と突破する、天賦の才という言葉では到底片付けられない、神々の寵愛を一心に受けたとしか思えないその眼は霊視力という領域よりも遥か高みに至っているだろう。
(あれが日柳麽雪……俺のお袋であり、最強の炎術師。炎の精霊が与える恩恵を十全以上に受け、超高性能の顕微鏡でしか捉えられない原子レベルの熱さえも操る……よくもまぁ俺はあんな化物に啖呵を切って首が繋がってるもんだ、不思議でならねーな)
一真は鼻で笑い、湯の中に居ながらも寒気を覚えた。今更ながら恐怖したのだ。大地に根を下ろす大樹のような精神力を搭載したとはいえ、かつて抱いた時よりも────その時以上に一真は恐怖に打ち震えた。それを成長と捉え、拳を握る。
(懐かしいぜ。やっぱりこえーよ。克服するのは一生無理だ)
深く身を沈める。顔の上半分のみを出す形だ。全身がふやけそうになるほどに肌が熱を吸収していくが、中々体の芯から温まらない。
(だが、あの時の俺はただあの女が怖かった。理解ができないほどに遠く、漠然と強いってことしか分からなかった。未知への恐怖。妖魔を知らずに遭遇した一般人の心境と何ら変わらなかった……今は違う。ハッキリと判る。あの女が莫迦莫迦しいほどに強く、俺が本気を出したとしても五分に持ち込まれるほど強い……正確な力の差が視える)
ゆっくりと、彼の五体が、拒絶していた体温以外の熱を受け入れていく。
(親父もだ。あの男も力のない無能者だった俺を見捨てた……あっちは俺への関心だとか情とかを差し引いて、単純に日柳一族に身を捧げてるから仕方ねーが)
強張りも解け、意識の奥底で堅くきつく縛られていた想いが溢れかける。
「今の俺なら……なーんてな、莫迦莫迦しい。餓鬼かよ俺は」
最後まで口にはしない。一真は過去を抱えることを選択した。二度と戻らないと誓った。記憶喪失に陥ったとしても魂に刻まれたその想いだけは忘れない。そう心に決めたのだ。
「……ハァ、そろそろ上がるか」
一真は頭の上に乗せていた布を右手で取り、重い腰を上げる。そして、シームレスな動きで空いていた左手の人差し指を僅かに動かした。些細なサインだったが、風の精霊は彼の挙動を見逃すことなく、湯煙に紛れる不届者へと風の刃を叩き込んだ。無音で炸裂し、遅れて切り裂かれた湯気のカーテンの先で先手を打とうとしていた黒衣の何者かが首と胴で泣き別れし、絶命していた。一真はそれを凪いだ瞳で一瞥し、辺りを視る。すぐに状況の把握は済んだ。
「ったく、誰だよ。人が物思いに耽ってた時に覗き見してる盗撮魔はよ」
血溜まりとなりかけている湯から飛び出し、一真は着地する。人間離れした軽やかな身のこなしだ。後ろ頭を掻きつつ、女湯の方を振り返る。そこには今仕留めたばかりの黒衣の者と同じ装いをした者達が竹の仕切りの頂点から一真を見下ろしていた。
「ナイスチン。だが、撮影はしていないから盗撮魔ではない。それに目的は君のご立派なモノを観察することでもなければ、その鍛え抜かれた細マッチョに興奮することでもない。だから────」
ぶしゅっ。口元を覆い隠す黒布に欲望の赤が滲んでいく。黒衣に身を包む者達の血走った目は一真の股の間に向けられている。彼は今、腰にタオルを巻いておらず、一糸纏わぬ身だった。無防備だ。生まれたままの姿だ。よって異性を知らない者達からすればあまりにも刺激が強すぎた。言い訳のしようもない状況だったが、恥も外聞もなく、彼女は代表して叫んだ。声だけは一丁前に清廉潔白だった。
「私は、私達は変態などではないッ!!!!」
「説得力皆無なんだよ、むっつり女共」
ロクデナシな一真らしからぬ真っ当な突っ込みが風の刃と共に繰り出された。




