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魔王ヴィフラゾン

 一夜にして一国を丸ごと手に入れたアヴェンティス家に、それを統治する準備など何もなかった。ロムスタールでは首都を失った混乱が続き、残った貴族や役人たちは誰の指示を仰げばいいのか分からず右往左往している。アヴェンティス領もまた、突然の版図拡大に対応しきれず大混乱だ。新しい国名すら決まっていない。主要な家臣を全て失ったシャルマタも、代官として帰還したものの満足に身動きが取れない状態だった。

 ルルシャンティエは山積みになった書類を前に、食事も忘れて働き続けた。


 混乱が続く中、ルルシャンティエの執務室には朝から晩まで人が絶えなかった。

 ロムスタールから来た使者は首都の復興費用の見積もりを持ってきた。アヴェンティス領の家臣は新たな領地の税制をどうするかと尋ねてきた。港湾の商人組合からは今後の交易はどこの旗の下で行うのかという問い合わせが来ていた。国名が決まっていない為、公文書の差出人欄をどうすれば良いかという些末な質問まで飛んできた。

「……国名から決めないといけないわね」

 ルルシャンティエは山積みになった書類を眺めながら呟いた。隣に控える老齢の家臣が恐る恐る口を開く。

「宜しければ私どもで案を——」

「エルアリーゼ様に決めていただかないと意味がないでしょう」

 そう言ってルルシャンティエは立ち上がり、エルアリーゼの私室へ向かった。扉を開けると、当の本人は窓辺に腰掛けて外をぼんやりと眺めていた。

「エルアリーゼ様、国名を決めていただけますか。公文書が止まっています」

「国名?」エルアリーゼは振り返った。「ルル姉が決めてええよ?」

「私が決める話ではありません」

「なんでもええって。語呂の良いやつにしといて」

 ルルシャンティエは三秒ほど黙った。

「……承知しました」

 執務室に戻り、書類の山の一番上に国名案を書き加えた。これで今日の問題が一つ片付いた。残りはまだ三十七ある。


数日後、ルルシャンティエが用意した国名の候補をエルアリーゼに見せた。

「どれがよろしいですか」

 エルアリーゼは一覧をさらりと眺め、一番上の案を指で叩いた。

「エルガリア。語呂が良えね」

「……承知しました」

 かくして新たな国の名はエルガリアと定まった。ルルシャンティエが三日かけて用意した十数案の中から、エルアリーゼが僅か三秒で選んだ名前だった。



 数日後、ようやく国名がエルガリアに決まり、公文書が動き始めた頃、今度はシャルマタから書状が届いた。

 曰く、首都の復興には最低でも二年かかる。港湾施設は無事だが、行政機能が壊滅しており商人たちが不安がっている。西側貴族の中に新体制への不満分子がおり、早急に手を打つ必要がある——。

「つまり人を寄越せということですね」

 ルルシャンティエは書状を畳み、こめかみを押さえた。人材が欲しいのはこちらも同じだというのに。

 そこへまた扉が開いた。家臣が青い顔で飛び込んでくる。

「ル、ルルシャンティエ様! 港の商人組合が、新政権への税率引き上げに反発して、一斉に取引を停止すると——」

「分かりました、私が直接話をします」

 立ち上がりかけたところで、また別の家臣が駆け込んできた。

「アヴェンティス領東部の村々が、混乱に乗じた山賊に荒らされているとの報告が——」

「シャルマタ殿に連絡を。西側の兵を借りられるか確認して」

「し、しかしシャルマタ様はまだ——」

「では私が直接頼みに伺います!」

 ルルシャンティエが再び席に着いたその時、廊下の方からのんびりとした足音が近づいてきた。

 扉が開く。エルアリーゼだった。羊皮紙を片手に、特に悪びれた様子もなく立っている。

「ルル姉〜、書状ってどないして送るん? 前に送ったやつ、あれと同じでええんやろか」

 執務室の全員の視線が、エルアリーゼの手元の羊皮紙に集まった。

 ルルシャンティエは静かに尋ねた。

「……何のための書状かしら?」

「ちょっと煙たいお隣さん達に宣戦布告しよ思てな」

 沈黙。

「……まさかとは思うけど、もう送って無いわよね?」

「グロスリーグには五日前に、楊帝国はまだやね。あっちはなんかちょっと文化?ちゅうか雰囲気が違うやろ?書き方がよう分からんかったんよ」

 またしばらくの沈黙だった。居合わせた家臣たちは誰も口を開けなかった。ルルシャンティエはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い、そして静かに吐いた。

「リーゼ、書状を送る時もそうだけど、事前に一言相談して貰えるかしら?」

「あ、せやった。御免なぁ、次から気を付けるさかい堪忍な」

「ええ、是非そうして頂戴」

 ルルシャンティエはこめかみを抑え書類の山を見た。商人組合への交渉文、シャルマタとの交渉、山賊討伐の手配——そこに今度は北との戦後処理の書類が加わるのだろう。楊帝国の分が先延ばしになったのはせめてもの救いか——

 翌朝、執務室に灯りが消えることはなかった。





 グロスリーグは大陸南部の北寄り、魔族勢力圏の中では最も人間国家群に近い場所に広がる平野の国だ。魔族と人間の境界線上に位置するその地は、常に戦火に晒され続けてきた最前線であり、そこに根付く者たちは自然と好戦的になっていた。強い者だけが生き残るという気風は、グロスリーグの文化そのものになっていた。


 魔王ヴィフラゾンは、そんなグロスリーグの象徴のような存在だった。

 身の丈五メートルを超える巨躯は、同じ魔族の中でも群を抜いていた。岩のように盛り上がった筋肉を鎧で覆い、頭部からは捻れた二本の角が伸びる。その眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、見る者を問答無用に萎縮させた。

 ヴィフラゾンは強かった。それは大陸中の誰もが認める事実だった。

 氷魔法の腕前は同世代の魔族の中で右に出る者がなく、その吹雪のブレスはどんな城壁をも瞬く間に氷漬けにした。しかしヴィフラゾンの真の恐ろしさは力だけではなかった。その野心と、実行力にあった。

 即位して以来、ヴィフラゾンは北の人間国家群へと着実に侵攻を続けた。一つの国を落とす度に領地を広げ、魔族の勢力圏を北へ北へと押し上げていった。人間嫌いを公言し、人間絶滅を高らかに唱える彼の姿は、血気盛んな魔族の民衆から熱狂的な支持を集めた。

 ある日の謁見の間でのことだった。

 人間国家の使者が震える足でヴィフラゾンの玉座へと歩み寄り、膝をついた。停戦の交渉に来たのだ。手土産として莫大な金銀財宝と、五つの村の割譲を申し出た。

「我が国はグロスリーグとの友好を強く望んでおります。どうか剣を収めていただけないでしょうか?」

 ヴィフラゾンは玉座から無言で使者を見下ろした。しばらくの沈黙の後、低く、地の底から響くような声で言った。

「人間が魔族に友好を求めるか」

「は、はい。我々は決して——」

「笑止」

 ヴィフラゾンは立ち上がった。五メートルの巨体が謁見の間に影を落とす。

「貴様らに差し出せるものはその薄汚い命だけよ。どうしてもというなら潔く降伏するのだな。そうすれば皆まとめて縊り殺してやろう」

 使者はその日の内に首を撥ねられた。翌日、その国の王都は氷漬けになった。

 これがヴィフラゾンだった。大陸北部の人間国家にとって、魔王とはヴィフラゾンのことを指した。夜泣きする子供に魔王の名を囁けば泣き止むと言われるほど、その名は恐怖の象徴となっていた。

 そんなヴィフラゾンの元に、南から一枚の書状が届いた。

 側近が恭しく差し出したそれを、ヴィフラゾンは無造作に受け取った。差出人はエルガリア国主、エルアリーゼ。どちらも聞き覚えのない名だったが、封を切って中身を読んだ瞬間、ヴィフラゾンは低く喉を鳴らした。

 宣戦布告だった。

「……エルガリア?」

 側近の一人が恐る恐る口を開いた。

「魔王様、エルガリアとは先日西のロムスタールを併合したアヴェンティス伯爵家が——」

「伯爵家だと?」ヴィフラゾンは眉を動かした。「伯爵の小娘が国を名乗って、あろう事かこの儂に喧嘩を売ってきたというのか」

「は、はい。噂ではロムスタールを僅か数刻で——」

「戯言を」

 ヴィフラゾンは書状を一瞥し、側近に放り返した。

「シャルマタとて魔王だ。そう易々と下されはせん。違うか?」

 側近はそれ以上何も言えなかった。実際、シャルマタ敗北の詳細はグロスリーグにはほとんど届いていなかった。宣戦布告からわずか二日目にして首都が滅ぼされ、一度も戦う事なく降伏したなどという非現実的な話は、情報として信じるにはあまりにも荒唐無稽な話だったからだ。

「鎮圧の軍を送れ。儂自ら出向くまでもない」

 ヴィフラゾンは玉座に深く座り直し、目を閉じた。

 南の小娘が何を企もうと、自分には関係のない。蹴散らして終わりだ。

 そう思っていた。


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