火種
レンゲルヘイルとイスタリア。グロスリーグと隣接した北方の人間国家だ。
この両国では、ここ数日ただでさえ奇妙な事が続いていた。
優秀な文官が、忽然と姿を消していたのだ。
一人ではない。二人でもない。気づけば各部署の実務を担っていた文官たちがごっそりといなくなっていた。貴族出身の官僚たちは事態を把握しようとしたが、そもそも日常の実務を文官たちに丸投げしていた彼らには、何がどこにあるのかすら分からない状態だった。書類の山を前に途方に暮れ、互いに責任を押し付け合い、両国の行政機能は静かに麻痺し始めていた。
そんな混乱の最中、エルアリーゼはレンゲルヘイルへと降り立った。
「メルク、食糧庫はどこにあるん?」
傍らには転移魔法石でエルガリアから呼び寄せたメルクシュタインがいた。メルクは少し複雑な顔をしながらも、頭の中の地図を辿った。
「レンゲルヘイルの主要な食糧庫は三箇所です。城下の北倉、東の農業地帯に隣接した中央備蓄庫、それと港近くの海産物保管庫ですな」
「イスタリアは?」
「イスタリアも似たような構成ですね。イスタリア出身のオルドが管理していましたから、場所は確認済みです」
「ほな案内したってや」
「……故郷の食糧庫を案内するのは些か心苦しいのですが」
「レンゲルヘイルの民に食料は届いとるんか?」
「……それは」メルクは言葉に詰まった。「貴族と軍が優先されますから、民への配給は常に不足していますが」
「ほなええやろ。奪った食料はロムスタールの民に行くんやから」
メルクはしばらく黙っていた。それから小さく頷いた。
「……北倉はこちらです」
食糧庫の中身は、見事なものだった。
収穫されたばかりの小麦が麻袋に詰められ、天井まで積み上げられている。乾燥野菜、塩漬けの肉、豆類——どれも保存状態が良く、量も十分だ。
エルアリーゼは両手を広げた。
次の瞬間、食糧庫の中身が丸ごと消えた。転移魔法でロムスタールへ直接送り込んだのだ。空になった棚と床だけが残った。
「次」
「中央備蓄庫へどうぞ」
同じ事をイスタリアでも繰り返した。主要な食糧庫を片っ端から空にして回るのに、さほど時間はかからなかった。文官たちがいなくなって管理が行き届いていない今、見張りもまばらで、止める者は誰もいなかった。
異変に気づいたのは、翌朝のことだった。
レンゲルヘイルの兵士が備蓄の確認に北倉を訪れ、扉を開けた瞬間、立ち尽くした。
空だった。
麻袋も、積み上げられた小麦も、野菜も、何もかもが消えている。広い倉庫の中に残っているのは、棚と埃だけだった。
「な……何だこれは」
血相を変えて中央備蓄庫へ走った。空だった。港の海産物保管庫へ走った。空だった。
報告を受けた官僚たちが騒ぎ始めた。
「泥棒か⁈」
「これだけの量をどうやって……」
「文官どもが持ち逃げしたのか⁈」
「あいつらが消えたのと関係があるんじゃないか⁈」
怒号が飛び交った。しかし答えを出せる者は誰もいなかった。文官がいなくなり、在庫の記録がどこにあるのかも分からない。そもそも本当に全部消えたのか、一部はどこかに残っているのかすら把握できなかった。
イスタリアでも同じ事が起きていた。食糧庫が空になったという報告が次々と上がり、官僚たちが混乱し、互いに怒鳴り合った。
やがて両国の民にも噂が広まった。食料が消えた。備蓄が全て無くなった。冬が来る前に、一体どうなるのか——。
民の不安が広がり、市場では食料の買い占めが始まった。値段が跳ね上がり、喧嘩が起き、治安が乱れ始めた。
一方そんな事など露知らず、エルアリーゼはロムスタールの天幕の中で、シャルマタとタマノワールと共に転移されてきた食料の山を眺めていた。
「これだけあれば足りるんちゃう?」
「……十分すぎるほどだ」シャルマタは食料の山を見渡しながら言った。「一体どこから」
「レンゲルヘイルとイスタリアの倉庫から全部貰うてきたわ」
「全部⁉」
「うん、全部」
シャルマタは少し遠い目をした。
「……あの二国、今頃大変な事になってるんじゃないか」
「そうかもしれないですニャ……」タマノワールも複雑な顔をした。
「まあ、ウチが心配する事でも無いやろ」
エルアリーゼはあっさりと言って、転移してきた食料の中からタマノワールに声をかけた。
「一仕事してお腹空いたわ〜。タマノワール、この食料使うて何か作れる?」
「簡単な物でよければ作れますニャ……」タマノワールは気を取り直して食材を眺め始めた。「この小麦と野菜があれば、スープとパンは作れそうですニャ」
「ほなお願いしようか」
「畏まりましたニャ……」
シャルマタはもう一度だけ食料の山を見やり、それから深く息を吐いた。
「……ロムスタールの民が飢えずに済むのはありがたい。だが近い内にレンゲルヘイルとイスタリアが何かしてくるぞ」
「その時はその時やわ」
「……お前はいつもそうだな」
タマノワールがパンを焼き始める匂いが天幕の中に漂い始めた。シャルマタはそれを嗅ぎながら、遠くレンゲルヘイルの方角をぼんやりと眺めた。




