降伏
ヴィフラゾンは長い沈黙の後、ゆっくりと頭を垂れた。
「……降伏する」
絞り出すような声だった。五メートルの巨体が、膝をついたまま微動だにしない。屈辱で全身が震えているのが、側近たちにも分かった。
「賢明な判断やね」
エルアリーゼはそれだけ言って、翼を広げた。
「詳しい話はウチの姉やんとやったって。ほな行こか?」
エルアリーゼはヴィフラゾンについてくる様に促すが、そこで彼が負傷し、動けなかった事を思い出す。
(治すのは簡単やけど、そしたらこのおっちゃんまた暴れるやろな)
そこでエルアリーゼは動けないヴィフラゾンの肩に手を置き、魔法を発動させる。
「き、消えた⁈」
残されたヴィフラゾンの配下達に動揺が走る。主が、魔族最強の王が、影も形も無く忽然と姿を消したのだ。しかも何の説明も無い。後に残されたのは僅かな瓦礫と混乱だけだった。
ヴィフラゾンの視界が一変した。
瓦礫の平野が消え、石造りの部屋が目の前に広がっている。書類の山、燭台の灯り、そして目を丸くしたルルシャンティエが椅子から立ち上がりかけていた。
「っ——今、何をした」
ヴィフラゾンは自分の手を見た。足元を見た。壁を見た。一瞬前まで確かにグロスリーグの首都跡にいたはずだ。
「転移魔法やけど」エルアリーゼは首を傾げた。「それが何か?」
転移魔法。二点間の空間を繋ぎ、瞬時に移動する伝説の魔法。古の魔導書にその名だけが記され、実現した者は歴史上誰一人いないとされている——あの転移魔法を、この小娘は人を掴んで当たり前のように使ってみせた。
「……化け物め」
ヴィフラゾンは今日何度目かの呟きを漏らした。今度は怒りではなく、純粋な驚愕だった。
一方ルルシャンティエは深く息を吐いた。
「……リーゼ、いきなり執務室へ現れないでとあれ程言っているのに……」
「あ、ごめんなぁルル姉」
まったく悪びれていない謝罪だった。ルルシャンティエは床に散らばった書類を拾い集めながら、ヴィフラゾンに視線を向けた。
「そちらはグロスリーグの魔王ヴィフラゾン陛下ね。お噂は兼ねてより聞き及んでおります。どうぞ——」
ルルシャンティエは部屋を見渡した。五メートルの巨体に合う椅子など、当然ない。
「そこら辺に座らせりゃええんちゃう?」
エルアリーゼにそう言われれば従う他無い。ヴィフラゾンは黙って床に腰を下ろした。屈辱的な姿勢だったが、天井に頭が届きそうな状況では他に選択肢がない。
交渉は淡々と進んだ。
税率についてはグロスリーグの現行制度を当面維持し、三年後に見直す。領地の扱いについてはヴィフラゾンが引き続き統治を担うが、エルガリアを上位国家とし、その決定には従う事となった。軍事については対人間国家への独断での侵攻を禁じ、エルガリアの承認を得た上での行動に限る——。
「人間への攻撃を制限するというのか」
ヴィフラゾンの声に低い怒りが滲んだ。
「独断での侵攻を禁じるということです」ルルシャンティエは静かに言った。「国家間の戦争は適切な判断の下で行う必要があります。感情で動かれて国境を乱されると、こちらの外交に支障が出ますので」
方便だった。今でさえ自領とロムスタールの問題が片付いていないのだ。その上グロスリーグを併呑するのだから、仕事は更に増える。処理能力はとっくの昔に限界突破し、ルルシャンティエを初めとするアヴェンティス家家臣団は、終わりの見えない書類の山と昼夜問わず、不眠不休で戦っている。だからこそこれ以上要らぬ問題を抱えたくない。態度には出さなかったが、ルルシャンティエは必死だった。
「外交だと? 人間相手に外交など——」
「必要になる場合もございます」
ヴィフラゾンは歯を食いしばった。反論したかった。しかし先ほどの戦いの記憶が言葉を飲み込ませた。
エルアリーゼはといえば、二人のやり取りを聞きながら机の端に腰掛けて窓の外をぼんやり眺めていた。交渉の細部には興味がないらしく、時折あくびをこらえている。
一通りの取り決めが終わった頃、ルルシャンティエは書類を整えながら独り言のように呟いた。
「それにしても人手が足りませんね……。ロムスタールもグロスリーグも国家機能の立て直しに人を割かなければならないのに、肝心の人材がどこにもいない。このままでは私が三人いても足りませんわ」
疲れが滲んだ声だった。ここ数日まともに眠れていないのが、顔ににじみ出ていた。
エルアリーゼはその言葉を聞いて、むくりと身を起こした。
「ほなウチが探してくるわ」
ルルシャンティエが顔を上げた。
「ちょっと——どこへ——」
しかしエルアリーゼは既に窓を開けていた。黄金の翼を広げ、夜風の中へと飛び出していく。
「行ってくるわ。ルル姉は少し休んどって」
「休んでいる場合では——」
黄金の影はあっという間に夜闇に消えた。
執務室に沈黙が落ちた。ルルシャンティエは窓の外を見つめ、それから手元の書類に視線を戻した。
ヴィフラゾンがぽつりと言った。
「……いつもああなのか」
「ええ、いつもいつもああなんです」
ルルシャンティエは苦々しげに答え、次の書類を手に取った。ヴィフラゾンはしばらく無言で、消えた黄金の影があった窓の外を見つめていた。




