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猫管理人と騎士王の隠居生活  作者: tobyisme


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第九章 ウイルスの宇宙

 裂け目が執務室の隅で静かに開いた。何かが折り開かれるような感覚。草原の匂いが先に届いた。猫薄荷の香りが、執務室の冷たい空気とぶつかる。


 宇安は裂け目を跨いだ。足が柔らかい地面を踏み、肩からわずかに力が抜けた。


 ここは知っている。


 陽光が顔に当たる。空気の匂いは記憶の中のものと寸分違わない。彼は何も言わず、前へ歩いた。手を剣の柄に置いたまま、領域を静かに広げ、ナナとフィナをその中に収めた。


 フィナが裂け目から歩み出る。雪白の姿が草原の上でひときわ映えた。振り返って宇安を一瞥し、尻尾で手首をさらりと撫でる。


「帰ってきてもこれ。もう少し力抜きなさいよ」


「癖だ」


 宇安は言った。


 ナナは後ろに続き、指はまだウィンドウ上で動いている。何かを記録している。草地を踏んだ時、足が一瞬止まった。地面を見、空を見た。


「ここの物理法則、私の宇宙とは少し違うわね」


 彼女は言った。


「時間の流れが遅い。救出には有利」


 十分ほど歩いた頃、フィナがある空き地で止まった。


 前足を伸ばし、空中を一撫でする。目の前の空間に波紋が広がり、半透明の膜がゆっくりと姿を現した。


「ここよ」


 彼女は言った。いつもより声が低い。


「宇宙統合の際に残った安定節点。ウイルスの宇宙に安全に接続できる数少ない通路の一つ」


 ナナが歩み寄り、ウィンドウを膜に近づけた。データが流れ、彼女の目がわずかに見開かれる。


「クロウの研究室のエネルギー紋様が検出された」


 彼女は言った。


「彼はここから送信したのね」


 宇安も近づき、指先で膜の表面に触れた。領域の端が浸透し、内部を走査する。


「罠はない」


 彼は言った。


「開けるか」


「二人の協力が要る」


 フィナは尻尾で膜を軽く突いた。


「ナナの演算力で周波数を調整して通路を安定させる。宇安の領域でウイルス側からのエネルギー浸透を抑え込む。どちらか欠けたら、一瞬で崩壊するわ」


 ナナはすでに動いていた。指が素早く走る。


「周波数が想定より複雑ね。クロウがメッセージを送る時に三層の防護を重ねてる。追跡防止用」


 彼女は言った。


「少し時間がかかる」


 宇安が領域を広げ、区域全体を覆った。膜の表面が安定し、隠れるように蠢いていた黒い気配が押し戻された。


 フィナは傍らに静かに座り、膜を見つめていた。尻尾が軽く揺れている。宇安がちらりと彼女を見て、領域をわずかに彼女の方へ寄せた。


 領域が不意に揺れた。


 膜の表面を濃い黒の筋が走り、生き物のように蠢いて、突き破ろうとする。


「ウイルスの探査波」


 ナナは言った。


「通路の異常に気づかれたわ」


 フィナの毛がわずかに逆立った。


「周波数が合った」


 ナナは言った。


「開ける」


 フィナが頷き、尻尾で膜の中央に触れた。


 膜が回転を始め、渦を形成していく。渦の奥に歪んだ景色が見えた。金属の建造物に黒い物質がびっしりと張り付いた、荒廃した世界。


 通路が完全に開いた瞬間、向こう側から鋭いノイズが押し寄せてきた。装甲の警報音と、クロウの信号。とても微弱だった。


「十分」


 フィナが言った。毛が完全に逆立っている。


「通路が保つのは十分だけ」


 宇安は剣の柄を握った。


「行く」


 宇安が先に入った。ナナが続き、フィナが最後。


 フィナは渦に入る直前、尾でナナの手首に触れた。


「ウィンドウを守りなさい。クロウのデータはあなた頼み」


 彼女は言った。一拍。


「宇安が守ってくれるから」


 ナナは彼女を一瞥した。頷いた。


「あなたも。勝手にどこか行かないで」



   ◆



 金属が焼ける匂いと、何かが腐った匂いが同時に押し寄せた。


 さっきの草原の猫薄荷とは別の世界だった。


 宇安の領域が揺れている。あらゆる方向からの精神汚染を押し返しながら。


 ナナのウィンドウが赤い警告で埋め尽くされた。


「濃度が高すぎる」


 彼女は言った。


「五分以内にクロウを見つけないと、こちらの防護も持たない」


 周囲を走査し、表情が沈んだ。


「ここでは現実の改竄はできない。分析だけ」


「それで十分だ」


 宇安は言った。


 フィナの姿が揺らぎ始めた。逆ミームが自動で起動している。


「ついてきて。彼のエネルギーを感じ取れる。前の実験区」


 歪んだ廊下を駆け抜ける。壁は蠕く黒い物質に覆われ、三人の移動に合わせて脈動し、歯の奥が痺れるような音を立てている。


 宇安が止まった。


 剣を体の前に構え、領域を引き締める。


「前方に何かいる。普通のじゃない」


 ナナはウィンドウを確認した。


「戦闘力は通常の感染体を大きく上回る。精神と物理の双方を使う」


 彼女は一拍置いた。


「弱点は胸の核心結晶」


 廊下の奥から、大きな影が現れた。


 三メートルほどの体躯。黒い病毒物質と金属片で構成された体、頭部から数本の捻じれた触腕が生え、先端に紫の光が灯っている。


「先に行け」


 宇安は言った。


 一歩前に出た。領域がナナとフィナを背後に隔てる。


 感染体が叫んだ。触腕が一斉に振るわれ、精神攻撃の波が押し寄せる。


 宇安は動かなかった。


 領域がそれを受け止め、跳ね返した。波が感染体自身に当たり、鈍い音を立てて半歩退いた。


 胸の結晶が見えた。


 宇安は踏み込んだ。剣が結晶に向かって突き出される。感染体は速い。金属の腕が割り込み、剣と激突した。火花が散る。


 手首を返す。剣が滑り、腕を回り込んで再び結晶を突く。触腕が狂ったように振り回され、精神攻撃が領域を叩き続ける。宇安の額に汗が滲んだ。だが領域は退かない。


 彼は地を蹴って跳んだ。上から剣を振り下ろす。触腕が剣を絡め取ろうとした。手首を捻り、剣を引き抜き、同時に左の拳を胸に叩き込んだ。


 結晶に亀裂が入った。


 剣がその亀裂に沿って刺さる。


 感染体が崩れ落ちた。黒い物質がゆっくりと灰になっていく。


 宇安は剣を収め、倒れたものを見下ろした。


「感染された管理人じゃなかったのが救いだな」


 彼は言った。


「弱くはないが、まだ対処できる範囲だ」


 振り返り、二人に追いついた。



   ◆



 角を曲がると、クロウの研究室の扉があった。


 黒い物質に完全に塞がれている。隙間から微弱な信号が滲み出ていた。


 宇安が剣で斬った。物質は裂けたが、すぐに再生した。


「ナナ、扉の錠前を。フィナ、再生を遅らせろ」


 ナナがウィンドウを扉に当て、指を走らせた。フィナが飛び乗り、白い前足を黒い物質に押し当てる。逆ミーム粒子が浸透し、蠢動が目に見えて遅くなった。


 廊下の奥から、足音が無数に近づいてくる。


 宇安は片手に剣を持ち、廊下に向き直った。


「開いた」


 ナナは言った。


 扉が開く。宇安が中に入った。


 クロウが制御盤の前に倒れていた。装甲はあちこちが損壊し、エネルギーランプが赤い光を弱々しく点滅させている。


 宇安は彼を背負い上げた。


 ナナがスキャンした。


「バイタルは安定してる。でも今すぐ撤退しないと」


 フィナはすでにナナの肩に乗っていた。尻尾が裏口を指す。


「裏口。あっちの方が少ない」


 裏口を抜けた先に、十数体の通常感染体がいた。


 宇安の剣が弧を描いた。


 感染体は次々に倒れ、彼の足を止めることはできなかった。


「通路はすぐそこ」


 フィナが言った。


 ナナのウィンドウに表示された通路の安定性が急速に低下している。残り二分。


 通路の入口が見えた。激しく脈動する渦。その周囲に数十体の感染体が群がり、先ほどと同等の個体も二体いた。通路を壊そうとしている。


 宇安はクロウをナナに渡した。


「先に入れ。俺が押さえる」


 ナナがクロウを支えて通路に走った。


 宇安は二体に向き直り、領域を広げた。


 二体が同時に仕掛けてきた。精神攻撃と物理攻撃が重なる。


 宇安の剣が物理攻撃を斬り、領域が精神攻撃を弾いた。


 そして踏み込み、二つの結晶を、続けざまに貫いた。


 鈍い音が二つ。二体が倒れた。


 宇安は振り返り、走った。


 通路が閉じる寸前に、飛び込んだ。


 通路が背後で閉じた。



   ◆



 草原の陽光が顔に当たった。


 猫薄荷の匂いが鼻を満たした。


 張り詰めていたものが、一度に全部、解けた。


 宇安はクロウを草地の上にそっと下ろした。


 ナナが膝をついてスキャンしながら、同時に仲裁局へ連絡を入れている。


「裂け目を私の宇宙に開いて。クロウはそこから自分の宇宙に戻れる」


 彼女は言った。


「バイタルは安定。宇安を治した時の人を呼ぶわ。クロウが目を覚ましたら、この件は仲裁局に完全報告する。このウイルスは、私たちが思っていたよりずっと深刻よ」


 裂け目がすぐ近くで静かに開いた。仲裁局の返答は速かった。


 フィナは草地に伏せていた。クロウを見つめている。尻尾が宇安の足の甲にそっと掛かっていた。


 宇安は彼女の傍に座り、手を伸ばして頭を撫でた。


 何も言わなかった。


 陽光が暖かい。風が猫薄荷の叢を抜け、細かな音を立てている。


 しばらくして、クロウの指が微かに動いた。


 ナナのウィンドウが音を立てた。彼女は目を落とし、表情が一瞬沈み、それからゆっくりと緩んだ。


「クロウの装甲に、ウイルスの完全な進化過程が記録されていたわ」


 彼女は言った。


「最後のエネルギーで、対ウイルスの核心データをバックアップしてた」


 フィナが顔を上げた。尻尾がゆっくり一振りした。


 宇安は背後の猫薄荷の叢に体を預け、目を閉じた。


 風が草原を渡っていく。


 静かで、暖かかった。

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