第六章 救命
メッセージが届いたのは、ある日の午後のことだった。
宇安はソファに背を預けていた。ナナはエルフ王国の事後報告を処理している。執務室はいつも通り静かで、あるウィンドウが不意に光り、いつもと少し違う通知音を鳴らした。
――低い。
遠くから届いたような音だった。
ナナの指が止まった。
すぐには開かなかった。そのウィンドウを二秒ほど見つめてから、ゆっくりと手前に引き寄せ、正面に据えた。
宇安が顔を横に向けて一瞥する。
送信者はクロウ。
内容は二文字だけだった。
『たすけて』
その下に、長い文字列が続いている。
ただの文字化けではない。見た瞬間に目の奥がわずかに歪むような、そういう類のものだった。文字がウィンドウの中で微かに蠢いている。まるで生きているかのように。
宇安はその文字列を二秒ほど見つめた。
目がわずかに細くなった。
彼はこれを知っている。
この形式ではない。この色でもない。だがこの――見ているだけでどこかが狂うような感覚は、廃墟の中で出会ったものと同じだった。感染体が纏っていたあの気配。視界の端で何かが蠢き、理性より先に本能が後退を求める、あの感覚。
「何の悪戯だ」
彼は言った。声は平坦だが、語調がもう平常ではなかった。
「クロウが送ったのか」
ナナは答えなかった。
立ち上がっていた。
動きは速い。デスクを回り込んで部屋の反対側へ歩く。そこに壁がある。他の壁と変わらないように見えるが、彼女がどこかに手を触れると、壁面が無音で一筋の隙間を開けた。
中には装置があった。
大きくはない。濃色の金属製の外殻、幾つかのインジケーターランプ。すべて消灯している。
彼女はそれを起動した。
ランプが順に灯る。
そして執務室の中で、何かが変わった。
音ではない。光でもない。何か言葉にならない感覚――空間全体がわずかに密度を増したような、外の一切が壁の向こう側に隔てられたような。
「遮断装置」
ナナは言った。声は落ち着いている。視線は装置から離さない。
「起動すれば、この部屋の中の一切は外部から感知されなくなる。情報、音、存在――すべて遮断される」
彼女は一拍置いた。
「ミームも含めて。ただし、すでに中にミームがある場合は、その限りじゃないけど」
そう言い終えると、ウィンドウを引き寄せ、パネル上で何かの操作を始めた。指先が空中で素早く動き、補助ウィンドウが幾つか展開される。表示されている数値は、宇安にはまるで読めなかった。
「どれくらいかかる」
宇安は言った。
「二十分」
ナナは言った。顔を上げない。
「メッセージの外層に付着しているウイルスを一層ずつ剥がさないと、中身が読めないの」
宇安はまだ微かに蠢いている文字列を見、それからナナの表情を見た。
とても平坦で、とても真剣だった。
彼がこれまでほとんど見たことのない種類の真剣さだった。何か面白い問題を処理している時に目が輝く、あれではない。本当にリスクを計算している人間の顔だった。
彼は立ち上がり、手を剣の柄に置いて、下へ押し込んだ。
領域が展開される。
ナナはそれを感じ取り、指を止め、顔を横に向けて彼を一瞥した。
「領域の中なら」
宇安は言った。
「先に読める。仮にこのウイルスが視覚を介して伝播するものだとしたら、領域の中にいれば影響を受けない」
彼は一拍置いた。
「ただし、理解そのものを介して伝播するタイプだった場合は、領域を解除する前に解決策を見つける必要がある。多少のリスクはある」
ナナは領域の境界を一秒ほど見つめた。
「分かってる」
彼女は言った。そしてウィンドウを正面に引き寄せた。
「なら、先に読むわ」
彼女はメッセージを開いた。
フォーマットが奇妙だった。通常の通信記録ではない。日誌のようだった。一日ずつ書き記されていて、文字の配列は整然としている。クロウらしい精確さだった。
宇安は彼女の傍に歩み寄り、並んで立った。
二人で、読み始めた。
◆
探索日誌 第一日
本探索には「絶対排他装甲」を携行。第七日までに帰還予定。
装甲の動作は正常。内部の酸素、水、圧縮携行食の備蓄は十分、排泄物容器も配置済み。外部感知遮断機能は正常――装甲内の私は、あらゆる外部生命体にとって、視覚・聴覚・嗅覚をはじめとする一切の知覚手段において、存在しないのと同義である。
目標宇宙に到着。
ここは宇安が感染体と交戦した場所だ。廃墟の規模は予想以上に大きく、一帯には言い表しがたい圧迫感が漂っている。空気そのものがウイルスの残滓の重さを帯びているような感覚。
廃墟の深部で、遺体を一体発見した。
感染体ではない。管理人だ。
そう断定できるのは、遺体に仲裁局の徽章が付いていたからだ。この徽章の製作技法は仲裁局固有のもので、複製はできない。私は仲裁局の全メンバーの顔を知っている。
だが、この人物には覚えがない。
記憶を長い時間かけて精査した。
――ない。
私の記憶にこの人物は存在しない。しかし彼が身に着けている徽章は本物だ。
◆
「仲裁局」
宇安は言った。
「最古参の管理人たちか」
「ええ」
ナナは言った。視線はウィンドウに据えたままだ。
「多元宇宙で最初に現れた数名の管理人たちよ。最初の管理人条例を制定した存在で、管理人体系全体の基盤を作った。仲裁局の役割は、管理人同士で深刻な違反行為が発生した際に介入すること――他宇宙への侵略、資源の強奪、他の管理人への加害、そういったもの」
彼女は一拍置いた。
「仲裁局のメンバーは通常の管理人より厳格な審査を受けるの。公正さを保つために。加入できるのは、他の管理人たちから信頼に足ると認められた存在だけ。処罰手段もより厳しい。身体的自由の制限、宇宙資源の徴収、最も重い場合は管理人資格の剥奪、あるいは――」
彼女は言い切らず、先を読み進めた。
「つまり、もし仲裁局のメンバーが他の宇宙を侵略しようとした場合は」
宇安は言った。
「審査を通らないわ」
ナナは言った。
「加入してから初めてそういう意思を持った場合、あるいは、最初からそういう意思を持ったことが一度もない場合を除いて」
◆
探索日誌 第一日(続)
遺体の状況を仲裁局に報告。
仲裁局の返答は速かった。しかし内容が不安を残す――この人物に関するいかなるデータも存在しない。徽章の製作過程にも該当する記録がない。しかし製作手法は確かに仲裁局固有のものであると確認された。
仲裁局固有の手法で作られた徽章が、仲裁局に一度も存在したことのないメンバーの遺体に付いている。
仲裁局は注意を促した。逆ミーム属性を持つ物体、または記憶消去系統の能力を持つ存在に備えよ、と。
――遺体を直接見たにもかかわらず、この存在は私の記憶の中では依然として空白のまま。この事実自体が、一つの警告だ。
探索日誌 第二日
宇安が言及していたミーム・ウイルスの実体サンプルを発見。
基礎検査を実施。初期判断として、感染・支配・狂暴化の中核効果を持つが、より精密な制御能力は見られない。伝播経路は完全には特定できていないが、空気接触が主要な媒介の一つと推定される。
囚人を二名連行した。
囚人Aは開錠技能の保持者。過去に侵入強盗を生業としていた。囚人Bには基本的な対ミーム処理を施し、隔離区域に収容。
囚人Aを感染環境に投入。
感染は速やかに生じた。その後、彼に残ったのはドアへの体当たりと、咆哮だけだった。目的もなく、方向性もない。かつて彼が開けてきたのと同型の錠前を目の前に置いたが、見向きもしない。ただ肩でドアを打ち続けるだけだ。
技能は消えていた。殺すこと以外、何も残っていない。
継続観察する。
探索日誌 第三日
扉が開いた。
たった一日だ。
囚人Bは死亡していた。感染者が遺体を引き裂いている。捕食しているようには見えない。存在してはならないものを破壊しているような、そういう壊し方だった。
私は最初、技能は消失したと考えていた。
だが一日後、扉が開いた。
――あれは消失ではない。奪われ、そして再学習されたのだ。
ウイルスは感染初期に感染者の技能を一旦消去する。だが放棄はしていない。ウイルスは読み取っているのだ。感染者自身の記憶と神経回路を使い、一つ一つ学び直している。学習を終えた時点で、その技能はもう感染者のものではない。
――ウイルスのものだ。
仲裁局のメンバーは、全員が任意に宇宙の裂け目を開く能力を持つ。
もしあの遺体が仲裁局のメンバーであり、もし彼が感染していたとすれば――
駄猫の宇宙に生じた裂け目の出所は、もう探す必要がない。
◆
「止めてくれ」
宇安は言った。
ナナはウィンドウを止め、彼を見た。
「あの感染者の宇宙」
宇安は言った。
「管理人が異常化し制御を失い、裂け目を開いた――俺たちはずっと、あいつが源だと思っていた」
「でも、クロウの推論が正しければ」
ナナは言った。
「あの管理人も感染された側であって、感染の起点ではない」
彼女の尻尾がゆっくりと揺れている。速度は普段よりずっと遅い。
「ウイルスがどこから来たのかは、まだ分からない」
宇安は一秒沈黙した。
「続けてくれ」
◆
探索日誌 第四日
見つけられる限りのあらゆる記録を調べた。
――ない。
検索条件に誤りがないことは確認済み。データベースの完全性も確認済み。
……それでも、ない。
削除されたのではない。削除なら痕跡が残る。ここには何もない。これらの出来事が最初から起こらなかったかのように。連行した二人の囚人が、どこからともなく湧いて出たかのように。
あの遺体が私の記憶に存在しないのと、まったく同じように。
ただし、一つ確認できることがある――廃墟はまだそこにある。遺体もまだある。物理的に存在するものには、手を出せないのだ。この能力が及ぶのは記憶、文字、記録の類だけで、現実そのものは射程外にある。
それで少しだけ気が楽になった。
少しだけだが。
この日誌が明日まで残っている保証はない。
永遠記録庫に入れる必要がある。
◆
「永遠記録庫」
宇安は言った。
「何だそれは」
「クロウが作ったものよ」
ナナは言った。
「記録のみ可能で、削除は一切できないデータベース。一度記録された情報は永遠にそこに在り続ける。いかなる手段をもってしても消去できない」
彼女は一拍置いた。
「その記録庫の中の資料を閲覧すると、閲覧者はその内容を永遠に記憶し続け、忘れることができなくなる。だから気軽に見てはいけないし、不必要な人間を接触させてもいけない。過剰に閲覧すると、精神崩壊に至る」
彼女は一瞬間を置いた。
「過去に複数の管理人が借用した実績がある。信頼性は広く認められているわ」
「彼がこれを作ったのは」
宇安は言った。
「消去される可能性のある情報を保存するためか」
「ええ」
ナナは言った。眉をわずかに寄せ、一瞬沈黙する。視線はウィンドウに据えたままだ。
「ただ、一つ辻褄が合わないの」
「メッセージだ」
宇安は言った。
ナナが振り向いて彼を一瞥した。
二人の視線が一秒交わった。
「運搬の過程で」
宇安は言った。
「もしウイルスが存在痕跡を消去する能力を持つなら、このメッセージは届く前に消えているはずだ。だが消えていない」
「可能性は二つ」
ナナは言った。
「一つ目。メッセージに付着しているミームはウイルスそのものではなく、クロウが応急的に施した何らかの保護層。メッセージが短期間のうちにウイルスの能力で消去されないようにするためのもの」
彼女は一拍置いた。
「二つ目。このメッセージはそもそもクロウが送ったものではない。あるいは――クロウが偽のメッセージを送った。日誌は偽物で、すべてが罠」
「検証できる」
宇安は言った。
「ええ」
ナナは言った。すでに引き出しから紙を一枚取り出し、ペンを手に、メッセージの内容の一部を書き写していた。数行の文字。字は丁寧だ。
「一つ目の可能性が正しければ、ミームの保護層は外部環境に触れた瞬間に効力を失うわ。紙の上の文字は消える」
彼女は立ち上がり、宇安を見た。
「守って。あそこまで一緒に」
宇安は何も言わなかった。領域がそっと広がり、境界が遮断装置の範囲に沿うように伸びて、ナナを覆い続ける。
彼女は壁際まで歩き、その紙をそっと外へ押し出した。
領域の範囲を離れた瞬間――
紙の上の文字が消えた。
鮮やかに、きれいに。最初から何も書かれていなかったかのように。




