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猫管理人と騎士王の隠居生活  作者: tobyisme


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第五章 世界一役立たずな超能力大会

 翌朝、ナナはすでに作業をしていた。


 宇安はソファの上で身を起こし、目をこすり、辺りを見回した。ウィンドウは相変わらず大量にあり、ナナも相変わらずあの位置に座っている。尻尾は椅子の横でゆっくり揺れていて、まるで一歩も動いていないかのようだった。


「何時に起きた」


「寝てないわ」


 ナナは顔も上げず、指をウィンドウ上で走らせながら言った。


「昨日処理しなかったものが幾つか出てきたの」


 宇安は「ん」と応え、立ち上がって背伸びをすると、ウィンドウの列の傍まで歩いていった。


 その中から一つを引き寄せる。


 世界一役立たずな超能力大会のアーカイブだった。第一シーズンから整然と、二十数シーズン分が並んでいる。彼はそのウィンドウをソファの横に引っ張り、座り、第一シーズンから見始めた。


 執務室はそのまま、しばらく静かになった。


 ナナは仕事をし、宇安は番組を見ている。時折どこかのウィンドウが通知音を鳴らし、ナナが手を伸ばして消し、作業を続ける。二人とも口を開かなかったが、何か話すべきことがあるとも思っていなかった。


 第十八シーズンまで来た時、宇安が不意に口を開いた。


「この大会にエントリーするには、どんな条件がある」


 ナナの耳が動いた。


 すぐには答えず、手元のウィンドウを一つ脇に押しやって、顔を横に向けた。


「オーディション形式よ。オンラインで申込書を出して、通れば出場できる」


 彼女は言った。


「ただ、今は審査ができない状態なの」


「なぜ」


 ナナは背もたれに体を預けた。


「審査員に問題が起きたのよ」


 彼女は言った。


「この番組は第一シーズンからずっと続いてきたんだけど、首席審査員がね、何十年も奇妙な超能力を見続けているうちに、自分の『最も役立たず』を判定する能力を疑い始めたの」


 口調は穏やかだったが、口角がわずかに動いた。何か面白いことを思い出したような気配がある。


「何が『役立たず』で、何が『役に立つ』のか、もう分からなくなったって。最初はたまに愚痴る程度だったのが、そのうち会議の度に人生の意義を問うようになって、最後には台本すら読めなくなった。自分には何かを審査する資格がない、って。それで番組全体が止まっちゃったの」


 宇安はウィンドウを一時停止した。


「止まってどれくらいだ」


「三ヶ月」


 ナナは言った。顔を横に向け、彼を一瞥する。口角が上がっている。


「どうしたの、あなたもエントリーしたいの? 何か特別な超能力でもある?」


「猫撫で」


 宇安は言った。


 ナナは彼を見た。


「何?」


「正確に言うと」


 彼は言った。


「あらゆる猫科生物を十秒以内に気持ちよく眠らせる按摩技法だ。力加減で、単に心地よくさせるだけもできるし、完全に眠らせることもできる。コントロールは自在だ」


 彼は一拍置いた。


「ただし、最も役立たずな超能力大会にエントリーするなら、一番極端なバージョンで見せる――十秒であらゆる猫を気持ちよく眠らせる、というやつだ」


 ナナは二秒ほど彼を見つめた。


 そして、ごく自然に、頭を彼の手に預けた。


 何も言わなかった。ただ、そうした。確かめると決めた猫のように。


 宇安は別に止めなかった。手が自然に動き始める。力加減は重すぎず軽すぎず、どこにあるとも言えない、けれど猫なら必ず知っている――あの場所を、正確に捉えた。


 三秒。


 ナナの体が制御を離れて沈み始めた。ありとあらゆる力が、一瞬にして抜き取られたかのように。彼女は堪えようとしたが、それは酷く困難だった。何かに抗っているのに、その何かの方が、彼女の体が何を求めているかをよく知っている。


 五秒。


 彼女はほとんど彼の手の傍に崩れ落ちていた。尻尾が垂れ、耳がふにゃりと下がり、瞼が落ちていく。頭の奥でまだ声がしている――だめ、だめだって。けれどその声はどんどん遠くなり、どんどん薄れ、やがて消えた。


 十秒。


「これ、は……反則よ……」


 声が溶け合って、舌がまるで言うことを聞いていない。


「これ……おかしい……私は、管理人……私……」


 ――そして、尻尾が爆発した。


 彼女はがばっと身を起こし、耳を伏せ、完全に不意を突かれた衝撃が顔に貼り付いている。三秒ほどかけて自分を立て直し、深く息を吸い、尻尾を無理やり抑え込んだ。


「あなた」


 彼女は言った。彼を指差している。声がいつもより半音高い。


「どうやったの、これ」


「練習した」


 宇安は言った。


「駄猫で」


「駄猫」


 ナナは繰り返した。その答えを懸命に消化しようとしているようだった。


「あの、一日中日向ぼっこして寝てるだけの猫が」


 彼女は言った。


「あなたにこれを身につけさせた」


「ああ」


 宇安は言った。


 ナナはしばらく沈黙した。


 視線がどこかへ泳ぐ。何か考えているようだったが、尻尾はまだ完全には収まっておらず、時折ぴくりと震えている。


「エントリーしなさい」


 彼女は言った。


「私がサンプルになるから」


「……」


「大会は実演が必要でしょう。私がなる」


 彼女は言った。口調は既にいつもの軽やかさを取り戻している。ただし、耳はまだわずかに伏せたままだ。


「ついでに、観客としても」


「あんたは管理人だ」


 宇安は言った。


「管理人だって観客になれるわ」


 ナナはもう申込フォームを呼び出していた。彼の方へ押しやる。


「記入して。まず審査員の問題を片付けないと、番組が再開できないから、正式なエントリーはその後ね」


 彼女は一拍置いた。


「今日行くわよ」


 宇安は彼女のタスク一覧を一瞥した。


「これ、今日の予定タスクに入ってないだろう」


「もっと大事なことができたの」


 ナナは堂々と、フォームをさらに彼の方へ押しやった。


「行くわよ」



   ◆



 首席審査員は、番組制作ビルの最上階に住んでいた。


 オフィスの窓は街の中央広場に面しており、眺めは良い。ただし、カーテンは閉じられ、室内は暗く、長い間堆積した沈黙のような重苦しさが漂っていた。


 宇安とナナが中に入った時、首席審査員はデスクの向こう側に座っていた。


 机の上には未開封の書類が幾つか積まれ、手元には冷めきったお茶が一杯。カップの縁には茶渋の輪が残っている。本人はデスクの表面を見つめている。何を見ているのか、何を考えているのかも分からない。


「審査員」


 ナナはソファにどさっと腰を下ろした。


「話を聞かせて。どうしたの」


 審査員が顔を上げた。


 白髪交じりの老人だった。目は虚ろではない。ただ、とても深い疲労を帯びていた。一つのものを何度も何度も使い続けた末のような疲れ方だった。


「管理人さま」


 彼は言った。


「一つ、ずっと考えていることがあるのです」


「何?」


「『役立たず』とは、何なのでしょうか」


 声は小さかった。何度も言った後で、もう力が入らないのだろう。


「この番組を何十年もやってきました。何千もの超能力を見てきました。水を上に流す者、影に喋らせる者、次の一秒後に自分がしゃっくりをすることを正確に予知する者――私はずっと、何が『役立たず』かを分かっていると思っていました。でも最近、こう思い始めたのです。あらゆる能力には、まだ見つかっていないだけで意味があるのではないか、と。ならば私のこの審査は、一体何の意味があるのか」


 執務室が静かになった。


 ナナはソファに体を預け、その老人を見つめた。


 尻尾が肘掛けの上でゆっくり揺れている。しばらく揺れて、不意に口を開いた。


「替えればいいじゃない」


 口調はごく気軽だった。窓を開けて換気でもする、とでも言うように。


 宇安は彼女を横目で見た。


「替える」


「そう」


 彼女は言った。


「新しい審査員に替えて、続ければいいのよ」


 言い終えると、その回答が至極妥当だと思ったのか、尻尾の揺れが一段悠然とした。


「替えた後、どうする」


 宇安は言った。


「新しい審査員が何十年か経ってまた人生の意義を疑い出したら、番組がまた止まる。またあんたが来るのか」


 ナナは少し考えた。


「また替える」


 彼女は言った。


「人はいくらでもいるもの」


 宇安は彼女を見つめた。


 何も言わなかった。ただ、とても穏やかに、彼女が自分でどこがおかしいか気づくのを待っている――そういう沈黙だった。


 ナナはその視線の中で三秒ほど堪え、尻尾の動きが一拍遅れた。


「……まあ、いいわ」


 彼女は言った。


「もっといい方法があるの?」


「俺がやってみる」


 宇安は言い、手を剣の柄に置いた。


「少し下がって」


 ナナは二歩下がった。


「何をする気?」


「見ていれば分かる」


 彼は手を下へ押し込んだ。


 領域が展開される。


 音もなく、光もなく、あの輪郭のはっきりした壁が静かに形を成し、オフィス全体を包み込んだ。


 審査員が一瞬きょとんとし、それから瞼が落ち始める。堪えようとして、二秒。堪えきれず、頭がゆっくりと椅子の背に預けられ、眠りに落ちた。


 顔の筋がほどけ、先ほどよりずっと柔らかくなっている。


 オフィスの外から微かに物音がして、すぐに静まった。おそらく廊下にいた人間も一緒に眠ったのだろう。


 ナナは領域の縁に立ち、中を覗き込んだ。


「彼らの『覚醒』を斬ったの?」


「覚醒と、迷い」


 宇安は言った。声は穏やかだ。


「まず覚醒を斬って眠らせる。それから迷いを斬る。強い情熱を抱いてこの道に入ってきた人間なら、夢の中で一番最初の自分を思い出す。自分がなぜこれを始めたのか、を」


「なぜ起きたまま迷いだけを斬らないの」


 ナナは言った。


「迷いがなくなった人間がまともなことをするとは限らない」


 宇安は言った。


「ここにいる人間を俺は知らない。迷いを失くした後に何をするか分からない。眠っている方が安全だ」


 ナナは振り返り、ぐっすり眠っている老人を見た。


 顔の疲労がずいぶん薄らいでいる。口角がわずかに上向いている。長い間思い出さなかった何かを、夢の中で見ているようだった。


「面白いわね」


 彼女は言った。視線はまだその顔に止まっている。口調にわずかな惜しさが混じった。


「起きたまま見せればよかったのに。目を覚ましたまま迷いを斬ったら、何をするか分からない――それって面白そうじゃない」


「俺には無理だ」


 宇安は言った。声をわずかに落として、どこか言いにくそうに。


「ここにいる人を、俺は知らない」


 ナナは振り返って彼を一瞥した。


 目の中に何かが浮かんでいた。何か新しいものを発見したような。


「びびってるのね」


 彼女は言った。


「ああ」


 宇安は否定しなかった。


 ナナは二秒ほど彼を見つめた。


 不意に笑った。低く、小さく。振り返って、再び老人を見つめる。


「……まあ、そうね」



   ◆



 十数分が経った頃、審査員がゆっくりと目を覚ました。


 瞬きをして、辺りを見回す。しばらく茫然とした後、表情がゆっくりと澄んでいった。


 彼は机の上の書類に目を落とし、少し沈黙した。


 それから、ゆっくりとカーテンに手を伸ばし、一筋の隙間を開けた。光が斜めに差し込み、冷めたお茶の上に落ちる。


「分かりました」


 彼は言った。


「『最も役立たず』の定義は、人によって違う。正しい答えを見つける必要なんてなかった。自分の考えを、正直に採点に書けばいい。それだけのことです」


 彼は顔を上げた。まずナナを見て、


「管理人さま、番組を長いこと止めてしまって、申し訳ありません」


 それから宇安を見た。眼差しにはわずかな不確かさがあったが、それでも真剣に頷いた。


「ありがとうございます」


 宇安は頷いた。


「どういたしまして」


 ナナは既に立ち上がっていた。上着を引いて整え、尻尾を揺らしている。


「番組はいつ再開できる?」


「できる限り早く」


 審査員は言った。


「二週間以内に」


「よし」


 ナナは言い、ドアへ向かって歩きながら、さらりと一言添えた。


「エントリーしたい人がいるのよ」



   ◆



 大会は二週間後のことだった。


 会場は街の中央広場。


 大きなステージが組まれ、周囲にはぎっしりと人が詰めかけている。地元の住民、観光客、何かの機材を抱えた記録係たち。賑やかで、広場の上空には大きなバルーンが幾つも浮かんでいて、歓声に合わせてゆっくりと揺れている。


 宇安とナナが裂け目から出てきた時には、番組はすでに始まっていた。


 ステージの上では、最初の選手が超能力を披露している。


 彼の能力――自分の着ている服の色を、三秒以内に自分が最も嫌いな色に変えてしまう。完全に制御不能で、毎回違う色になる。発動後、戻るまでに十分かかる。


 三回実演した。


 白いシャツが、一回目は言いようのない黄土色に。二回目はなんとも形容しがたい灰緑に。三回目は、やたら鮮やかなピンクオレンジに。


 変わるたびに彼は自分を見下ろし、とても複雑な表情を浮かべた。苦痛ではない。ただ「またか」という諦めだった。


 客席から笑いと拍手が弾けた。


「この能力、何の役に立つんだ……」


 宇安は目が死んだような顔でステージを見つめ、魂の底から問うた。


「彼が自分を見下ろすたびの表情、見て」


 ナナは笑いを噛み殺しながら、彼を引っ張って席を探す。


「あれが、この大会の真髄よ」


 その後も選手が次々と登場した。


 くしゃみをするたびに完全に異なる音程の音が出る者がいた。毎回違い、毎回外れる。ステージの上で連続五回くしゃみを放ち、そのすべてが別々の、ありえない音を奏でた。客席は笑いすぎて立っていられなくなった。


 半径五メートル以内にいる全員の左足親指の温度を正確に感知する者がいた。小数点以下二桁まで。機能を切ることは不可能で、毎日、見知らぬ人々の足指の温度情報に晒されて暮らしている。ステージ上で絶えず数字をぶつぶつ呟き、表情は虚ろ。時折がばっと顔を上げて客席の誰かを凝視する。凝視された観客は反射的に足を椅子の下へ引っ込めた。


 手元にあるペンが、自分が見ていない時だけ半センチだけ動く者がいた。ただし、見た瞬間に止まる。ステージ上で何度も振り返って確認し、振り返るたびにペンは止まっており、目を逸らすたびにまた動く。本人は哲学的な袋小路に陥っており、客席では何人かが彼と一緒に眉をひそめ、同じ困惑に沈んでいた。


 宇安は客席に座り、顎をわずかに手に預けて、出場者たちを一人一人見ていた。


 しばらく沈黙した。


「この超能力は」


 彼は言った。


「どうやって身についたんだ」


「生まれつきが大半ね」


 ナナは言った。いつの間にか手にポップコーンの袋を持っている。


「事故で覚醒する者もいれば、遺伝もある。特異体質もね」


 一粒口に放り込み、咀嚼する。


「私の宇宙には、どんな人間だっているの」


 宇安はポップコーンの袋を一瞥した。


「どこから出した」


「買ったの」


 ナナは言い、袋を彼の方に差し出した。


「観戦するなら、観戦らしくしないとね」


 宇安は一粒つまみ、噛み、何も言わず、視線をステージに戻した。



   ◆



 宇安の出番が来た時、ナナはポップコーンを食べ終えていた。


 手をぱんぱんと払って立ち上がる。


「行くわよ。出番」


 ステージ上で、司会者が紹介する。


「次の出場者、宇安。披露する超能力は――」


 手元のカードに目を落とし、一瞬止まった。


「あらゆる猫科生物を十秒で気持ちよく眠らせる按摩技法」


 客席が一秒静まり、それからざわめきが広がった。隣同士で何か囁き合う者、すでに笑い始めている者。


 宇安がステージに上がった。


 ナナがその後に続く。彼の横に立ち、数千人の観衆に向かい合う。耳がわずかに動いたが、表情は泰然としている。むしろどこか得意げで、「ええ、私よ。何か?」とでも言うような顔をしていた。


 司会者が近づいてきた。ナナに視線を走らせる。


「こちらの方は……出場者ですか?」


「サンプルだ」


 宇安は言った。


 司会者は頷き、口角をわずかに動かし、一歩下がった。


 客席はしん、と静まっている。


 数千人が見ている。


 ナナは深く息を吸い、顔を横に向けて、頭を宇安の手に預けた。


 今度は何が起きるか、分かっていた。


 分かっていれば大丈夫だと思っていた。


 宇安の手が動き始める。前回と同じ場所、同じ力加減。なのに今度はもっと速い――彼女の体が覚えているからか、あるいは心のどこかが最初から抵抗していなかったのか。二秒と経たないうちに、あの感覚が広がり始めた。うなじから下へ、何かがゆっくりと解けていくような。


 彼女は表情を維持しようとした。


 三秒ほどは保った。


 瞼が言うことを聞かなくなり、耳がふにゃりと落ちる。客席から小さな笑い声が聞こえた。何か言おうとしたが、口を開いた時に出てきたのは意味を持たない音の断片だけで、尻尾は垂れ、全身がゆっくりと空にされた器のように力を失っていき、最後に、堪えようとする意志そのものが消えた。


 十秒。


 彼女は眠った。


 前回より速く、前回よりも静かに。


 顔に浮かんでいるのは、満足なのか諦めなのか判別のつかない表情だった。


 客席が二秒間の沈黙の後、一斉に沸いた。拍手、笑い声。前列の何人かが立ち上がって拍手した。


 審査員席からスタッフが一人、ステージに上がってきた。何らかの機器でナナの周囲をスキャンし、意識状態を確認する。記録板に真面目に数行書き付け、頷き、下がった。


 首席審査員が採点表に目を落とし、ペンを手に取り、点数を記入した。口角がわずかに上がった。



   ◆



「ナナ」


 宇安は言った。


 反応はない。


 彼が見下ろすと、彼女は目を閉じ、耳をぺたりと伏せ、尻尾を彼の腕に引っ掛けたまま、まるで動く気配がなかった。


「大会は終わった」


 彼女は小さく唸った。


 起こされることがたまらなく不本意だというような音だった。体を彼の方にさらに寄せて丸まる。


「続けて」


 声は溶けかけていた。舌がまだ完全に起きていないような。


「もっと撫でて」


「ステージの上だ」


 宇安は言った。


「構わない」


 客席からはすでに笑い声が漏れている。


 宇安は一秒の沈黙の後、彼女を見下ろし、それから数千人の客席を見上げ、彼女をステージから抱き上げて、客席へと戻った。


 手は止めなかった。


 座席に戻ると、彼女は彼の膝の上に収まり直し、尻尾がゆっくりと揺れ始めた。


 しばらくしてようやく口を開く。声にはまだ、どこか気だるい尾音が残っている。


「これはあなたの責任よ」


 彼女は言った。


「あなたのせい」


「ん」


 宇安は言った。


「だから、続けて」


「ん」


 彼は撫で続けた。視線をステージに戻す。後の選手がまだ何人か披露を続けていて、彼はそれを見ながら、片手を止めなかった。


 ナナは膝の上に丸まったまま、目を半分だけ開けて、時折何か呟いた。口調は溶けていて、何を言っているのか本人にもおそらく分かっていない。尻尾はそのまま掛かって、ゆっくり、ゆっくり揺れていた。


 起き上がる気配は、まるでなかった。



   ◆



 授賞式は夕暮れに行われた。


 優勝者は、自分の周囲半メートルの空気を瞬時にバタークリームの香りに変えてしまう者だった。


 発動タイミングは完全に制御不能で、興奮した時に発動することもあれば、くしゃみした時もあれば、何もしていないのに発動することもある。周囲の人間が突然パン屋に入ったと思い込む。


 ステージ上で受賞の挨拶を述べ、感謝の言葉を二言ほど口にしたところで、発動した。傍の司会者が深く息を吸い、笑いを堪えている。空気にはバタークリームの濃厚な香りが立ち込め、客席は前のめりに笑い崩れた。


 ナナは宇安の懐に収まっていた。


 とっくに目覚めているが、動かない。あの手がまだ続いているのを、存分に享受している。ステージ上でバタークリームの香りに包まれた優勝者を眺めながら、


「後で、賞を受け取りに行って」


 彼女は言った。声にはまだ気だるい尾音がある。


「何の賞だ」


 宇安は言った。


「一位は取ってない」


「私があげるのよ」


 ナナは言った。


 言葉の途中で一瞬止まった。宇安が手技を変えたからだ。耳がぴくりと震え、一秒かかってから続きを紡ぐ。どこか苦心して、話す論理を保っている。


「今日からあなたの公式な肩書は、職業管理人モフモフ隊隊長。正式な編制よ。待遇は手厚いわ」


 宇安はいぶかしげに彼女を見、それからまだステージで締めの挨拶をしている司会者を見、また彼女を見た。


「このポスト」


 彼は言った。


「今でっち上げただろう」


「正式な編制よ」


 ナナは目も開けずに言った。


「さっきまで寝てただろう」


「寝ながらでっち上げたの」


 彼女は言った。


「正式さには影響しないわ」


「待遇は」


「衣食住つき」


 彼女は言った。一拍。


「元々ここに住んでるでしょ」


 宇安は少し考えた。


「いいだろう」


 授賞式が終わりに近づいた頃、司会者が二人を呼び止めた。


 番組スタッフが、首席審査員の代理として宇安にお礼を述べたいとのこと。大会の順位に関わる賞ではなく、ただの感謝だと。番組を続けられるようにしてくれたことへの。


 スタッフが封筒を差し出した。中にはカードが一枚。手書きで、字は丁寧だった。審査員の直筆だという。


 宇安は目を落として見た。何も言わず、封筒をポケットに収めた。


 ナナが一瞥した。


「トロフィーより、いいわね」


 彼女は言った。


「ん」


 宇安は言った。


 広場にライトが灯り始めた。


 夕暮れの光が空一面をオレンジに染め、番組のエンディングの音楽が低く流れている。


 ナナは彼の傍に収まったままで、尻尾がゆったりと揺れている。


「モフモフ隊隊長」


 彼女は言った。どこか得意げに。


「どう思う、この肩書」


「ばかばかしい」


 宇安は言った。


「でも受けたでしょ」


 彼女は言った。


「ん」


 彼もまた、笑った。


「受けた」


 広場から人が引いていく。足音が遠ざかり、ライトが一つ、また一つと灯り、空が暮れてゆく。


 二人はそのまま座っていた。急ぐ理由は、どこにもなかった。


 ナナの尻尾が時折揺れ、宇安の手は止まらず、夜風が広場に残ったバタークリームの香りを攫い、冷えた空気の中に溶かしていった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


まずは最初の五章を一気に投稿させていただきました。これからの更新についてですが、遅くとも二日に一章のペースで更新していく予定です。


台湾の読者とはまた違った、日本の皆様の感想を聞けるのが今の私の大きな楽しみです。もし「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや評価、感想をいただけると執筆(と翻訳)の大きな励みになります!


この物語を最後までお届けできるよう頑張りますので、どうぞ応援よろしくお願いいたします。

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