第五十七章 代役
古靈は、そのメッセージを見ていた。
宇安が彼の視線を追って、流れていく掲示板の中から、その一行を見つけた。
見たことのない ID だった。
〔M〕:まったく手がないわけじゃない。
その ID はたった一文字。アイコンもなく、余計な情報もない。掲示板では誰もが名前を派手に飾り立てているから、こんなにすっきりした名前は、かえって妙に目立っていた。
〔野次馬隊長〕:M? 誰だ?
〔通りすがりのエンジニア〕:⋯⋯待て、この ID、見覚えがあるぞ。
〔義眼買い替えたばかり〕:M じゃないか。この人、界隈じゃ伝説級だ。本人を見た者は一人もいないし、誰なのかも分からない。だが、この人が流した隠し情報は、最後には全部、本物だと裏が取れてる。
〔義肢七号店店主〕:あの M か??? どんな手だ?? 早く言ってくれ!!!!
◆
〔M〕:ルール上、ヴァイラは応戦を拒否できない。ナナがアカウントを一つ生んで攻めてくれば、ヴァイラも一つ生んで受けるしかない。受けなければ、その一戦は即、彼女の負け判定になる。
〔M〕:問題はそこにある。「ヴァイラのアカウント」というのは、要するに、システムにヴァイラ陣営のものと認定された対戦ユニットでしかない。
〔M〕:だから、自分の仮想層アカウントをヴァイラ陣営の対戦ユニットに偽装できるプログラムさえあれば、君はヴァイラの代わりに、いくつかの試合を引き受けられる。
〔M〕:そのプログラムは、もう俺がまとめておいた。誰でもダウンロードできる。
掲示板が一気に沸いた。
〔野次馬隊長〕:待て待て、つまり俺たちが「首席の代わり」に出られるってことか?
〔三班シフト〕:自分のアカウントで、あの管理員と一戦やるってこと?
〔通りすがりのエンジニア〕:⋯⋯それなら、ヴァイラの分身の負担を分散できる。彼女が一人で千以上の戦いを抱え込まなくて済む。
〔M〕:そうだ。彼女は今、たった一人でその千以上を背負ってる。千人がそれぞれ一戦ずつ引き受ければ、彼女の肩から千戦ぶんの負担が下りる。
◆
レストランの中。
宇安が画面を見ていた。
「⋯⋯これ、上手くいくのか?」彼が古靈に訊いた。
古靈はそのメッセージの連なりを、長いこと見つめていた。
「⋯⋯理屈の上では成立する。ヴァイラの負担は、確かに分散される」彼が言った。「だが、勝てるかどうかは、また別の話だ」
ちょうどその時、〔M〕の次のメッセージが出た。
◆
〔M〕:ただ、これにはリスクがある。先に、はっきり言っておく。
〔M〕:一つ目。代役の身分で打つ試合は、一つ残らず本物だ。勝てば、君はヴァイラのためにナナから権限を奪い返す。負ければ、その一戦ぶんの権限をナナの手に渡す。君は横で応援してるんじゃない、本当に彼女の代わりに打ってるんだ。
〔M〕:二つ目。このプログラムは、君のアカウントに痕跡を残す。君はそのアカウントで打ち続けられる。勝ちも負けも、すべてアカウントに積み上がっていく。だが、その積み上がった権限の変動は、アカウントを丸ごと消去して、はじめて精算され、ヴァイラ陣営に返される。
〔M〕:だから、もし君がトータルで勝っているなら、消さずに打ち続けろ。消すのはむしろもったいない。本当に消去が必要なのは、トータルでマイナスになった者だ。負け分を勝ち分で取り返せない以上、そのアカウントで打ち続ければ、ヴァイラの権限を削り続けるだけになる。そういう時は、消去して損切りするほうが、ヴァイラのためになる。
〔M〕:そして消去の代償として、仮想層の中のゲームコインが全部ゼロになり、対戦記録もコレクションも実績も、全部一緒に消える。
〔M〕:それと、フレンドリストも。消去したあと、君のフレンドは君を見つけられないし、君も彼らを見つけられない。もう一度繋がりたければ、一から登録し直すしかない。しかもシステムは、一度使われた名前での再登録を許さない。君自身の元の名前ですら、二度と使えない。つまり、仮想層でだけ知り合った友人とは、それきり切れてしまう可能性が高い。
掲示板が静まり返った。
この配信が始まって以来、初めてのことだった。
〔野次馬隊長〕:⋯⋯全部消す?
〔合成コーヒー愛好家〕:俺のあのアカウント、もう八年使ってる。
〔三班シフト〕:俺の中のゲームコインは、コツコツ働いて貯めたものだ。
〔義眼買い替えたばかり〕:俺には、長いこと一緒に遊んでる友人がいる。仮想層でだけ知り合った仲で、ほかに連絡の取りようがない。消したら、その友人はもう、見つけられなくなる。
メッセージの流れが、遅くなった。
◆
〔M〕:俺は、誰にもやれとは言わない。
〔M〕:これは君のアカウント、君のものだ。やるかどうかは、君自身が決めることだ。俺はただ、プログラムをここに置いておく。リンクは下に貼る。あとは、君たちが自分で考えてくれ。
メッセージの下に、ダウンロードリンクが貼られていた。
掲示板は、しばらくまた静かだった。
◆
そして、動く者が出た。
〔星塵-09〕:ダウンロードした。俺のアカウントには大したものも入ってないし、ゲームコインも元々少ない。首席があんなふうに踏み潰されていくのを、ただ見てるのは無理だ。一戦、打ってくる。
〔退職エンジニア〕:俺もダウンロードした。この歳だ、ゲームの記録なんて取っておいても仕方ない。行ってくる。
それから、ぽつぽつと後に続いた。
〔三班シフト〕:⋯⋯ええい、俺も行く。ゲームコインなんてまた稼げばいい。
〔合成コーヒー愛好家〕:八年のアカウント⋯⋯まあいい、たかが八年だ。行く。
全員が動いたわけではない。大半はまだ迷い、まだ様子を見ていた。だが、確かに、立ち上がる者が現れはじめていた。
◆
画面のウィンドウ群に、変化が出はじめた。
元はどの画面も、両側が「ナナ」対「ヴァイラ」だった。今、その一部で「ヴァイラ」の枠の名前が変わっていた。
【ウィンドウ 0633】ナナ VS ヴァイラ(代役:星塵-09)
【ウィンドウ 0871】ナナ VS ヴァイラ(代役:退職エンジニア)
【ウィンドウ 1024】ナナ VS ヴァイラ(代役:合成コーヒー愛好家)
〔通りすがりのエンジニア〕:始まった。
〔野次馬隊長〕:本当に出やがった!
◆
【ウィンドウ 0633】は格闘対戦だった。
星塵-09 のキャラクターが構えを取る様子は、それなりに様になっていた。普段からやっているのが見て取れた。
だが、ナナのキャラクターが一度動いた瞬間、画面はもう、まともじゃなくなった。その拳は振るたびに残像しか見えない速さで、しかも一発ごとの判定範囲が、拳そのものより何回りも大きい。星塵-09 は反撃の隙すら見つけられず、そのまま場の端まで追い詰められ、体力バーが水漏れのように落ちていった。
十数秒で、終わった。
【ウィンドウ 0633】ナナ勝利。権限変動:ヴァイラ -0.05% / ナナ +0.05%。
〔星塵-09〕:⋯⋯負けた。彼女に触れることすらできなかった。
〔星塵-09〕:それに言っておくが、あの管理員は完全にチートだ。攻撃判定があんなにでかくて、速度もあんなに速くて、普通のプレイヤーが上がったところで殴られるだけだ。この一戦、俺は 0.05% を自分の手で渡したようなものだ。
〔星塵-09〕:⋯⋯すまない。
◆
【ウィンドウ 0871】はリアルタイムストラテジーだった。
退職エンジニアの序盤は、堅実そのものだった。採掘、拡張、兵舎の建設、一歩ずつ進めていく。明らかに熟練者の手つきだった。最初の部隊を揃え、さあ進軍しようというところで、ナナ側の基地が、そのまま空に浮かんだ。
ある一つのユニットが浮いたのではない。基地が丸ごと浮き上がり、退職エンジニアの採掘エリアの真上まで飛んでいって、それから、判子を押すように、落ちてきた。
彼の採掘エリアも、部隊も、建てたばかりの兵舎も、まとめて地面に押し潰された。
【ウィンドウ 0871】ナナ勝利。
〔退職エンジニア〕:⋯⋯このゲームの基地は、本来、動かせないものなんだ。
〔退職エンジニア〕:このタイトルを二十年やってきたが、飛ぶ基地なんて見たことがない。
◆
敗北の報告が、一つ、また一つと掲示板に流れ込んできた。
〔合成コーヒー愛好家〕:負けた。相手のチート、こんなの生まれて初めて見た。
〔三班シフト〕:負けた。ゲームをやってる気がしない。処刑されてる気分だ。
〔星塵-09〕:みんな、もう上がるな。普通のプレイヤーが行っても、ただ献上するだけだ。これじゃ逆に首席を害してる。
画面中央の数字は、回復するどころか、落ちる速度がさらに上がっていた。
ナナ 66%
ヴァイラ 34%
〔野次馬隊長〕:え??? なんで落ちる速度が上がってる?
〔通りすがりのエンジニア〕:普通のプレイヤーが上がっても負けて、その負けは首席の負けとして加算されるからだ。彼らは首席が負けるのを、加速させてることになる。
〔黎水区古参住民〕:じゃあこの方法、むしろ害になってるのか?
◆
レストランの中。
宇安が、流れ込んでくる報告を見ていた。
「⋯⋯これ、余計にまずいんじゃないか?」彼が訊いた。
古靈はすぐには答えなかった。画面を見つめ、指でテーブルの縁を軽く叩いていた。
「⋯⋯そうとも限らない」彼が言った。「あそこを見てみろ」
彼がウィンドウ群のある一角を指した。
宇安が目をやった。一面の「ナナ勝利」のウィンドウの間に、いくつか、違う結果が灯っているウィンドウがあった。
【ウィンドウ 0418】ヴァイラ(代役)勝利。
【ウィンドウ 0905】ヴァイラ(代役)勝利。
【ウィンドウ 1330】ヴァイラ(代役)勝利。
数百の代役ウィンドウの中で、ほんの数えるほどしかない。だが、確かに勝っていた。
◆
〔義肢七号店店主〕:待て、勝った奴がいる?
〔通りすがりのエンジニア〕:ウィンドウ 0418。代役の ID を調べてみたが、あれはランキング上位のレース系プロ選手だ。
〔野次馬隊長〕:じゃあ、トップ層が上がれば勝てるのか?
〔通りすがりのエンジニア〕:それも、完全には言い切れない。あの試合のリプレイを見たが、その選手自身も負けかけてた。背後で誰かがリアルタイムにデータをいじって、ナナのチートを一部相殺してたから、勝てたんだ。
〔義眼買い替えたばかり〕:⋯⋯その通りだ。ウィンドウ 0905 の代役は知ってる。本人の腕も相当いいし、そばにハッカーの友人がついて防いでた。二人がかりで、やっと一戦、もぎ取った。
〔M〕:だから、結論ははっきりした。
〔M〕:普通のプレイヤーが単独で上がれば、ただの献上。トップ層のプレイヤーに、背後でトップ層のハッカーが手を貸して、ようやく一戦勝てる。
〔M〕:そしてその組み合わせは、謎域全体をかき集めても、いくつも揃わない。
◆
掲示板が、また静かになった。
さっきの「一戦打ってくる」の勢いは、この数十の敗北報告に、大半を消されてしまった。
〔街角ジューススタンド〕:じゃあ⋯⋯やっぱり無理なのか。
〔不眠症の会計士〕:トップのプレイヤーにトップのハッカー、そんな組み合わせ、どこで探せと。
〔野次馬隊長〕:結局、首席が負けるのを、ただ指をくわえて見てるしかないのか?
画面中央。
ナナ 68%
ヴァイラ 32%
数字は、まだ落ち続けている。
◆
レストランの中。
宇安が古靈のほうを向いた。
「⋯⋯古靈」彼が言った。「トップのプレイヤーにトップのハッカーを足しても、一組で一戦勝てるだけだ。謎域全体でもいくつも揃わない。これじゃ、まだ足りないんじゃないか?」
古靈は画面を見て、少し考えた。
「⋯⋯足りない」彼が言った。「腕だけでは、確かに足りない」
彼は一拍置いて、画面の隅を指した。ずっと動き続けている「総試合数」のカウンターの横に、もう一つ、目立たない小さな印があった。
宇安が顔を寄せて見た。それは「ゲームコイン」のアイコンで、後ろに数字の列が続いていた。
「⋯⋯これは何だ?」宇安が訊いた。
「この試合は、e スポーツ大会のルールを使ってる」古靈が言った。「そのルールの中には、ゲームコインを使える試合が一部ある。金を払ってアイテムを買う、金を払って強化を買う」
彼が宇安に視線を移した。
「腕の立つ人間は、いくつも揃わない」彼が言った。「だが、それが金だったら?」
画面上、掲示板のメッセージはまだ流れていた。
さっきの「トップ層が見つからない」という嘆きの中に、毛色の違う一行が混じった。
〔金親父〕:@M この管理員だかなんだかの分身アカウントの中に、ゲームコインって入ってるのか?
〔M〕:待ってくれ、ちょっと調べてみる。




