第四十章 タスクリスト
ヘッドカバーがゆっくりと上がっていった。
宇安が目を開けた。
彼は寝そべるシートから起き上がり、肩を回した。仮想世界から実体に戻る瞬間、いつも少しの重量感の違いがある。仮想世界での身体は軽くて動きが流麗だが、現実の身体はどうしてもワンテンポ遅い。
彼は隣を一目見た。
ナナの装置のヘッドカバーも上がっていた。彼女は中から起き上がり、大きく伸びをした。猫耳が一度震えた。
三台目は永誓の。同じ機種の装置。永誓が接続する時には、剣の柄をヘッドカバーに差し込む。ヘッドカバーが上がり、永誓の剣身がヘッドカバー内のクッション墊片に静かに置かれていた。
宇安が歩み寄り、彼を装置から取り出して、腰元に掛け直した。
永誓が腰元で軽く震えた。挨拶のつもりらしい。
部屋がとても静かだった。
ここはナナがいつも住んでいる家じゃない。彼女が謎域で買った住宅の一室、三十数階。空間は大きくない。簡単なリビング、三台の接続装置を除いてはほとんど家具がない。小さなテーブル、椅子二脚、壁際の冷蔵庫、それから簡単な調理ができる小さな流し台。ナナが言うには、ここは支部基地のようなもの、普段は空いているそうだ。
窓の外は謎域の夜景。街全体が光っていた。垂直に伸びる超高層ビルが彼らのこの階より上、さらに上へと続き、頂上はまだ見えない。浮遊する交通機関が異なる高度層を流れていく。
宇安が窓辺にしばらく立っていた。
今日はいろいろあった。超能力対戦、フレンド申請、賭場、クロウ、創造大会。一日にこれだけの新しいものが詰まった後、この謎域住処の静かさは、むしろ宇安をほっとさせた。
ここはナナがいつも住んでいる家じゃない。だが、今は、ここがそうだ。
◆
ナナがソファの傍へ歩いていった。
ここのソファは彼女がいつも住んでいる家のより小さい。簡単な二人掛け、長くも深くもない。だが彼女はそれでも慣れた様子で、ぐっと身を預けた。
永誓は宇安の腰元にいた。仮想世界からログアウトして現実に戻ると、彼は剣の形態。少年型はない。今は腰元に掛けられているこの一本の剣だ。
宇安が窓辺から戻り、テーブルの椅子に腰掛けた。
彼は永誓を腰から外し、テーブルに置いた。
テーブル面が、彼が置く瞬間に自動で永誓の形に合った窪みを微調整した。謎域のスマートファニチャーらしい。
永誓がテーブルに静かに置かれていた。
宇安が彼を見ていた。
彼は何も言わなかったが、永誓がまだ「聞いている」ことを知っていた。啓霊の後、永誓は剣の形態でも意識は覚めている。
ナナがソファの上でこの一連の流れを見ていて、笑った。
彼女がソファの反対側に転がり込もうとした。
目の前にメッセージウィンドウが浮かび上がった。
彼女は半分転がりかけた姿勢のまま、そのウィンドウを見ていた。
◆
メッセージはヴァイラから来ていた。彼女の目がさっと走った。
彼女は「ふぅん」と一声漏らした。
宇安が彼女を見ていた。
「⋯⋯何?」
「何でもない」ナナが言った。「後で見る」
彼女が手を振ってウィンドウを隅へ縮め、ソファの反対側に身体ごと転がった。
短いソファ、彼女が一人で寝るには丸まる必要があった。
「⋯⋯見ないのか?」宇安が言った。
「後で」ナナが目を閉じたまま言った。「メッセージで送ってきてるってことは、今すぐ処理しないといけないことじゃない。本当に急ぎなら、直接コール来る」
「⋯⋯」
「疲れた」ナナが言った。「明日にする」
宇安が彼女を見ていた。
彼女の尻尾がソファの外に垂れ、ゆっくりと二度揺れて、止まった。
彼はそれ以上問わなかった。
永誓がテーブルの上から、隅に縮められたウィンドウを一度見て、それからナナを見た。
「⋯⋯彼女、本当に大丈夫なの?」永誓が小声で言った。
「大丈夫」宇安が言った。「彼女が大丈夫って言うなら大丈夫だ」
永誓が「お」と答えた。
彼はそこでナナの寝ている様子を見ていた。それから、少しずつ意識を待機モードに切り替えていった。
部屋がとても静かだった。
◆
翌朝。
宇安が先に目を覚ました。
窓の外の光はまだ淡かった。完全に明るくなっていない、灰色がかった早朝。だがこの灰は彼が知っているそれとは違う。謎域の早朝の光には、街自体の光が混ざっている。街全体のネオンは完全には消えない。夜が明ける前に最も低い明るさまで落ちるだけ。だから「夜明け前」と言っても、窓の外は本当の暗闇じゃない。
部屋には低い唸るような音があった。接続装置のスタンバイ音。外の遠くからは、この世界の都市の低周波の唸り。
彼の現実宇宙の早朝はこういう音じゃない。永誓星の早朝には鳥の声がして、訓練場の方から木剣の打ち合う響きがして、号令の声がする。
ここにはそれがない。
だがここには別のものがある。この世界の早朝。
彼が起き上がった。
ナナはまだソファで丸まって眠っていた。短いソファに彼女一人なら、ちょうど収まる。彼女の耳は眠っている時にも時々動く。何かの外界の音に反応して、それからまた沈む。
宇安が彼女の眠っている様子を見ていた。
彼が薄い毛布を取って、彼女の肩まで掛けた。
永誓はテーブルの上で動かなかった。剣の形態には、そもそも「眠る」という概念があまりない。啓霊の後、彼の意識は休むことも、待機することも選べる。今はおそらく前者。
宇安が小さな流し台の前に行った。
謎域のコーヒーマシンは自動式。一度押せば出てくる。だが彼は今、自分でブラックコーヒーを淹れる。この宇宙に来てから覚えたことだ。永誓星にはブラックコーヒーというものがない。初めて飲んだのはこの世界、ナナがよく行くあの店。一口飲んで「少し苦い」と言ったが、そのまま飲み続けた。後に自分で淹れることを覚えた。
「ブラックコーヒー」のオプションを選んだ。
コーヒーの香りがマシンから広がっていく。
◆
ナナはたぶん、コーヒーの匂いに引き起こされたのだろう。
彼女がソファから這い起きた。髪はまだ乱れていて、目は半分しか開いていない。
「⋯⋯おはよ」
「おはよ」
彼女が歩み寄り、宇安の手のコーヒーを見た。
宇安が彼女を一目見て、手のカップを直接彼女に手渡した。
「⋯⋯ありがと」ナナが受け取って、一口飲んだ。
宇安が立ち上がり、コーヒーマシンの前に行って、もう一度押し、自分用にもう一杯淹れた。
彼が新しいコーヒーを持って戻り、座った。
ナナがそのカップを抱えて、もう一口飲み、少し目が覚めたように見えた。
宇安が彼女を見た。
彼が昨晩のあのメッセージを思い出した。
「⋯⋯ヴァイラのメッセージ」彼が言った。「見たのか?」
ナナの尻尾が一度震えた。
「⋯⋯あ」彼女が言った。「忘れてた」
彼女がテーブルでインターフェースを開き、メッセージを呼び出した。
目を走らせた。
メッセージは長くなかった。読み終えて、「ふぅん」と一声漏らした。
宇安が彼女の表情を見ていた。特に緊張もしていない。特に心配もしていない。特に真面目に受け止めてもいない。彼女がそのメッセージを見る様子は、レストランのメニューを見ているのと変わらなかった。
「⋯⋯何の話?」宇安が訊いた。
「中心データベースが攻撃された」ナナが言った。語気はとても平淡だった。「多少の成果は出たけど、対処できる。彼女が、念のため私に知らせてくれた。処理するかどうかは私次第って」
宇安:「⋯⋯」
彼がその言葉を考えた。
「中心データベース」という言葉には覚えがある。この世界の核心システム。すべての資料、権限、運営の論理がそこに収められている。先日の賭場の看板にも「来月、議員の権限が駭奪されるか」という賭けがあった。あの時のナナの反応は「面白い」だった。
今、そのシステムが攻撃された。
そしてナナはコーヒーを飲んでいる。
彼が彼女を見た。
「行くか?」彼が訊いた。
「いい」ナナが即答した。「こういうの基本、私のタスクリストに入るだけ。私が処理しなくても勝手に消えていくの。放っとけばいい〜」
彼女の語尾の「〜」が長く伸びていた。
彼女がもう一口コーヒーを飲んだ。
宇安が彼女を見ていた。
彼はどう反応すればいいか分からなかった。
永誓がテーブルの上で軽く震えた。先ほどまで待機状態だったが、対話の内容で目を覚ました。
彼は後半の対話を聞いていた。
「⋯⋯だからあんたのタスクリストはどんどん溜まっていくのか⋯⋯」永誓が言った。声は少年の澄んだ声じゃない。剣身から伝わる、少しこもった低音。だが語気のツッコミ味は、少年型と全く同じだった。
ナナ:「⋯⋯」
彼女がテーブルの上の剣を一目見た。
「永誓、あんた最近ツッコミ上手になってきたね」
「あんたから学んだ」永誓が正直に言った。
「⋯⋯」
宇安が吹き出しそうになったが、堪えた。コーヒーを一口飲んで誤魔化した。
ナナがため息をついた。
「⋯⋯彼女も急ぎとは言ってない」彼女が自分の弁護を続けた。「本当に急ぎなら、私が動く。今は要らない」
「⋯⋯ああ」宇安が言った。
彼はそれ以上追問しなかった。
彼が気にしていないわけではない。だが、追問しても無駄だと知っているからだ。ナナはこの世界の管理人。彼女が要らないと言うなら要らない。この世界に対する判断は、彼女のほうが自分よりずっと熟知している。
彼が、彼女がもう一口コーヒーを飲む様子を見ていた。
彼女がカップを置いて、椅子の背に凭れて、目を閉じた。
「⋯⋯今日、何したい?」彼女が訊いた。
「考えてない」宇安が言った。
「じゃ、何もしない」ナナが言った。
「いい」
二人とも何も言わなかった。
コーヒーの香りがまだ部屋に漂っていた。窓の外の光が少しずつ明るくなり、謎域のネオンが朝の光に少しずつ吸収されていって、淡くなっていった。
金曜日の朝は、こうして過ぎていった。
◆
その後の数日、彼らは何度か仮想世界に潜った。
金曜の午後、レイナ7からメッセージが来た。空いてるかと。ナナはメッセージを宇安に転送し、宇安が頷くと、三人はそのままチームの方に転送した。レイナ7、ソライ、カゲ0が今度連れて行ってくれたのは高難度の探索ダンジョンだった。あの素早いペースの超能力対戦より、忍耐が要る種目。永誓はとても乗り気だった。ダンジョンの中盤で彼が剣の形態に戻り、宇安に持たれていても、彼はあらゆる判断に参加したがった。
土曜は別の遊びを試した。午前はレース。永誓は自分で一台運転すると言い張った。カーブで壁にぶつかり続けたが、ぶつかる途中で「大丈夫!」と一声叫んでから、続けて運転した。ナナが涙を流すほど笑った。午後は射撃。宇安が初めて銃を持った。動きは思ったより慣れていた。「武器のロジックは大体同じだ」と彼が説明した。永誓の反応は「お前、昔戦争で銃を使ったことあるの?」「ない。だが弓矢、投擲武器なら使ったことがある」「⋯⋯おう」だった。
彼らは創造大会のシングル練習も二回試した。二回目のテーマは「光」。永誓は極小だが構造の複雑な提灯を作った。ナナは空中に浮く、異なる色を反射する薄い膜を作った。宇安は半分近くの時間を使って、簡素な燭台を一つ仕上げた。彼は最初もっとちゃんとできると思っていたが、自分の「光」という概念に対する想像が、想像以上に限られていることに気づいた。
永誓は宇安の燭台に一言。「剣鞘より地味だな」
宇安:「⋯⋯」
彼は何も言わなかった。だが「華麗版の剣鞘」のことを、また一回心に刻んだ。
◆
日曜の朝。
宇安が先に目を覚ました。
彼がソファに座り、壁の表示時間を一目見た。
今日は仮想世界に行く予定はない。
午後三時、議会の開会時刻。固定で毎週日曜、すべての公民が傍観できる。ナナが何日か前にさらっと話していた。宇安は見たいと言った。
だから今日の午前中はただの休息。
彼は流し台の前に行き、ブラックコーヒーを淹れた。
窓の外の謎域がゆっくり目覚めていった。
ナナはまだ眠っていた。
永誓はテーブルの上で動かなかった。
部屋がとても静かだった。




