第三十章 観光
「……」ヴァイラが一拍置いて、最後に口角が動いた。「謎域へ、ようこそ」
彼女の視線がナナに戻った。
「今回はどんな厄介ごとで来たの?」
ナナが笑った。
「厄介ごとじゃないわ。観光」
ヴァイラが一瞬止まった。
彼女はその答えを予想していなかった。彼女の反応は普通の人より精確だが、「予想外の情報を処理する」のに必要な時間は、誰でも同じ。零点何秒、彼女は言葉を返さなかった。
彼女の視線が横の宇安に向き、それからナナに戻った。
彼女はおおよそ状況を理解した。
「……観光」彼女がその言葉を繰り返した。聞き間違いを確認するように。
ナナが頷いた。「彼、こういうスタイルの世界、見たことないって」
ヴァイラがもう一度、宇安を見た。
それから彼女が訊いた。
「もう一人は? あなたたちが入った時、データベースが同時に二つのデータを新規登録した」
宇安が腰の剣を取り、テーブルに置いた。
永誓が一度震え、短い声を発した。
「ここに」
ヴァイラの左目が一瞬光り、機械眼が走査した。彼女が二秒沈黙した。
それからナナを見た。
「意志を持つ剣?」彼女が言った。疑問形だが、語気は確信に満ちていた。「あんたの仕業?」
ナナがどこかしら誇らしげな口調で言った。
「もちろん!」
その自信がどこから来ているのかは分からない。
ヴァイラが呆れたように、しかし心配そうに訊いた。
「……あんたのその能力、ここでは本当に危険よ。あんたとあの超能力者だけがその能力を持ってる、それは確実なのね?」彼女が言った。「ここじゃ、無闇に啓霊することは許容できない。もしよからぬ者がこの能力を持ったら、ここは大混乱になる」
ナナは自信たっぷりに答えた。
「大丈夫、すぐにそのことに気づいたから」彼女が言った。「彼には誰にも教えるなって伝えてある。彼と取引もした。ある手段で、彼が自分の能力を使う権限を制限してる。代わりに、贅沢に使える金を一山あげた」
ヴァイラが彼女を見て、何も言わなかった。
二秒後、彼女が頷いた。
「……それならいい」
◆
給仕がやって来た。
四本の腕を持つ人類、年は三十代に見える。左眼は義肢、四本の腕がそれぞれ別の動作をしている。左上の腕がトレーを持ち、左下の腕がメニューを持ち、右上の腕がペンを掴み、右下の腕が注文機をタップしている。動きは流麗で、長年の習慣であることが伺えた。
ナナ:「ブラックコーヒー、それと甘いもの一つ、お任せで」
給仕が頷いた。
彼が宇安の方を見た。
宇安がメニューを一目見た。
メニューには彼が知らないものがある。エネルギー補充ドリンク、合成タンパク質、神経刺激系飲料。彼が知っているものもある。コーヒー、紅茶、簡単な菓子。
「彼女と同じで」彼が言った。
給仕がヴァイラを見た。
ヴァイラのカップには黒い液体が入っていて、半分まで飲み終えていた。
「いいわ」彼女が言った。
給仕がもう一度回転し、流れるような動作で去っていった。
宇安がヴァイラの前のカップを見た。
「それは?」
「合成コーヒー」ヴァイラが言った。「機械改造比率が高い人間用のもの。普通のカフェインじゃ、私みたいな改造度の身体には分解効率が足りない。これは神経インターフェース向けに最適化されたバージョン」
宇安は答えなかった。だが感じていた。この世界は、飲み物一つでも、彼の知る世界とは違う。
◆
「そうだ」ナナが言った。「先にこの世界の政治構造を紹介しとくね。今日は遊びに来ただけだけど、彼女は首席だし、ついでに彼女の仕事の話もしておきましょ」
彼女がヴァイラを一瞥した。
ヴァイラが頷いた。「あんたが話して、私は補足する」という意味だった。
「この世界には王様がいない。議会制」ナナが言った。「議員十一人と首席一人、合計十二人が最高権限を持ってる。物理的な議会場所は存在しない。すべての会議はオンラインよ」
「オンライン……」宇安がその言葉を繰り返した。
「実体空間で開かれないってこと」ヴァイラが説明した。「私たち十二人が共用の会議空間に接続するの。意識レベルの接続。すべての公民が傍観できる」
「毎週日曜日の午後三時」ナナが補足した。「固定の時間。すべての公民が見に行ける」
宇安が頷いた。「それで?」
「投票」ヴァイラが言った。「議員が政策を提出して、議員の多数決で通過。私は首席として投票権を持たない。代わりに、一票の否決権を持つ」
「投票権がない?」
「そう」ヴァイラが言った。「私ができるのは『賛成』や『反対』を投じることじゃなくて、『直接通さない』こと」
「つまり」宇安が考えた。「議員十一人全員が賛成しても、あんたが否決すれば、その政策は通らない?」
「そう」
「あんたが否決しなければ、議員の多数で通る?」
「そう」
宇安:「……権力が大きいな」
「だから議員十一人で牽制し合う必要があるの」ナナが言った。「それと議員は棄権できない。賛成か反対か、必ず表明しないといけない」
「なぜ?」
「棄権は責任逃れだから」ヴァイラが言った。「議員は公民が選んだ人間。公民の代わりに決定するのが彼らの仕事。棄権が許されれば、敏感な議題で死んだふりをする議員が出てくる。それは選んだ公民に対して不公平」
宇安が頷いた。
彼が少し考えて、また訊いた。「じゃあ、あんたは? 投票しないけど否決権がある、それは何?」
ヴァイラ:「……首席の責任」
彼女が一拍置いた。
「首席のポジションは『一票多い投票者』じゃないの。『最後の関門』。議員の多数決に問題が出た時、首席がブレーキを踏む。だから私は投票しない。私が投票に加わると『十二人の多数決』になって、ブレーキ役の人間がいなくなる」
宇安はしばらく沈黙し、それから頷いた。
「……面白い仕組みだ」
「ありがとう」ヴァイラが言った。「私が設計したわけじゃない。この世界のずっと前の人が作ったもの。私はそれを動かし続けてる役」
◆
「そう言えば、最近電競大会が開幕するんじゃなかった?」ヴァイラが何気なく訊いた。「今回の来訪は、参戦するつもり?」
「違う違う」ナナがすぐに言った。「ただ遊びに来ただけ。彼がこの世界に興味あるって言うから連れてきた」
「だね」ヴァイラが宇安を見た。「電競をやる人には見えないわね」
宇安:「……」
その言葉に反論はしなかった。実際、彼は電競が何かもまだ完全には理解していない。
永誓がテーブルの上で一度震えた。
「電競大会?」
テーブルの三人が剣を見た。
「レーシングゲーム」永誓が訊いた。「これはどう競う? 俺も参加できるか?」
「次にシューティング。俺は銃を持てるか? 俺自身も武器だ。俺を銃として使えるか?」
「オートチェスは? 棋を指すんだろう。駒はどう動かす?」
「リズムゲームは? 俺は震動を出せる、これはリズムになるか?」
質問が次々と出てきた。
テーブルの三人は、誰も口を挟む隙がなかった。
永誓が訊き終えて、答えを待った。
ナナが先に吹き出した。
「永誓……」彼女が言った。「お前、どうやってコントローラーを握るつもりよ?」
永誓が一度震えた。
「……コントローラー?」
「そう、操作機器」ナナが言った。「レーシングにはハンドルとペダル。シューティングにはマウスか体感装置。オートチェスは画面でクリックとドラッグ。リズムゲームはボタンを押す。全部、手で操作する。お前には手がない」
永誓が震えた。今度の震えには明らかな挫折感があった。
宇安はテーブルの剣を見て、珍しく少し同情を覚えた。
ヴァイラがしばらく見ていて、それから口を開いた。
「ただ――」
テーブルの三人が彼女を見た。
「電競大会の各種目は、二つの賽道に分かれてる」ヴァイラが言った。「物理層の賽道と、仮想層の賽道。物理層の賽道は実体のコントローラー、ジョイスティック、体感装置を使う。仮想層の賽道は、参加者の意識を構築された仮想空間に接続して、参加者がその中で一時的な仮想身体を持つ」
彼女が剣を見た。
「中に入れば、お前にも手足ができる」
永誓が先ほどよりもさらに興奮した震えを発した。
「つまり――全種目の、仮想層の方なら、俺は全部参加できる?」
「理論上はね」ヴァイラが言った。「ただし、一つ問題がある。仮想身体を使ったことがない人間は、入った直後はうまく操作できない。手足はあるけど、どう動かせばいいか分からない。お前にとってはもっと難しいかもしれない、最初から手足を持ったことがないから」
「練習できる!」永誓が言った。「今からでも練習できる!」
宇安はテーブルの剣を見ていた。
永誓がここまで興奮するのは、初めて見た。新しい人生……いや、新しい剣生の目標を見つけたような顔だった。
彼が一つ溜め息をついた。
「……」
ナナが吹き出した。
「いいわよ、ゆっくり行きましょ」彼女が言った。「意識接続なんてこの世界じゃ普通のこと、色んな人が使ってる。剣だって出来るわよ。後でどこかで試させてあげる。永誓、ちょっと我慢して」
永誓の震えが少し収まったが、止まらなかった。
◆
その時。
珈琲店の外で騒ぎが起きた。
ホログラム広告のある区画が警告の赤色に明滅した。本来は普通の食品広告だったものが、突然赤い警告枠に変わり、三秒明滅して、また元に戻った。だがすぐにまた一回明滅した。
ヴァイラの左目が即座にその方向を向いた。
彼女が約一秒沈黙した。
「……誰かが中央交通管制システムを駭こうとしてる」彼女が言った。
ナナ:「規模は?」
ヴァイラ:「大きくない。でも煩わしい」
ナナが笑った。
「成功した?」
「防がれる」ヴァイラが言った。「でも処理しないと」
彼女が立ち上がった。
「ごめんなさい、仕事。次回また」
「いい」宇安が言った。
ヴァイラの手がテーブルの縁に置かれ、動きが速かった。彼女がテーブル面を何度か叩き、小さなホログラムアイコンを残した。
「これが訪客識別コード」彼女が言った。「あなたに。物理層の試合に興味があるなら、電競大会の時に会場に入る用に使って。オンライン観戦は元々公開されてて誰でも見られるけど、物理層の試合を現場で観たい時には、これでいつでも入れる。あなたの席は常に確保される」
宇安が頷いた。「ありがとう」
ヴァイラがナナに小さく頷き、それから振り返って去っていった。
彼女が珈琲店を出る瞬間、全身の義肢の紫の光紋が少しだけ明るくなった。仕事モードに入ったのだろう。
彼女は大廳の角で見えなくなった。
◆
珈琲店内が一瞬静かになった。
ナナが笑って宇安を見た。
「首席が仕事してる姿、見たことないでしょ?」
「ない」
「彼女、今からは中央システムに直接接続して、遠隔で駭客を逆追跡するわ」ナナが言った。「『首席』っていうのは、基本的にこの世界で最高レベルの権限と、最も完全な情報を持つ人のこと」
彼女が一拍置いて、補足した。
「これが彼女の一番恐ろしいところでね。首席は全公民のメッセージを読み取れる権限を持ってる。それなのに、彼女は前任首席の権限を駭奪できた。前無古人後無來者って言える」
「過去にこんなことをした人は?」
「いない」ナナが言った。「歴史上、議員権限を駭奪した事例は時々ある。でも首席権限を駭奪した者はいない。彼女が最初」
宇安はヴァイラが消えた方向を見ていた。
彼は少し考えて、何も言わなかった。
ナナが伸びをして、椅子の背に深く凭れた。
「あー、心地いい……」彼女が満足げに笑った。「他人が一所懸命に仕事して厄介ごとを処理してるのに、私は気軽に時間を過ごしてる。この感じは本当に……」
彼女は後半を言い切らなかった。だが顔の表情がそれが何の感じかを完璧に表していた。
宇安が呆れたように彼女を見た。
「お前のタスクリストが完全に消える日はないけどな……」
「冷や水かけないでよ!」ナナが即座に応じた。尻尾が炸裂した。
宇安が小さく笑い、給仕が運んできたばかりの、まだ口をつけていないブラックコーヒーを取り、一口飲んだ。
少し苦かった。




