第二十四章 受け身すぎる
宇安は雨の中に立ち、目を閉じていた。
動かない。
雨粒が肩、髪、木剣を握った手の甲に打ちつけ、指を伝って滴り落ちる。剣尖に薄い水膜が張り、雨に打ち散らされては、また張り直される。
彼は聴いていた。
雨の音は喧しい。だがその喧しさには層があった。樹冠に落ちる雨と、泥地に落ちる雨と、溜まった水面に落ちる雨と、岩に落ちる雨と、浅い川の水面に落ちる雨。どれも異なる周波数と律動を持っている。この複雑な音の網の中に、ほんの少しだけ、音が「削られた」場所があった。
完全な静寂ではない。雨がその場所に落ちる時、音の方向が合っていない。下へ向かうはずの雨水が、ある高さで何かに遮られ、弾けて、それから落ちる。
宇安はわずかに目を開け、方向を確かめた。
それからまた閉じた。
彼はその方向へ一歩踏み出した。
数歩進んでから、また止まった。首を傾げ、方向を変える。
また歩く。
また止まる。
進路を変える。
◆
艾蕾拉は四十歩離れた場所にいた。
隠身したまま、大樹の太い幹の陰にしゃがんでいる。制服はとっくに雨で濡れ、髪が顔に貼りついていた。
彼女は宇安を見つめていた。
この人は。違う。
彼女は標記されていない。場内に魔法陣はない。宇安本人も、最初から最後まで、感応系の能力を放出してはいない。彼女は確認していた。少なくとも、彼女の感知能力の範囲では。
だが、彼は歩いている。
しかも彼女の方へ歩いている。
直線ではない。数歩ごとに止まり、方向を変える。しかし、彼が歩いた跡を一本の軌跡として繋げば。その軌跡は、ゆっくりと、彼女を囲むように、狭まっていた。
艾蕾拉は唇を噛んだ。
動かなければ、彼はゆっくりと迫ってくる。下手に動けば、音で位置が露見する。彼がどうやって発見しているのかは分からないが、少なくとも「音を立てない」は隠身の基本だ。
彼女は決断した。
背後に回り込む。
左側、山稜寄りの木立から迂回して、地形を利用し、泥地に身を貼り付けて。彼の死角に回り込めば、地下移動の魔法でもう一度制圧できる。この手は先ほどの男精靈との試合で使った。有効だった。
彼女は動き始めた。
◆
一本目の大樹を迂回した。順調だった。
二本目を迂回した。これも順調。
そして、宇安の背後に回り込み、距離が十歩ほどまで縮んだ、まさにその時。
宇安が目を開けた。
ゆっくりとではない。一瞬で。最初からそれを待っていたかのように。ある距離に達するのを。
彼の視線が直接、彼女の上に落ちた。
艾蕾拉が一瞬呆然とした。この距離、見えている。
彼女は自分を見下ろした。身体についた雨水。一滴ごとに、隠身した身体に当たって極細の水飛沫を作る。遠くからでは見えない。雨に紛れる。だが、この距離では、水飛沫の形と輪郭が見える。
彼女の身体の形が、雨水で描き出されていた。
彼女にはそれを考える時間はなかった。
宇安はもう動いていた。
普通の速度ではない。ありえない速度だった。一歩、二歩。木剣が振り上げられている。
艾蕾拉は本能で足元を叩いた。土の壁が地面から立ち上がり、彼女と宇安の間を遮った。
壁は人の頭より高く、厚い。
バン。
木剣が土壁を叩いた。
壁が砕けた。
穴が開いたのではない。全面が。彼女の前から後ろまで。全部、土塊になって、外側へ炸裂した。
「土壁がなぜ砕けるのか」を彼女が理解する前に、木剣の刀面が彼女の脇腹に平打ちされた。
刃ではない。面だ。だから切れたわけではないが、その力は。
艾蕾拉の身体が吹き飛ばされた。
五歩ほど飛び、泥地に叩きつけられた。少し滑ってから止まった。衝撃の瞬間に隠身が解け、彼女の身影が再び現れた。泥の中にうつ伏せ、肋骨のあたりに鋭い鈍痛、息ができない。
◆
宇安は止まらなかった。
砕けた土塊を踏んで歩いてくる。
艾蕾拉は泥に伏せたまま、眼前で足が近づいてくるのを見ていた。
彼女の手は激しく震えていた。だが、止まってはいけないと知っていた。
歯を食いしばり、体内の魔力を全て一気に催動した。少しずつ放出するのではなく、一度に大量に。こういう放出は消耗が激しい。だが速い。
掌が泥地に押し当てられる。
周囲の四本の木が同時に反応した。幹がかすかな呻きを上げ、枝条が肉眼で追える速度で伸長する。本来数ヶ月かかる成長が、数秒に圧縮される。太い枝が上から垂れ下がり、そのうちの一本が彼女の腰を捉え、振り上げた。
艾蕾拉はその枝に持ち上げられ、泥地から斜め上方へ放り出された。
同時に、他の枝、地面から伸び上がった藤蔓、膨れ上がった土塊。四方八方から、宇安の位置に向けて絡みついていく。
宇安は硬く受けなかった。
絡んでくる枝と土塊を見て、歩みを緩め、二歩ほど後退した。攻勢を順に緩める。
追わなかった。
艾蕾拉は二十歩ほど先の木の枝に落ちた。片膝をつき、一手は幹を支え、もう一方の手は脇腹を押さえている。雨水が髪を伝って滴る。呼吸が荒い。
◆
観戦平台の上。
「えっぐいわね〜。こんなふうに小娘をいじめちゃって〜」
ナナが横で言った。心配している口調ではまるでなかった。手にいつの間にかポップコーンの袋が現れている。温かく、まだかすかに湯気を立てている。雨の冷気の中でその温度が際立っていた。
彼女はその一部をアイレアに差し出した。
「食べる〜?」
アイレアがナナを睨んだ。
そして手を伸ばし。袋ごと持っていった。
ナナが一瞬きょとんとし、耳が少し伏せた。
それから笑って肩をすくめ、どこからかまた一袋のポップコーンを取り出し、胸に抱えた。
佩剣がその胸の中で一度震えた。ポップコーンの台にされていることへの抗議のように。
「動かないで」ナナが剣に向かって言った。「あんたは今、テーブル。動いちゃだめ」
佩剣がまた一度震え、それから動かなくなった。口調に不服が残っていたが。
「……」
◆
場の中央。
宇安がまた目を閉じた。
先ほどと同じく、その場に立ち、ただ聴いていた。
艾蕾拉は枝の上でうずくまり、呼吸を整えていた。肋骨のあたりはまだ痛い。骨折ではないが、内出血している。呼吸のたびに痛む。
まず、隠身術を再発動した。身形が空気の中で少しずつ淡くなり、輪郭が雨幕に溶けていく。
それから雨の中の宇安を見た。
そして考え始めた。
さっきの一回。彼が位置を発見し、接近し、土壁を砕いて、彼女を打った。彼女が回り込み始めてから吹き飛ばされるまで、大体一分半。
彼女は場の縁のタイマーを見た。一分四十秒。
頭の中で計算した。
宇安のテンポはこうだ。目を閉じて聴く、歩く、位置を確認する。どれも時間がかかる。そのあとで攻撃を発動できる。先ほどの一回は、彼におよそ一分半を消費させた。このテンポを保つのなら、次の攻撃は三分から三分半の間。その次は四分半から五分。
十分以内に、彼女は最多でもあと五回ほど耐えればいい。
一回ごとに躱せば、それで勝ち。
不可能な事ではない。
鍵は二つ。遠距離では彼の判断は方向だけ、だから距離を保つ。近距離では彼女を一撃で倒せる実力がある、だから絶対に十歩以内に近づかせない。
彼女は深く息を吸った。肋骨がまた痛んだ。
戦略は明確だった。
距離を保ち、移動し続け、彼の接近時間を最大化する。
枝から跳び下りて、泥地に無音で着地した。別の方向へ回り込む。
◆
半分が過ぎた。
艾蕾拉は移動を保っていた。位置を変えるたびに慎重に。木立が密集した場所を選び、雨霧が最も濃い場所を選ぶ。足音を抑えるため、泥ではなく溜まった水面を踏む。
宇安は依然として目を閉じて、ゆっくりと彼女の方へ歩いていた。速度は速くない。
すべてが、彼女の計算したテンポ通りに進んでいた。
彼女は遠くから宇安を観察していた。位置を確認、向きを確認。
そして。
宇安の身影が彼女の視界から消えた。
艾蕾拉が一度まばたきをした。
ほんの一度。
視線を元の位置に戻した時、宇安はそこにいなかった。
彼女は即座に周囲を掃った。雨が大きく、視界が悪く、木立が密集している。宇安がある大樹を通り過ぎる瞬間、そのまま直進せず、別の方向へ曲がった可能性が高い。
見つからない。
心拍が速くなる。
この雨の環境下では、一度目標を見失うと、再び捕捉するのは難しい。木々、雨幕、藤蔓、霧気。どの要素も視線を妨げる。
艾蕾拉は身を低くし、呼吸を止め、目が木立の中を高速で走査した。
数秒が過ぎた。それでも見つからない。
そして。
側面。
左側から危険な気配が襲ってきた。背筋全体が凍る、身体が脳より先に反応する、本能的な警告。
彼女に考える時間はなかった。
一本の木剣が、空を裂いて飛んでくる。誰かが握っている剣ではない。剣そのものが投げ出されていた。槍のように、剣尖が彼女の位置にまっすぐ向いている。
艾蕾拉は本能で反応した。風魔法。
彼女は自分を強引に吹き飛ばした。
強引に。代価を顧みず、ということだ。
風が彼女を横へ押し出し、まっすぐ飛んできた木剣を躱した。だが、押し出しの力が強すぎて、背中が側の樹幹に激突した。もともと内出血していた肋骨のあたりに、この一撃。目の前が一瞬暗転した。
だが、倒れている時間はない。
歯を噛み締め、指を地面に押し当てた。土魔法、封印。
泥地に落ちた木剣が土塊に包まれ、瞬時に高く積み上がった土堆が形成され、剣を中に封じ込めた。
それから木魔法を発動した。足元の樹の根が伸び上がり、彼女を木の高所へと運んだ。
彼女は樹枝にしがみついて、地面から人の背丈二人分ほどの位置に片膝をついた。息が激しく切れる。雨水と汗が混ざっていた。
警戒の目で下方と周囲を見つめ、待つ。宇安がどの方向から現れるかを待つ。
彼の攻撃のテンポが、突然変わった。
彼女の計算では、次の攻撃は三分くらいのはずだった。だが現在は二分。しかも攻撃方式が「接近しての打撃」から「投擲」に変わった。彼女の元の戦略。「距離を保つ」。は、投擲にはまったく意味がない。
彼女の手が、かすかに震え始めた。
◆
雨音の中、一つの身影が木の後ろからゆっくりと歩み出た。
宇安の足取りは急がない。
土堆に封じられた木剣の位置に向かって歩いていく。艾蕾拉を見ていないが、彼女が樹の上にいることは。明らかに把握していた。
「魔力が底をついてきたな」
彼は平淡に言った。声は大きくないが、雨音の中でもはっきりと届いた。
土堆の傍まで歩き、土堆を見た。
それから手を上げた。
一拳。振り下ろした。
ドン。
土堆の外層が直接砕けた。あれほど緻密な土魔法の封印が、ただの物理拳で砕かれた。土塊が四方八方へ炸裂する。
宇安は砕けた土堆から木剣を引き抜いた。
剣身に湿った土と屑がついていた。
剣を持ち上げ、軽く数度振った。泥が剣身から一塊、また一塊と落ちていく。さらに一度振り、剣面に残った屑も落とした。
木剣の表面が再び現れた。借りた、色の暗いあの木剣。刃はなく、光もなく、ただの硬い木の塊。
彼は樹上の艾蕾拉を見上げた。
「受け身すぎる」




