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猫管理人と騎士王の隠居生活  作者: tobyisme


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第十八章 闇温室

 温域は莉涅の説明で聞いていたよりも広かった。


 枝館群を出て藤蔓橋を渡ると、足元の根系の地面が徐々に薄くなり、普通の土と矮い草に変わっていく。前方の木が疎らになり、視界が開けた。


 一面の透明な気泡。


 大小さまざまだった。一軒の家ほどのものもあれば、一人がしゃがんでようやく入れる程度のものもある。草地と木々の間に散在していて、規則性はない。ただそこに在る。どの気泡も表面がわずかに起伏している。呼吸するように。莉涅によれば、あの半透明の膜は生きた樹脂生物で、内部環境に応じて通気量を自動調節するのだという。


 気泡の中の色はそれぞれ違う。


 一番手前のものは暗い赤みを帯びていて、膜面の向こうで空気がわずかに揺らいでいるのが見えた。熱波だ。少し先に青みがかったものがあり、膜面に薄い水霧が凝りついている。もう一つは表面に半透明の氷晶が張っていて、内部から冷たい白い光が漏れている。一つは絶えず色を変えていた。土色からゆっくり灰白へ、そして深い緑へ。何になりたいのか自分でも分かっていないもののように。


 そして一つだけ、色がないものがあった。


 真っ黒だった。


 膜面が黒く、内部も黒く、膜面にあるはずの呼吸の起伏すら微弱で、空間そのものが眠っているようだった。


「あの黒いのは何」


 ナナの視線はもうそこに固定されていた。


「闇温室です」


 莉涅は言った。


「光が一切ない空間です。中で育てているのは絶対的な暗闇の中でしか生育しない植物だけです」


 彼女は一拍置いた。語速がまた上がり始めていた。植物の話になると流暢になる、あの状態。


「入室後はいかなる光源も使用できません。魔法光も含めて。植物に触れる際は手の甲だけを使い、手のひらで掴むことは禁止です。暗闇の中では損傷の危険が高いので。エルフ族は感知力で判断できますが、闇温室の中では感知すら曖昧になります。上級の感知訓練場としても使われて――」


 彼女はまた速度を出しすぎたことに気づいた。声が小さくなり、耳の先が赤くなる。


「それと」


 少し速度を制御して続けた。


「闇温室には長年公示されている高額学分の任務があります」


「どんな任務だ」


 宇安は言った。


「中に一株の花があるんです」


 莉涅は言った。


「完全に無視されている時だけ咲く花です。どんな生き物であれ、意識を向けた瞬間に閉じてしまう」


 彼女の表情が真剣になった。


「任務の内容は――完全に咲いた姿を目撃し、その形態を記録すること。学分の報酬は非常に高いですが、これまで誰も達成していません」


 一拍。何か思い出したように付け加える。


「夜視鏡を持ち込む方もいます。完全な暗闇では、夜視鏡でもかろうじて輪郭しか見えませんが。それでも達成した人はいません。『見る』ことと『意識を向けない』ことを同時にはできないので」


 ナナの目が光った。


 宇安はその表情を見て、かすかな不安が胸の奥に浮かんだ。


「中に入りたい」


 ナナはもう翠葉簿を取り出していた。


 莉涅がためらった。


「闇温室は学分を消費しないと入れないのですが……」


 ナナの翠葉簿はもう光っていた。


「少し待っていてください」


 宇安は莉涅に向き直り、軽く頭を下げた。


「俺が見ています」


 莉涅は一瞬きょとんとして、それから頷いた。耳の先がまた赤くなった。



   ◆



 闇温室に足を踏み入れた瞬間、光が消えた。


 段階的な暗転ではない。一歩の間の断絶だった。背後の膜面が閉じた刹那、あらゆる光――陽光も、反射光も、空気中にかすかに漂う環境光さえも――すべて失われた。


 宇安の目は完全に機能を停止した。


 闇とは、見えにくいということではない。何もないということだ。「黒」ですらない。黒は少なくとも色だが、ここには色という概念が存在しない。ただの空。光のない空間が持つ、徹底した、清潔な空白。


 彼は二秒間立ち止まり、他の感覚に切り替えた。


 空気はわずかに涼しい。湿った匂いがある。水の湿り気ではなく、生きているものが呼吸する時に纏う湿度。足元は柔らかい土で、踏むとかすかにさらさらと音がするが、その音も何かに吸い込まれて遠くまで届かない。


 闇の中でナナの手が伸びてきて、宇安の手首に絡んだ。


「少し見える」


 彼女は言った。


「ぼんやりだけど、輪郭は分かる。ついてきて」


 手首を握る力は重くも軽くもない。「はぐれないで」という程度の力加減だった。


「あなたの右手二歩くらいの所に何かある。背が高くて、茎が曲がってて、先端が三叉に分かれてる。叉の先に一つずつ何かの塊がついてる。花芽みたいだけど、ちょっと違う」


 宇安は右手を伸ばした。手の甲を前に向け、ゆっくり近づける。


 指の甲が何かに触れた。


 冷たい。表面は滑らかではなく、極細の産毛に覆われている。植物というより、何かの獣の皮膚のような手触りだった。手の甲で輪郭を辿っていくと、茎が指の通過に合わせてわずかにしなった。押されたのではない。自分から動いた。触れられたことに反応している。


「逃げてるわ」


 ナナの声にわずかな興味が混じった。


「あなたの手が近づくと、反対側にしなるの」


 宇安は手を引いた。茎がゆっくりと元の位置に戻った。


 二人はさらに奥へ進んだ。ナナが手を引いて先導し、数歩ごとに低い声で周囲を描写する。


「左に背の低い群落。地面に貼りつくように生えてる。苔みたいだけどもっと厚い」


「前方に背の高いのが一株。表面に光る点がある。とても微弱で、自分で発光してるみたいだけど、光がこの空間から出られないみたい」


「ここに、すごく小さいのがある。根が土から出てて、丸まってる。自分を抱きしめてるみたいに」


 宇安は彼女の描写を聴きながら、時折手の甲を伸ばして触れた。一株ごとに感触が違った。温かいもの、氷のように冷たいもの、表面がぬるりと滑るもの、紙のように乾いたもの。一株は手の甲が触れた瞬間にかすかに震えた。驚いたような。そしてすぐに静まった。害意がないと分かったのだろう。


 ナナの手はまだ彼の手首にあった。二人の歩みはゆっくりだった。


 どれくらい経ったか分からない――十数分かもしれないし、もっと長いかもしれない――ナナの足が止まった。


「見つからない」


 挫折が声に滲んでいる。


「夜視があっても駄目か」


 宇安は言った。


「輪郭は見えるけど、ここには百株以上ある。どれがあの花か一つずつ確認できない。しかも――」彼女は一拍置いた。「私が本気で探してる時点で、向こうは閉じちゃう。見つけても、閉じた姿しか見られない」


 彼女は少し黙った。


 宇安は手首に絡んだナナの手の力が、わずかに強くなったのを感じた。


「宇安」


 彼女は言った。


「あなたの領域」


 宇安は分かった。


 何も訊かず、手を剣の柄に置き、下へ押し込んだ。


「お願い」


 ナナは小さく言った。


 領域が展開された。音もなく、光もなく。もとより何もない闇温室の中で、領域の存在感はさらに希薄だった。虚無の上にもう一層の虚無を重ねたような。



   ◆



 最初は何もなかった。


 それから、二時の方向に、光点が現れた。


 ごく微弱だった。現れた瞬間、宇安は暗闇に長く居すぎた目の錯覚かと思った。だが光点は消えなかった。むしろ、ほんの少しずつ明るくなっていく。強くなるのではない。無から有への「顕現」だった。ずっとそこにあったものが、ようやく自分を見せることを許した、というような。


 ナナの呼吸が止まった。


 宇安にも見えた。


 花が咲いていた。


 爪の先より小さい。透明な花弁が四枚。花弁一枚一枚の縁に、極細い光の筋が内側から滲み出している。発光ではなく蛍光。花の血管が光っているような。花芯は中心で、小さな星が花の真ん中に置かれたように光っていた。花全体が闇の中で微かに、しかしはっきりと光っていた。この暗闇の空間に存在する、唯一の確かなもののように。


 二人とも動かなかった。


 闇温室の中は、お互いの呼吸が聞こえるほどに静かだった。


「きれい」


 ナナは言った。


 いつもと違う声だった。軽やかさも、得意さもなく、ただ静かに二文字を置いた。声が大きすぎたら何かが壊れる、とでも言うように。


 宇安もあの花を、集中して見つめていた。呼吸がとても浅くなり、視線はあの微弱な光点に固定されていた――一瞬、領域を維持することを忘れそうになった。その走神に気づいた時、彼は剣の柄の上の手にもう一度力を入れ、領域を安定させた。


 彼は何も言わなかった。だが、ナナと同じように動かず、ナナと同じように息を潜めていた。


 領域を維持したまま、その場に立ち、花を咲かせ続けた。


 どれくらい経ったか分からない――光も音もないこの空間では、時間すらぼんやりしていた――ナナが静かに息をついた。何かを大切にしまい込むような、そういう息だった。


「行きましょう」


 彼女は言った。


 宇安は領域を収めた。闇は再び完全な闇に戻り、花は二人が見えなくなった場所で閉じた。


 ナナの手はまだ彼の手首にあった。彼女が彼を引いて、来た時よりも少し遅い足取りで戻っていった。



   ◆



 闇温室から出た瞬間、外の光が目を刺した。二人とも何度か瞬きした。


 莉涅が外で待っていた。二人を見ると、小さな声で訊いた。


「あの花、見えましたか?」


 ナナは一瞬間があった。


「ううん」


 彼女は言った。


「暗すぎて、何も見えなかった」


 莉涅は少し残念そうだったが、想定内という顔だった。


「みんなそう言います……」


 三人は歩き続けた。莉涅が先を行き、幾つかの植栽室の前を通り過ぎながら簡単に紹介する。霜温室の膜面に張った氷晶、嵐温室の膜面が微かに震えている様子。


 莉涅が少し前に出た時、宇安がナナの横に寄った。


 低い声で言った。


「あんたも、搞事をしないでいられるんだな」


 ナナが彼を睨み、顔を反対側に向けた。


 宇安の顔には笑みが浮かんでいた。さっきナナが「きれい」と言った時に見せたのと同じ種類の笑み。ごく淡いが、隠しきれないもの。本当に心地がよい時の笑い方だった。彼は視線を前に戻したが、口角の笑みはそのまま残っていた。


 ナナはふん、と鼻を鳴らした。耳がわずかに伏せている。


 だが、尻尾は一度だけ揺れた。

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