第十二章 帰還
フィナがクロウのために用意した休養場所は、永誓星の端にあった。
都市の祭りの喧騒からは離れている。静かな小屋で、窓の外には草原が見え、時折風が猫薄荷の叢を揺らして、さらさらと音を立てた。
宇安がドアを開けて入ると、クロウは机に向かっていた。帽子はきちんと被っている。机の上には分厚い書類が広げられ、手元のお茶はすでに冷めていたが、手をつけた気配はない。データに没頭していた。
「散歩は終わったか」
クロウは顔を上げずに言った。指がスクリーン上を素早く走っている。
「ああ」
宇安は中に入り、隣の椅子に腰を下ろした。
「具合は」
「予想より良い」
クロウは言った。
「傷はもう治った。報告も七割整理できた。残りは帰ってからやる」
机の上の書類を脇に押しやった。
その時、ドアがノックされた。
入ってきたのは見知らぬ人物だった。
深いネイビーの制服。体に合った仕立て。胸元に星環の形をした徽章が付いている。仲裁局の印だ。
年齢は若い。立ち姿が安定していて、眼差しは澄んでいる。
「クロウ管理人」
彼は言った。
「裂け目の対ミーム処理が完了しました。予定より一日早いです」
宇安とナナが目を合わせた。
「三日かかるって言ってたのに」
ナナは言った。
「もう終わったの?」
その人物が一歩前に出た。
「文離です。仲裁局の協調員で、今回の事後処理を担当しています」
彼は言った。
「仲裁局がこのウイルスの危険度を評価した結果、先延ばしにはできないと判断しました。他の案件を前倒しで片付けて、駆けつけました」
宇安を見た。
「宇安さんですね」
「ああ」
「ご協力に感謝します」
フミリは言った。
口調は社交辞令ではなかった。ただ率直に、そう言った。
「あなたがいなければ、クロウ管理人は今回、我々が到着するまで持ちこたえられなかったと思います」
「裂け目の処理は完全に終わったの?」
ナナが訊いた。
「確認済みです」
フミリは言った。
「通路は安全に開けます。ウイルスの付着はありません。お帰りいただけます」
クロウの方を向いた。
「報告書の完全提出は、いつ頃になりますか」
「帰ってから二日」
クロウは帽子を少し押し上げた。
「ミーム・ウイルスの完全な進化データ、対処の核心手段、母体の存在に関する推論、全て整理する」
彼は一拍置いた。
「ただし、仲裁局に提出する前に、必ず永遠記録庫に格納する。ウイルスは記憶と記録を消去できる。永遠記録庫の中のものだけは手出しできない。仲裁局の人間はそこから読み取ってもらう必要がある。情報の完全性を保証するために」
フミリは頷いた。
「承知しています。すでに手配済みです。報告が永遠記録庫に格納され次第、仲裁局から直接閲覧に向かいます」
彼は一瞬間を置いた。
「このウイルスが存在痕跡を消去できるということは、かなり長い期間すでに活動していた可能性がある。我々がまったく気づかなかっただけで」
部屋が静かになった。
「ええ」
ナナは言った。尻尾が軽く揺れた。
「だから急いでるのよ」
フミリは薄いデータチップをクロウに渡した。
「裂け目の認証コードです。これで直接ナナ管理人の宇宙への通路を開けます」
一同を見回した。
「他に何か対応が必要なことは?」
「ないわ」
ナナは言った。
「ありがとう」
「では、後続の封鎖確認に向かいます。何かあればいつでもご連絡を」
フミリはドアの方へ歩き、敷居のところで立ち止まった。振り返って宇安を見た。
「もう一度、ありがとうございます」
そして去った。
部屋は再び静かになった。クロウの機器だけが低く唸っている。
◆
クロウがデータチップを手の中で見て、それから顔を上げた。
「本当に残らないのか」
彼は言った。
「ここの騎士たちにも、駄猫にも——」
「クロウ」
ナナが言った。
「客観的に見て、騎士王の方がモフモフ隊隊長より——」
「クロウ」
ナナの尻尾が逆立った。
宇安は横目で彼女を一瞥し、口角がわずかに動いた。
それからクロウに向き直った。
「使命は終わった」
彼は言った。声は穏やかだ。
「今の俺はモフモフ隊隊長だ。給料なし、衣食住つき」
一拍置いて、ナナの方を向いた。
「そういえばナナ、待遇の改善は考えてくれたか」
ナナの耳がぴんと立った。一瞬きょとんとした。
「……交渉してるの?」
「訊いてみただけだ」
宇安は言った。
「考えておいて」
ナナは二秒沈黙した。尻尾がゆっくりと収まっていく。
「待遇はパフォーマンス次第」
彼女は言った。
「検討するわ」
クロウは宇安を見、ナナを見、帽子を押し上げて、口の中で何か呟いた。
「……まあ、いいだろう」
机の上のものを鞄に詰め込んだ。動きがいつもより少し速い。
「じゃあ行こう。僕の研究室がずいぶん待ってるんだ」
フィナがドアの脇から椅子の背に飛び乗り、四本の足で立って一同を見た。
「行きましょう。裂け目の口まで送るわ」
◆
裂け目は小屋の外の草地に開いていた。
向こう側にはナナの執務室の見慣れた青白い光。ウィンドウの光が裂け目を通して草地に差し込んでいる。
フィナは裂け目の傍らに立ち、クロウが先に入っていくのを見ていた。帽子が裂け目の縁でわずかに揺れ、そして消えた。
ナナが続く。踏み入れる前に振り返って、フィナを見た。
「今回はありがとう」
彼女は言った。
「あなたの宇宙、いいところね。猫薄荷キャンディも悪くなかった」
「当然」
フィナは言った。尻尾が揺れた。
「次はもう少し長くいらっしゃい」
ナナは頷いて、入っていった。
草地に宇安とフィナだけが残った。風が吹いてきた。猫薄荷の香り。遠くの都市にはまだ明かりが灯っている。祭りは終わっていない。
「行く」
宇安は言った。
「ん」
フィナは言った。
「忘れないでね。帰ってくること」
「約束した」
彼は言った。
フィナが見上げた。尻尾が軽く一揺れした。
「行きなさい」
宇安は裂け目に踏み入れた。
裂け目が背後で静かに閉じた。草地にはフィナだけが立っていた。風が白い毛を吹き上げ、陽光がその上に落ちて、明るかった。
彼女はしばらくそこに立っていた。
それから振り返り、草原の方へ歩いていった。日の当たる場所を探して、また日向ぼっこを続けるために。
◆
執務室に戻った。
見慣れた青白い光、十数枚の浮遊ウィンドウ、あのソファ、そして隅に置かれた濃色の軽鎧。
クロウが辺りを一瞥した。
「僕は先に帰る」
鞄を軽く叩いた。
「報告は二日以内に送る。待っていてくれ」
ナナが手を振った。
「行って。早くね」
クロウはもう自分で裂け目を開いていた。足が速い。帽子が裂け目の閉じる瞬間にわずかに揺れて、それきり見えなくなった。
執務室が静かになった。
ウィンドウの光が床に落ちている。隅の機器が低く唸っている。
ナナが自分の椅子に戻り、ウィンドウの山を一瞥した。尻尾がゆっくり揺れている。
「やっと帰ってきた」
彼女は言った。ようやく息がつける、という疲れが声に滲んでいた。
「こんなに留守にしたんだもの、タスクリストは天井まで積み上がってるわね」
宇安がまだ何も言わないうちに、柔らかい力で押されて、ソファに座らされた。
背もたれに体が預けられる。反応する間もなく、ナナがそのまま崩れるように彼の中に倒れ込んできた。頭が膝の上に収まり、尻尾がだらりと彼の腕に掛かる。
「はい、モフモフ隊隊長」
目を閉じた。声に気だるい尾音がある。
「職務を遂行しなさい」
宇安の視線が彼女を越え、空中で明滅する十数枚のタスクウィンドウに向かった。
それから膝の上の顔を見下ろし、手が自然に動き始めた。
「あれは」
ナナが呟いた。尻尾の先端が彼の手の甲を軽く叩く。
「明日。今日はもう疲れたの。休ませて」
声がさらに低くなった。
「寝るまで、そばにいて」
宇安は何も言わなかった。
手は止めなかった。
もう片方の手で、脇に押しやられたウィンドウを一枚引き寄せ、明日のタスクリストを静かに読み始めた。
ナナの呼吸がゆっくりと深くなっていく。体から力が抜け、耳がぺたりと伏せ、尻尾の揺れも止まった。
「宇安」
しばらくして、声が聞こえた。目はまだ閉じている。
「ん」
「何でもない」
彼女は言った。尻尾の先が、彼の手首にそっと掛かった。
「ここにいるか確かめただけ」
「いる」
彼は言った。
ナナはそれきり何も言わなかった。
宇安の手は止まらない。
ウィンドウの光が顔に落ちている。外の宇宙は広く、タスクリストは長い。
だが、執務室は静かで、暖かかった。
それだけで、十分だった。




