廻る世界に祝福を 8
「名誉の負傷だな」
「ううーんなさけな、はっくしゅ!!」
盛大なくしゃみをして、ロードライトは鼻をぐずっとすすり上げた。ミランダの腕に抱えられた格好になっているパールが、泣きそうな顔でロードライトの様子をうかがっている。
侍女の悲鳴を聞いて即座に駆けつけたミランダが目にしたものは、池の端に投げ出されて火がついたように泣いているパールと、びしょ濡れになりながら池から這い出てきた国王の姿だった。
「どうなさったんですか?」
狼藉者の類ではなく、ロードライトにも怪我らしい怪我はないと見て取って、ミランダはとりあえず肩から力を抜いた。
「鬼ごっこをしてたんだけどね。パールがそこの茂みに突っ込んでしまって」
指し示された茂みに、ミランダは目をやった。池の脇に生えているという点を除けば、特にどうと言うこともないものだ。まだ若い樹なので枝葉が伸びきっていない。ミランダの身長ならばその奥に池があることが分かるが、小さなパールには茂みしか見えなかったのだろう。そのまま突っ切った先にある池は、大人の胸あたりまで水深がある。
事態が飲み込めて、ミランダは息をついた。
「……パール様をかばわれて、ご自分が池に落ちてしまわれたんですね……」
「いやぁ、深い池で助かったよ! 浅かったら頭を打ってた。……パールに怪我は?」
建物から様子を見ていたらしい侍女が、乾いた布を山ほど持って駆け寄ってくる。ミランダがパールの前に膝をついて彼女を抱き上げ、痛い所はないですかと尋ねると、小さな王女は首を左右に激しく振った。
遅れて追いついてきた茉莉が足を止め、一瞥で事情を察して安堵の息を吐いた。そのままミランダに抱き上げられている娘に歩み寄り、無事を確かめるように頭を撫でる。幼い王女の泣き声が、小さなものに変わった。
「おとうしゃま、ごめんなしゃ……」
髪から滴り落ちている水を絞りながら、ロードライトは笑って首を左右に振った。
「ああ、気にしなくていい。パールに怪我がないならよかった」
この池は湧き水を引き入れて作っているので、水温が気温より遥かに低い。パールよりもロードライトの方が重症だと見て取った茉莉が、眉根を寄せてロードライトの方に駆け寄った。
「心の臓が凍らなくて何よりだ。体は平気か?」
「僕の方もなんともな……」
ビュウ、と音を立てて強烈な風が庭を吹き抜けていったのはその時だった。その場にいた全員が思わず身を縮めてしまうほど冷たかったそれは、国王にやっかいなものをもたらしたらしかった。
「はっくしゅん!!」
盛大なクシャミと同時に、ロードライトが大きく体を震わせ、両手で体をさすった。
「あー。まずい、かも、しれない……」
「……見れば分かる」
唇が紫色になっていると指摘して、茉莉が乾いた布をロードライトの頭から盛大にかけ、濡れて貼り付いたシャツを脱がしにかかった。ぎゃーぎゃー騒ぐ夫に構わず手際よく着替えにかからせる王妃をぽかんと見てから、侍女とミランダは慌てて彼らに背を向けた。
「っくしゅん!」
威勢のいいくしゃみがもう一回。ぐすぐす泣いているパールをゆすり上げながら、ミランダは侍女と顔を見合わせた。
一夜明けてみると、案の定、ロードライトは盛大な風邪をひいていた。目はうるみ、鼻と頬は赤くなり、頭が痛いせいで発言にも覇気がない。
「誰かパールを下がらせてくれ。移ったらいけないから」
ケホケホと咳き込んで、ロードライトは力なく手を動かした。王妃の目配せを受けて、侍女がミランダからパールを受け取る。
「おとうしゃまぁ」
「いい子だから、今日はカシアと遊んでもらいなさい。元気になったらまた外で遊ぼう」
未練たらたらの顔をしたまま、パールは侍女に抱かれて部屋を出て行く。パタンと扉が閉じられてから、ロードライトはその場に突っ伏した。
「食べちゃいたいほど可愛い……離れるのが辛い……。ああ、パールがどこかに嫁に行くことになったら、本気で寿命が縮むかも」
「アホか」
夫の嘆きを一言ですっぱり切り捨て、茉莉はロードライトの肩を押した。
「ほら、横になれ。早く良くならないと、全快した後で地獄を見る羽目になるぞ」
妻の突っ込みはもっともなので、ロードライトは大人しくベッドに横になった。毛布を引き上げ、水で冷やした布を額に乗せる。冷たさが気持ちよかったのか、ロードライトは表情をくつろげて大きく息を吐き出した。熱のためにぼうっとした目が、ミランダの方に向けられた。
「済まないけど、治るまで仕事を頼む。手をつけられないと思うものは、放っておいていいから」
「分かりました」
「それから」
ぐす、と鼻をすすり上げ、ロードライトは弱く微笑んだ。普段は人を思わず固まらせるほどの美貌も、鼻が赤らみ目が潤んでいる状況では威力が半減している。ミランダは呼ばれるままに歩み寄り、ロードライトの横に立った。
うるんだ目でミランダを見上げ、ロードライトはもう一度鼻を鳴らした。
「……覚えておきなさい。どうしてもっていう時は、僕の事は思い切ってしまって構わないよ」
「え……」
思いも寄らない事を言われ、ミランダはぽかんと主を見た。焦点の合わない目でミランダを見据え、ロードライトは力のない声を出す。
「カーティスが前に言ってただろう。お前がもし咎人として罪を問われる事があったら、首を切られる前にお前を抱えて国外に逃亡すると」
「……」
三年前のことは、今でもはっきり覚えている。血の匂いと疲労で、覚えている光景そのものは元からかすんではいた。しかし、自分を抱きしめて二度と放さないといわんばかりにしっかり抱え込まれたことや、耳元で響いた力強い声は、いつでも思い返すことが出来る。
「同じようなことがカーティスに起こって、一緒になるには僕を見捨てなくてはいけないってことになったら、ここに未練を残さなくていいから」
「へい……」
ミランダのつぶやきは、国王の盛大なくしゃみにかき消された。
「いろいろ台無しだな」
ぼそりと茉莉がつっこみを入れる。あははねえ全くだよと乾いた笑いを残して、ロードライトは話を続けた。
「前みたいに誤解されるといけないから付け加えるけど、別にミランダがいなくなっても構わないと思っているわけじゃないからな。お前は僕の大事な片腕だ。いなくなられると、とても困る。ただ、ずっとそんな顔をさせておくくらいなら、片腕を失う痛みのほうがマシだと思っているだけで。……そうさせないように僕が口を出してもいいんだけど、お前はそれを望まないだろう?」
「陛下」
「たまにはわがままになりなさい。どうしても譲れないものを譲れないと主張したって、誰もお前を無様だと笑ったりはしないよ」
慈しみの込もった視線が優しい。ミランダは黙ってうつむき、蚊のなくような声で「はい」とつぶやいた。
熱はロードライトの意識を相当疲れさせていたのだろう。言い終わるなり、国王は目を閉じて、浅く規則正しい呼吸を始めた。
茉莉が長い袖を手で押さえ、頬と首筋に浮かんだ汗の玉を静かにぬぐってやっている。
「ミランダ殿」
「あっ、はいっ」
また浮かんでしまった涙をごしごしとこすって、ミランダは顔を上げた。茉莉はロードライトの寝顔を真剣に見ている。やがてロードライトの様子が安定していると確信したのだろう。息をついてから、閉じられたまぶたの上に軽く口づけ、顔を離した。
「話は変わるんだが、夫がこの調子だと、明日の舞踏会も休ませた方がいい……だろうなあ」
「あ、ええはい。そうです、ね……」
ふむとつぶやき、茉莉は顎に手を置いて思案するそぶりを見せた。
「宰相の誕生祝いに国王が顔を見せないのでは申し訳ないな。私だけでも出た方が示しはつくのだろうが……パートナーにすっぽかされた者同士で、出るか?」
ちらり、と視線を送られる。思いがけない申し出に、ミランダは目を丸くした。
「わっ、私ですか!?」
「一人で出るのは寂しいな。少し心細くもあるし」
茉莉の目が、心なしか輝いている。悪戯を思いついた子供のような表情になって、茉莉はミランダの顔を見上げた。
「私には、エスコートしてもらっても悪い噂が立たないほど血筋の近い人間はいない。ミランダ殿が一緒に行ってくれるなら、これ以上ないというほど心強いのだが」
「は、あ。……支障はないと思いますが」
言われてみれば悪くはない案かもしれない。王妃を一人で社交界に放り出すのは、確かにミランダも少々心配だった。勿論、公務はそつなくこなせはするだろう。しかし、何の後ろ盾も持たない異国の王妃は、社交界では軽く扱われている節も否めないのだ。本人の努力だけではどうにもならないことも、宮廷にはまた数多く存在している。
「ええと、では。謹んでエスコートさせていただきます」
「何をボケた事を言っている?」
は、と顔を上げたミランダの手を取り、茉莉は極上の笑みを顔に浮かべた。
「誘ったのは私なのだから、私がエスコートする側に回るのが筋だろう。――知っているか? これは元々、東照では男物の服なんだ。まあ、本番ではもう少し分かりやすい服を用意するが」
「は?」
「こういうのはなんと言うんだったかな。瓢箪から駒……いや、不幸中の幸いか。いきなりこちらの衣装とあわせるよりはしっくり来るだろう。ああ、一石二鳥かな」
ヒョウタンとは何だろう。目をぱちくりさせているミランダの手を持ち上げ、茉莉はそこに唇を寄せる振りをする。
「臨時の代役だから、振りをするだけで勘弁してもらおうか。ええと、確か――『この花のような白い手の甲に口づける事を、お許しいただきたいのですが』だったか? 夫婦だから必要ないだろうと言うのに、ロードは毎回必ずこれを口にするんだが」
「あ……ってます、けど」
「返事は?」
「えっ」
「……断るのか?」
王妃の声のトーンが沈む。瞳が伏せられ、表情がかげる。ミランダは慌てて首を左右に振った。
「め、滅相もありません」
「よし、決まりだ。安心したぞ、せっかく作らせたものが無駄になるところだった」
ミランダは思わず眉をひそめた。――何か今、引っかかることを聞いた気がする。
「作らせたもの?」
「そうだ」
茉莉がにっこりと笑う。その笑みにどこかカレンに通じるものを感じ、ミランダは思わず一歩退こうとした。
だが、茉莉は逃亡を許さないといわんばかりに、ミランダの手首をしっかり捕まえている。
「さて、ミランダ殿もお忙しい事だし、さっさと済ませるか。ディーン殿は?」
ミランダを引きずって行ってそのまま扉を開き、茉莉はすぐ横に控えていた騎士に尋ねた。騎士はぴしりと姿勢を正してから、王妃に敬礼する。
「はっ、冬薔薇の間で準備をなさっております」
「ありがとう」
涼やかに微笑むと、騎士の空気がすっと緩む。顔に笑みを浮かべたまま、茉莉は夫が眠る寝台を振り返った。
「しばらく空けるから、侍女が戻って来るまで、中に入って様子を見ていてやってくれ」
「はっ!」
「さあ行こう」
「えっ? えっ?? えっ!?」
顔に疑問符を浮かべたままの義妹を、茉莉は上機嫌で引っ張って行ってしまう。その様子を、残された騎士はただ無表情に見送った。




