第9話 百十二件
シャルンホルスト家のお茶は、庭を見ながらでございました。
奥様は庭の話を半刻ほどなさって、それから、こう仰いました。
「今年は、リンドナー様のほうが後でしたね」
わたくしは、茶碗を置きました。
「さようでございましたか」
「半日ほど。……ご存じないのね」
「存じません」
「そう」
奥様は、それきり順序の話をなさいませんでした。庭の縁の花が、去年より丈が伸びたという話に戻られました。
帰り際、玄関で、こうだけ仰いました。
「六年、うちが後だったのは、ありがたく思っておりましたよ」
家に戻りましたら、ソフィ様がいらしておりました。
花の籠はお持ちでございませんでした。手ぶらでいらして、応接の間に座って、背を伸ばしていらっしゃいます。
「ごめんなさい。急に」
「いいえ」
「あの、わたくし、三日眠っておりませんの」
目の下に隈がございました。
「宛名を書いておりましたの。夏の見舞いのぶんを。三十七軒でしょう。二日あれば足りると思っておりましたのに、半分も書けなくて」
「十八軒ほどでございますか」
「十四軒ですわ」
ソフィ様は、そう仰って少し笑われました。
「笑うところではございませんわね」
「いいえ」
「ヴェルナーさんが、こちらでお書きしますと仰いましたの。わたくし、それでいいですと言ってしまって。……言ってしまってから、それでは何のためにお引き受けしたのか分からなくなりまして」
ソフィ様は、膝の上で指を組んでいらっしゃいました。
「マルグリット様に、申し上げてまいりました。わたくしには無理でしたと」
「さようでございますか」
「怒られるかと思いましたけれど、そうでもございませんでしたの。ああそう、と仰っただけで」
わたくしは、お茶をお出しするように言いました。ソフィ様はそれを両手でお持ちになって、しばらく黙っていらっしゃいました。
「あなた、六年もなさっていたのでしょう」
「はい」
「わたくし、二月でございました」
それから、こう仰いました。
「お花は気持ちだと申し上げましたわね。あれ、間違っておりましたわ」
「いいえ。花は気持ちでございます」
「でも」
「気持ちのほかに、日と、順と、忌みがございます。花が気持ちであることは、変わりません」
ソフィ様は、茶碗を置かれました。
帰り際、玄関で振り向いて、こう仰いました。
「三十七軒、六年。……よく続きましたわね」
二度目でございました。同じことを仰るのは、本当にそう思っていらっしゃるからでございましょう。
その日の夕方、文机の手控えを開きました。余白のほうだけを書き写した帳面で、六年ぶんで頁は三十七ございます。わたくしは、一件ずつ数えました。
――甘いものを断っておいでのこと。
――喪は三年。明ける年まで白花を用いず。
――シャルンホルスト家より先に。逆にすると気づかれる。
――花は丈の短いもの。玄関が低いお家ゆえ。
――礼状は奥様がお書きになる。ご当主宛にすると回り道になる。
――ご長男が去年から王都。宛名を家名だけにすると届かない。
――犬を飼っておいでゆえ、百合を避ける。
数え終えるのに、半刻かかりました。百十二件でございました。
六年で百十二件。年に十八件ほど、何かを書き足していた計算になります。ひと月に一件半でございますから、多いとも少ないとも申せません。ただ、三十七軒に対して百十二件でございますから、一軒あたり三件でございます。
どの家にも、三つずつ気をつけることがある。
そう思って眺めますと、当たり前のことのように見えます。当たり前のことを百十二件おぼえていたのだと言われれば、そのとおりでございます。わたくしは帳面を閉じました。
その翌日、ユリウス様がいらっしゃいました。
三度目でございます。今度は、玄関で名乗る前に取り次ぎの者が呼びに来ました。うちの者も顔を覚えたのでございましょう。
「花季の返礼が、二十四だ」
外套を脱がずに、そう仰いました。
「三十七軒に出して、二十四。新年より減っている」
「さようでございますか」
「シャルンホルストとリンドナーが、両方来ていない」
わたくしは頷きました。
「ヴェルナーが、順序のことを言っている。荷を立てる順で、着く順が変わったと。……そんなことで、来なくなるものか」
「そういうこともございます」
「そういうことで、来なくなるのか」
ユリウス様は、少しお声を高くなさいました。この方が声を上げられるのは珍しゅうございます。困っていらっしゃるのだと思います。
わたくしは、膝の上で手を重ねました。
「先に着いたほうが、上でございます。六年、リンドナー様が先でございました」
「……なぜ言わなかった」
「申し上げました」
ユリウス様は、口を開けて、それから閉じられました。
覚えていらっしゃらないのだと思います。二月前のことでございます。応接の間で、順序のことを申し上げました。「隣り合っているお家がございまして、どちらを先にするかが決まっております」と、そう申し上げました。
覚えていらっしゃらないのは、聞いていらっしゃらなかったからでございます。聞いていらっしゃらなかったのは、要らないと思われたからでございます。
「……そうか」
ユリウス様は、卓を指で二度叩かれました。
「礼をする」
「はい」
「金を払う。書いてくれ。うちに来なくていい。紙を送る。ひと月にいくらでも、そちらの言い値でいい」
わたくしは、しばらく黙っておりました。黙っておりましたのは、腹が立ったからではございません。何をどう申し上げれば伝わるのかを探して、見つかりませんでした。
「お断りいたします」
「金額の話ではないのか」
「はい」
「では何の話だ」
何の話でございましょう。
わたくしは、六年ぶんの覚え書きが百十二件だと今日はじめて数えました。数えるまでは自分でも数を知りませんでしたし、数を知らないものに値をつけることはできません。値をつけられるとしたら、それは紙の枚数でございます。
「わたくしが書きますと、来年また同じことになります。書く者がそちらにいらっしゃらなければ、同じでございますので」
ユリウス様は、それには答えられませんでした。
帰り際、玄関でこう仰いました。
「花季の宴を開く。母上が、ぜひにと」
「さようでございますか」
「うちにも招きが行くはずだ。……来るか」
「伺いません」
即答いたしました。自分でも少し驚くほど早うございました。
「なぜだ」
「わたくしが伺いますと、みなさまが順序の話をなさらなくなります」
数えました。百十二件でございます。
耳が遠くていらっしゃる。犬がおいでなので百合は避ける。ご長男が王都なので、家名だけの宛名では届かない。——どれも、当たり前のことでございます。当たり前のことを百十二件おぼえていた、と言ってしまえばそれまでで、実際リーゼ本人もそう思っております。値のつけようがないものは、たいてい、そうやって軽く見られます。
ユリウス様は「言い値でいい」と仰いました。三度目のお願いでございます。断り方は、三度とも静かでございました。
次回、第10話「花季の宴」。第二章の締めでございます。招きは三十七。さて、椅子はいくつ埋まりますでしょうか。
——ブックマークと☆は、余白の百十三件目に書き留めておきます。「この方は、最後まで読んでくださった」と。




