第12話 余白の正体
十九軒を回るのに、ふた月かかりました。
北の付き合いは、南とは違います。冬に道が閉じますので、夏のうちに二度ぶんお出しになるお家がございます。二度ぶんを一度に受け取るのは、受け取る側にも支度が要ります。ですから、いつ二度ぶんにするかは、家ごとに決めごとがございます。
その決めごとが、どこにも書いてございませんでした。伺えば分かります。伺うのに、十九軒でふた月でございます。わたくしは、伺ったことを帳面の下の段に書きました。
一軒目で三件。二軒目で一件。三軒目は、ご当主が耳の遠い方でいらして、お話を伺うのに二日かかりました。四件でございました。
三軒目のシュタイン男爵家では、こういうやり取りがございました。
「エッダ様のところの、新しい方ですか」
「リーゼと申します」
「大きな声で」
「リーゼと申します」
「ああ。……前の方は、右からお話しになりましたよ」
「右から」
「こちらの耳が、右のほうが聞こえますのでね。四十年、ずっと右からでした」
わたくしは、ご当主の右へ回りました。
それから、こう伺いました。
「冬のお荷は、いつ頃がよろしゅうございますか」
「軽いのがいい。雪のあいだは、重いものを運び込むと家の者が難儀します」
その二つを、下の段に書きました。
――話は右から。冬の荷は軽く。
二日かけて、二行でございます。ふた月で、五十七件になりました。
あるとき、レオンハルト様が古い帳面を持っていらっしゃいました。
「蔵にございました。あの者が置いていったものです」
四十年勤めたという、その方のものでございます。開きますと匂いがいたしました。紙が古うございます。
付き合いは、いまより多うございました。三十一軒ございます。北の街道が細くなる前は、行き来がもっとあったのだと伺っております。
下の段は、びっしりでございました。
――ご当主、耳が遠くなられた。話は右からなさるとよい。
――先の奥様、産後お体を悪くなさった。冬の荷は軽く。
――このお家の下の娘御、字を習い始めた。名を書いて差し上げると喜ばれる。
品目のことは、ほとんど書いてございませんでした。人のことばかりでございます。わたくしは、頁を繰りました。
二十枚ほど繰ったところに、クラーゲン侯爵家の欄がございました。
――先方、代筆。文面は毎年同じ。
これが十四年ぶん続いております。十五年目から、書き方が変わっておりました。
――先方の書き手、替わったか。荷の立て方が変わる。当家だけ先に立つ。
その下に、こう書いてございました。
――こちらの荷が遅れて着くのを、向こうは知っていた。知っていて直したのは、これが初めて。
わたくしは、その行を何度か読みました。六年前の秋でございます。わたくしは地図を見て、北は遠いと気づいて、荷を八日早く立てました。それだけのことでございます。それだけのことを、四十年勤めた方が書き留めておいででした。
次の行に、もう一行ございました。
――礼状は自筆にすべし。相手も自筆なれば。
わたくしは、自分の手控えのことを考えました。
百十二件でございます。数えた日には、当たり前のことを百十二件おぼえていただけだと思っておりました。
けれども、この古い帳面の五十七件も、当たり前のことでございます。耳が遠い。産後お体を悪くなさった。字を習い始めた。どれも、その家の方にとっては当たり前のことでございます。
当たり前のことを、家の外の者が書き留めている。それが余白でございました。
品目の欄は、何を贈ったかの記録でございます。余白の欄は、誰に贈ったかの記録でございます。品目は写せます。誰に、は写せません。
「リーゼ様」
レオンハルト様が、戸口に立っておいででした。
「その頁を、六年前から探しておりました」
「探しておられましたか」
「あの者が里へ帰る前に、一度だけ申しました。北へ荷を早く立ててくれる家がある、と。私はそのとき、ありがたいことだと申しました」
「はい」
「あの者は、こう申しました。ありがたいのではございません、あちらに数えている者がいるのでございます、と」
わたくしは帳面を閉じて、それからもう一度開き、その行を見ました。
四十年勤めた方の字は、わたくしの字とは似ておりません。似ておりませんが、書いてあることの並びが同じでございます。
「レオンハルト様。今年の春に返礼のなかった二軒は、どちらでございますか」
「ケラー家と、ベルクマン家でございます」
わたくしは、古い帳面の頁を繰りました。
ケラー家の欄がございました。下の段に、こう書いてございます。
――このお家は、初穂を先にお供えになる。届くのが早すぎると、供える前に開けることになって困られる。
「春のお荷は、いつお出しになりましたか」
「例年どおりでございます。……日付は写しにございましたので」
「例年どおりですと、早うございます」
「早い」
「四十年勤めた方は、ケラー家だけ三日遅らせておいででした。日付の欄は、そう書いてございます。写しには、その三日が理由なしで載っているはずでございます」
レオンハルト様は、卓の上に肘をついて、しばらく黙っておいででした。
「三日を、揃えてしまいましたか」
「揃えるのが、普通でございます」
揃えるのが普通でございますから、揃えた方は間違っておりません。間違っていないのに、返礼は来ません。
その日の夕方、南から手紙が届きました。
クラーゲン侯爵家からでございます。
差出は、ヴェルナーでございました。
本作の芯が開く回でございます。
四十年勤めた方の帳面には、品目のことがほとんど書いてございません。書いてあるのは、耳が遠くなられたこと。産後お体を悪くなさったこと。下の娘御が字を習い始めたこと。——品目の欄は「何を贈ったか」の記録で、余白の欄は「誰に贈ったか」の記録でございます。品目は写せます。誰に、は写せません。
そして、こう書いてございました。「ありがたいのではございません、あちらに数えている者がいるのでございます」。六年前、地図を見て北は遠いと気づいただけの十四の娘を、四十年の目が、ちゃんと見ておりました。
次回、第13話「教えていただけませんか」。南から、八日かけて、あの方が頭を下げにまいります。




